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仏領インドシナ(ベトナム)にあった日本商社・大南(ダイ・ナム)公司と社長松下光廣氏のこと その(2)

 その(1)からの続きです。

 サイゴンへ本社を移し、益々絶好調だった大南公司・松下光廣氏でしたが、1937年日本へ一次帰国した時、仏印当局から「スパイ容疑」で事務所・自宅が家宅捜査にあい、仏印入国を拒否されます。
 この年は、5.15事件で連座逮捕された大川周明氏が5年刑期を終え出所して来た年です。出所直後の10月に早速、満鉄・陸軍・外務省協同出資の「東亜経済調査局付属研究所」、通称「大川塾」の開所に向け動き出したこの年に、日本で松下光廣氏と大川周明氏が面会を果たしていました。

 「それまで右翼的国家主義団体とのつながりはいっさい持たなかった。ただ、大川博士だけは例外、政治活動を抜きにして、個人対個人の交友関係を結んだ。」      『天草海外発展史』より

 松下氏はベトナムに居た頃から大川周明氏の著作を熟読していたそうで、この後1940年4月から大川塾卒業生をベトナム・タイ大南公司社員として大勢引き受けたのです。
 大川周明氏もクオン・デ候のことを「南一雄(みなみ かずお)」君と呼び、非常に親しい間柄にあった支援者のお一人です。

 フランス本国はドイツに降伏して、ペタン元帥率いる「ヴィシー政府」仏印はドク―総督に代わりました。これによって日本軍の仏印進駐が可能となり、やっと松下光廣氏の『スパイ容疑』が解除されて仏印入国が許可されます(1941年7月)。
 この時の松下氏のサイゴン復帰を画策したのは、少将肩書で仏印国境監視委員の海軍代表だった中堂観恵(ちゅうどう かんけい)氏。この時期以後の、日本軍(南方軍・寺内寿一司令官)の仏印に於ける怒涛の動きを支えた数々の下仕事(道路や港湾、空港の整備と新設工事、備品調達と運搬手配、労働者集めと管理業務等々、)の仕切り適任者を考えたら「大南公司」と「松下光廣氏」以外にはいませんね。。。😅 
 この辺りは、クオン・デ候自伝「クオン・デ 革命の生涯」(1957)第17章「ベトナム復国同盟会」と第18章「東京の現況」の内容と、明(マ)号作戦」(1945年3月9日)呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏らベトナム人抗仏活動家たちの行動、日本軍との連携、独立準備の足跡は、数々の史実中で完全に一致していることからも明確かと思います。

 「「大南公司」の社長、松下光廣は、”大南王国”と呼ばれるまでにインドシナで成功し、軍部とも密接な関係を保ち、またクオン・デ候の協力で実質的な支援者でもあった。
 北部で親日家の最大のグループ、復国同盟(Phuc Quoc)、南部で大越同盟(Dai Viet)他多くの独立運動結社を支援、
カオダイ教(Cao Dai)、ホアハオ教(Hoa Hao)を日本側に取り込んだのも彼とされている。」
       『ベトナム1945』より      

 東京(クオン・デ候)ーベトナム(独立運動家たち)間の情報・連絡の下仕事の大枠を取り仕切ったのが「大南公司」と「松下光廣氏」
 そういえば、松井石根予備役大将(東京裁判で絞首刑)が1943年7月にベトナムを訪れた時に、
 「自分はクオン・デ候の友人であり、日本の目的は、ベトナムをフランスから解放することにある、(中略)と過激な演説を行った」
 と、このベトナム現地メディア・ジャーナリスト向け記者会見という興行(イベント)を仕切ったのも『大南公司』でした。
 
 それに加えて、ベトナム活動家とベトナム人民の全面的協力を得て大成功した日本軍軍事クーデター「仏印武力処理」、別名「明(マ)号作戦」に関しても、
 「米国OSS(米戦略情報部)は、松下がビジネスマンの仮面の下に、1930年に蓑田不二夫総領事の下で諜報活動を始め、1937年にフランス当局から反仏運動を行ったとして国外追放になり、1941年(日米)開戦とともにインドシナに戻って、横山公使の文化協会、安部隊、憲兵隊と協力したと報告している。」
        
『ベトナム1945』より

 と、この様にアメリカの報告書にも松下光廣氏は登場します。(流石アメリカ。。。『大南公司の松下光廣』を既にピタリとマークしてました。😵‍💫😵‍💫😵‍💫)

 「明(マ)号作戦」後のクオン・デ候のベトナム帰国は、日本(のある派閥)によって阻まれました。(⇒この詳細は、こちらを1945年4月誕生 独立ベトナム内閣政府|何祐子|note ご参照ください。)
 ベトナム側は『独立宣言』を既に発してしまいましたので、火中の栗を拾って初のベトナム独立政権首相に就任したのが、儒学者の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏でして、このキム氏も、「1943年秋の(仏印当局による)大規模パージの対象」となった時に、「同年11月、日本の憲兵隊と「大南公司」の庇護下」に入っていたそうですから、、、
 結局当時、軍・官・民ひっくるめた『仏印現地の日本側代理人』として、
常に『大南公司』が縁の下にいたと言えると思います。
 
 ところで、明号作戦後のベトナム独立後初のキム首相の新政権は、様々な要因により軌道に乗りませんでした。

 「頑なにクオン・デの帰国を拒んだ第38軍司令官、土橋勇逸も少しクオン・デへの同情心が起きた。(中略)…バオ・ダイにクオン・デの帰国について相談した。」           『安南王国の夢」
 
 結局、頑固だった日本の「クオン・デ反対派」は折れて、クオン・デ候のベトナム帰国がやっと決定します。1945年7月30日、東京で鈴木貫太郎内閣主宰「クオン・デ候壮行会」が開かれました。

 「その当時のサイゴンでは、今度こそ日本からクオン・デ殿下が帰って来て、即位するものとして、市民たちが街路に緑地赤玉の『越南復国同盟会』の旗をかたどった大歓迎アーチを作って、その日を待望していた」

 歓喜に湧いたベトナム国内当時のサイゴンの様子を、この様に後に回想したのは、大川塾(=東亜経済調査局付属研究所)の第一期卒業生で大南公司社員(後に副社長)の西川寛生氏でした。

 クオン・デ候は、7月末より羽田でベトナム行き飛行機が飛ぶのを待っていました。けれど、広島・長崎へ原爆が投下され8月15日に日本は敗戦、飛行機は飛びませんでした。

 1945年8月の日本敗戦以後は、、、
 北部で胡志明(ホー・チ・ミン)氏が『再・独立宣言』発布、南部はアメリカの後押しと支援を得たド・ゴール将軍が、ペタン元帥に代わって再び仏印利権を取り戻すべく戻って来ました、、、ベトナムに居た日本軍と日本人らの引き揚げが開始されます。

 「フランス当局にスパイ容疑で国外追放になっていた松下光廣のサイゴン復帰に尽力した中堂観恵が、(中略)…一番心配していたのが「戦犯問題」である。
 …中堂は、南方軍の幹部や担当者に、引き揚げ用の輸送機に松下を搭乗させるよう頼んで回った。
 …取敢えず屏東(へいとう、台湾)まで送り、状況によってはさらにその奥地に身を潜めれば、…松下の安全は確保できる。」       
『安南王国の夢』より

 8月22日の早朝にサイゴンを脱出し屏東飛行場に着いた松下氏は、ジャングルを歩き続けて台北に出ます。潜む事6カ月間の後、引き揚げ船『氷川丸』に乗船して広島県大竹港に着いたそうです。(同乗予定だった大川塾卒業生で大南公司社員の三浦琢二氏は、この後サイゴンに残って日本軍の阿片始末をした顛末は、こちら⇒ 日本陸軍・山下大将のベトナム埋蔵金|何祐子|noteの記事に書いてます。。。😅)

 そうして日本では極東国際軍事裁判(東京裁判)が始まり、大川周明氏を含む多くの日本人同志が逮捕、抑留されました。

 「わしが、戦争犯罪人であるはずはない。捕虜虐待、スパイ行為、そんなことなど関係したこともない。日本人として、またベトナム民衆の友として、当然の義務を遂行するため戦争に協力しただけではないか。」
         
 決意した松下氏は、「口述書を持参して、連合国軍総司令官部に自首したい」と外務省に自ら出頭したそうです。しかし何故か、占領軍アメリカは松下氏を逮捕しませんでした。(アメリカは長い事「大南公司と松下光廣」をぴったりマークしてたのに。。。?😵‍💫😵‍💫) 

 そして、日本敗戦後もずっと混乱が続いていたベトナム国内の、カオダイ教范工則(ファム・コン・タック)から連絡が来ます。
 「…1950年5月。(中略)…クオン・デはベトナム帰還の最期のチャンスだと判断する。相談を受けた松下光廣たちは、(中略)…松下と西川ら大南公司グループが中心になって、密かにクオン・デの帰国準備を行うことになった。」
            『安南王国の夢』より

 クオン・デ候は、「全越南民族に告ぐ」と題した帰国声明文を用意して極秘に6月11日神戸港からバンコク行の中国船「海明号」に乗りました。しかし、渡航情報が漏れてバンコック港で上陸を拒否され、仕方なく横浜港に引き返したのです。
 この帰国声明文「全越南民族に告ぐ」は、バンコック上陸後に日越2か国語で新聞で公表する段取りだったそうでして、大南公司の西川寛生氏は、
 「この和文原稿は筆者(西川)が起草し、後にベトナム語に翻訳されて、現地の同志に広く配布された」
    西川寛生著『大川先生とクオン・デ殿下』より

 こう言いますが、私の知る限りベトナムでも日本でも今までその存在すら聞いたことがありません。しかし幸運な事に、松下光廣氏自身がこの原稿を大事に保管し生前に「天草海外発展史」の著者北野典夫氏に渡していました。全文はとても長いので、また後日別途記事にしたいと思います。

 その(1)で触れたように、クオン・デ候は1951年4月6日、東京飯田橋の日本医科大学第一附属病院で、69歳でお亡くなりになりました。

 「…臨終と葬儀には、戦前戦中を通じてさまざまな形でクオン・デ候と関わった多くの人々が訪れたという。
 松下光廣、小松清他、候を最後まで世話した人々を喪主として、護国寺で行われた葬儀に参列した人々には、
元仏印大使府特命全権大使芳澤謙吉、小松近江の姿もあった。」
           『ベトナム1945』より

 クオン・デ候は世を去り、親日家の抗仏志士呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏もアメリカへ亡命してしまいました。
 
 日本敗戦後のベトナムを着の身着のまま脱出した松下氏は決して諦めず、知己を得て、日本で「大南公司」再建に取り掛かるのです。
 「…松下に救いの手を差し伸べたのが田中清玄である。(中略)松下は取敢えず、田中清玄の神中造船所に籍をおき、大南公司の再建に取り掛かる。
 …1948年春、東京、丸の内の田中清玄が社長を務める三幸建設の事務所の一室を借りて「内外産業株式会社」の看板を掲げた。(中略)翌年春、内外産業は増資して「大南貿易株式会社」と改称、本社も日比谷の陶々亭に移した。」     
『安南王国の夢』より

 「田中清玄氏」は、元々「日本共産党の中央執行委員長」だったそうですが、獄中で保守派へ転向、戦後は起業して多くの企業経営を手掛けた方だそうです。
 日本で再建した「大南貿易株式会社」は着々と業績を伸ばして行きました。 そして1954年、ジュネーブ国際会議が開かれて、北に胡志明(ホー・チ・ミン)首相の「ベトナム民主共和国」南に「ベトナム共和国」の南北分断が決定します。旧友であり同志の呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏が「ベトナム共和国」初代大統領に就任することになり、亡命先のアメリカからベトナム・サイゴンへ戻ることになりました。これに合わせて、松下光廣氏も再びベトナムへ戻ることを決心します。  

 「第2の故郷」ベトナムの新しい国創りへ。「大南公司」のベトナム再建を始めるのです。

 その(3)に続きます!
 

 

  

 

 

 

 

 
 
 

 

 

 
 
 

 

 

 
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

  

 

 

 

 
 
 


 
  
 

 

 

 


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