ベトナム抗仏志士リーダー達のその後

 私が出版した翻訳本⇒「ベトナム英雄革命家 畿外候彊㭽 - クオン・デ候: 祖国解放に捧げた生涯 」 の後半に、元本『クオン・デ 革命の生涯』の背景解説を書いて置きました。背景解説が無ければ、ベトナム史を詳しく知らない人には俄かには解り難いと思ったからです。

 1945年3月9日、日本軍による仏印武力処理(=軍事クーデター)『明(マ)号作戦』が大成功したベトナムでは、第13代皇帝だった保大(バオ・ダイ)帝が『独立宣言』を発布し内閣を組閣しました。(同じ仏印連邦のカンボジア、ラオスも其々『独立宣言』を発布しました。)その内閣で総理大臣に就任したのが『越南史略』編者で儒教家の陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏です。

 日本軍による軍事クーデターは大成功だったので、当然日本の援助を受けていたクオン・デ殿下が日本からベトナムに戻って来るとばかり思っていたキム氏は、日本軍の庇護下のシンガポールから期待を胸にサイゴンへ戻って来たのです。
 けれど、クオン・デ殿下はまだ東京に居ました。日本側の複雑な事情に阻まれてサイゴンに戻ることが出来ません。それでもバオ・ダイ帝は既にフランスとの間にあった保護条約を破棄し3月11日に独立を宣言していたので、キム氏が仕方なく首相就任を引き受けた、これが本当の経緯です。(チャン・チョン・キム氏の回想録『Một cơn gió bụi』はベトナム語版がネットで閲覧可能。) 

 4月17日、キム氏はバオ・ダイ内閣の首相に就任しました。しかし、この内閣は短命でした。その年の8月6日に広島、9日に長崎へ原爆が投下され、15日に日本は列強へ全面降伏すると、ベトナムでは8月25日にホー・チ・ミン氏が再『独立宣言』を出したので、これでバオ・ダイ内閣は総辞職したのです。たった約4カ月の短命政権でした。

 クオン・デ候は、7月後半頃から祖国ベトナムへ戻るべく帰国準備を始め、7月末から羽田空港でサイゴン行の飛行機が飛ぶのを待っていました。しかし、結局8月15日からの敗戦国日本は大混乱状態となり、帰国は叶いませんでした。その後もクオン・デ候は帰国の望みを捨てず、1950年に再びチャンスがやって来ました。けれども、経由地タイで上陸を拒まれて日本へ舞い戻り、その翌年に東京飯田橋の日本医科大学第一付属病院で薨去されました。享年69歳でした。

 クオン・デ候は帰国の希望を最期まで捨てなかった、と伝えられています。多分、周囲の友人や日本の支援者達の目にはそう見えていたのだと思います。クオン・デ候は、23歳の時から40年以上も祖国を離れて、生き別れた妻と子供達にも会いたくなかった筈がないし、何よりも自分を信じて待っている同志達のことを考えていたのではなかったか? 
 「私ならそう、当然そうだよな、、、」
と思いましたので、この1945年以降もクオン・デ候の帰国を待ち続けていたベトナム国内の同志たち、『明(マ)号作戦』成功の影の功労者だったベトナム各界リーダーたちのその後をちょっと調べて見ました。(いずれも其々の肩書は1945年当時です。)⇩
 
范工則(ファム・コン・タック)氏:
 1890年生まれ、南部出身。カオダイ教教主。
 サイゴンのフランス系学校在学中17歳の時に、『東遊(ドン・ズー)運動』第4期留学生に志願。しかし渡航前にフランスに摘発され失敗。1926年仲間らと共にカオダイ教を設立。宗教弾圧を受けて逮捕され、1941年から1946年までアフリカのマダガスカル島へ流罪。1946年サイゴンに戻り、仏英軍と胡志明(ホー・チ・ミン)率いる越盟(ベトミン)軍に抗するため、カオダイ教信徒のカオダイ教軍組織強化を指導する。1955年突如カオダイ教軍より軟禁され 、翌年カンボジアに逃れる。1956年クオンデ候の遺骨を受け取りに、遺族らと共に日本へ渡航する。3年後の1959年5月17日カンボジアにて死去。2006年になって初めてカオダイ教信者による盛大な帰還式でカンボジアからベトナムへ遺骨が祖国に戻された。享年70歳。
    (義父の残した、古いカオダイ教の文献から拾ってみました。。)

陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏
 1883年生まれ、北部出身。歴史家、儒教研究家、教育家。
 儒学家出身の彼は、フランス留学を経てベトナム国内で教多くの教育関連著作物を編纂出版した。すでに教職を定年退職していた1945年4月突然バオダイ新内閣の総理大臣に就任。4か月後日本の無条件降伏後、解任され元の生活に戻る。1946年越盟(ベトミン)軍の抗仏ハノイ攻撃により膨大な近代史資料と共に自宅が消失、中国へ逃れる。1947年ベトナムに帰国するが、翌年にはカンボジアに出国、質素な生活の中で回想録などを残す。その後帰国しハノイに居住するが、1953年12月2日、動脈瘤破裂により死亡。享年71歳。

武廷遺(ブ・ディン・ジー)氏
 新聞記者、政治運動家、愛国団リーダー。
 色々調べて見たんですが、ネットでは殆ど情報がありませんでした。。唯一、1926年の潘周禎(ファン・チュ・チン)の葬儀に参列した罪でフランスに捕まって投獄された人々の中に、お名前を見つけました。。(もしご存知の方いましたら、是非教えて下さい。。)
 
武海秋(ブ・ハイ・トゥ)氏:

 1869年生まれ。北部出身。ベトナム復国同盟会幹部
 別名:阮海臣(グエン・ハイ・タン)。東遊運動留学生で東京の神武学校で学ぶ。海外で長く革命活動に従事して後、クオンデ殿下のベトナム復国同盟会の下で日本軍に協力。1945年8月以降は、元の政治団体ベトナム革命同盟会(=越革(ベト・カク))として胡志明(ホー・チ・ミン)の越盟(ベトミン=ベトナム独立同盟→後にインドシナ共産党)と提携するが、徐々に関係が悪化する。1946年7月越革軍は越盟軍の攻撃を受け、武海秋は香港へ逃れる。そのまま香港に留まり、1959年に香港で死去する。享年90歳

黄叔抗(フィン・トゥック・カィン)氏
 1876年生まれ。中部出身。新聞紙主筆。
 潘佩珠の同郷で莫逆の友、共に抗仏運動に参加。1908年逮捕されコンダオ島に流刑となり13年後の1919年に解放された。中部の新聞『市民の声(Tieng Dan)』紙の主筆として、抗仏言論リーダーの一人でもあった。1946年ホー・チ・ミン氏の呼びかけに応じてハノイへ行き、ベトナム民主共和国の内務省大臣兼主席全権に就任する。その翌年にハノイの病院で急死。仲間の記者グループが故郷で保管していた潘佩珠の遺稿などは、全て越盟(ベトミン)軍に没収され廃棄されたことが、1957年サイゴンで再出版された潘佩珠の『自判』ベトナム語版に記されている。享年70歳。

呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏
 1901年生まれ。中部出身。フエ宮廷官僚家出身。政治家。
 カトリックに改宗した名門呉家出身の呉廷琰には、地方行政を監督する優秀な兄弟たちがいた。実兄の呉廷魁(ゴ・ディン・コイ)と呉廷勲(ゴ・ディン・ファン)は、1945年秋頃フエで越盟(ベトミン)軍により惨殺される。ハノイにいたホー・チ・ミン氏からの入閣要請を断り、1950年にアメリカへ亡命。ジュネーブ協定締結後、翌1955年10月正式に南ベトナム共和国初代大統領に就任する。直後の1956年1月クオン・デ殿下の遺骨帰還式をサイゴンで執り行う。君主制を廃止し共和制国家として政党政治を目指し、『勤王党』に代わる指針として『勤労政党』を結成。国内の経済、司法、教育の立て直し、近代化を押し進めた。1960年頃から吹き荒れる反独裁政権キャンペーンに世論が扇動され、最後は軍人クーデターにより、1963年11月2日実弟呉廷如(ゴ・ディン・ニュー)と共に銃殺される。享年62歳。実弟呉庭謹(ゴ・ディン・カン)は、1964年5月死刑。
 早期のベトナム戦争終結を望んでいたと言われるアメリカのケネディ大統領暗殺(1963年11月22日)の丁度3週間前。仏教徒弾圧をした『非情な独裁者・ジェム』の汚名は、現在でも未だ完全には挽回されていない。

 ⇧と、このような感じでした。。
 そして、これら人々以外にも、沢山の抗仏運動家や作家、政治活動家らが当時のサイゴンにおり皆が回想録や資料を残しました。当時のサイゴンの言論リーダーたちが書いた新聞記事や回顧録などを丁寧に読み込み、絡んだ糸を手繰るように整理していけば、もしかして、空白の多い1945年から75年頃までのベトナムの様子が浮かび上がってくるやも知れません。それでなくては死んでいった人々が浮かばれない。この仕事をするのは平和な現代生活を享受する私たちに課せられた義務ではないか、と思っています。私達が、日々自分の目の前の父母、妻夫、子供よ、幸あれと願う気持ちと、戦争で犠牲となってくれた先人を思う心と、何ら違う必要があるでしょうか。


 
 
 

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