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1926年設立 ベトナム独特の新宗-高臺(カオ・ダイ) その(1)

  これまで、『安南民族運動史概説』(昭和16年、大岩誠著を何回かに分けてお伝えしましたが、その(9)で、ベトナムの『高臺(カオ・ダイ)』(以降『高台』)に少し言及があったと思います。

 日本人の方はベトナム南部へ観光旅行した時に、この宗教の総本山西寧(タイ・ニン)省で、白装束の信者たちと大きい目のシンボルがついたド派手な寺院を訪れた人も多いのではないかと思います。
 幾つも戦争を経験しそして時代は移り変わり、高台も様々な変化を遂げて来たと思いますので、今と昔では全然違う組織かも知れません。今日ここで纏めます内容は、戦前日本の古い文献からであることをお断りしておきます。。😌

 先の記事で、大岩誠氏は「戦前のカオ・ダイ教研究の第一人者」と説明した理由は少し遡りますが、その(1)に書きましたように、大岩氏は、
 「昭和6年前後、私がパリに留学していた当時のこと(中略)或る機縁から、私は越南の若い志士たちと知り合い、彼等の生活を知り其の解放自立の活動を助けて共に戦った。」
 
と、これがきっかけでベトナム独立運動に興味を持ったそうです。  
 そして留学を終え帰国した後に、 
 「ベトナム民族運動に想いを馳せながらも仕事に忙殺されてその研究の自由を得られなかったが、思いがけず昭和15年頃からベトナムに関しての調査研究に専念する幸運に恵まれた」
 とのご説明でしたので、その史料は何処に、、と探してみましたら、、『南満州鉄道株式会社』の『東亜経済調査局』が発行していた月間冊子に辿り着きました。。うーむ、満鉄だ。。😊😊 

 『東亜経済調査局』なら『大川塾』の大川周明先生です。大岩氏は、この冊子に寄稿した高台教に関する論文のことを、
 「筆者は、既に高台教に関して他の出版物において、その成立過程、理論、組織、宗律を相当詳かに論述した」
 と、おっしゃってましたので、この史料、、、期待で胸が高鳴ります。。(”変なおばさんー-!” ←我が家のJKの声💦💦)

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1,成立過程

 1926年インドシナの南部を中心とする地方に台頭した新しいカオダイ教(Cao Đài)の名が日本に喧伝されたのは、言うまでもなく、昭和15年12月10日、河内(ハノイ)発同盟電報が該教徒の暴動とフランス官憲の弾圧ぶりとを報じたのを日本の各新聞が一斉に取り上げたのに端を発している。
 これと共に、此の暴動の原動力をなしているカオダイ教に対する探求心も昂まり、様々な解説が試みられ、道教信仰を基調として東西両洋の諸宗教の綜合教であると自称する該教の大意を伝え、世人の要求に応えたわけであるが、何分にも日本には該教についての資料が殆ど皆無といっていい状態であったため、何れも十分にわれわれを満足させることが出来なかった。

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 上⇧の「昭和15年12月10日、河内(ハノイ)発同盟電報が該教徒の暴動とフランス官憲の弾圧ぶり」は、先の記事その(9)に詳述した事件のことです。この頃の日本国内は「インドシナ半島が日本の関心の的」になっていたそうです。支那事変(盧溝橋事件)から3年経過した昭和15年『仏印平和進駐』の頃ですね。
 その頃にも、「何分にも日本には該教についての資料が殆ど皆無といっていい状態」だったと言ってますので、設立年の1926年から既に15年が経過していても、日本の世間一般的には殆ど仏領インドシナの文化・歴史・宗教などには多くの注意が払われていなかったことがここからも能く判ります。
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 高台教の本質を示す『大道三期普渡』、
 至聖至高の神で高台教の本尊たる『高台』、或いは『上帝』、
 至上神の象徴たる『天眼』、

 この宗教が使う3つの述語の由来を明らかにした上で、先ず高台教の由来についての教団本部の説明を聞こう。
 『三期普渡』とは、『第3の衆生済度』を意味する。神『高台』は此の人類社会に対して、既に2度出現して衆生を済度した。
 第一に、西洋ではモーゼ、東洋では釈尊。第二に西洋ではキリスト、東洋では老子の夫々の姿を借りて出現した。今や第三の済度として『高台』は親しく出現し、東西諸宗教を総合し、衆生を済度する。

 『高台』又は『上帝』は、其の深源は老子の『道徳経』の釈文に在る。『上祈高台』即ち、高台に祈るという文字がそれである。その他古くから存する民衆信仰の一対象たる『関聖帝君』の経文などにも高台信仰は見受けられ、広く民間にはこの信仰に捧げられた寺院がある。また一方、華訳旧約聖書(1913年上海)に『エホヴァよ。爾は我等が逃れ隠くるべき高台なり。…』とあるによって明らかなように、東洋のみならず西洋においても高台を以て神としている。

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 要するに、高台、或いは上帝=神様で、高台教=神教になりますか。。私の義父(ベトナム人)は生前、”高台は宗教じゃないんだ、例えればシン・トーだよ、ほら、日本の。シン・トー(神道=Thần Đạo)、ほら、シン・トー、知ってるだろ? 日本人なんだからー。”とよく言ってました。😅
 高台は、既にこの世に2度出現し、3度目も人間の姿で現れて、東西諸宗教は統合される・・・? 
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 さらに『天眼』は、雲に包まれた人間の眼で表現され、高台教の象徴となっている。
 この信仰は現にフランス人がインドシナにおいて、国教同様に考えている天主公教の信仰にも見受けられる。…またインドシナの天主公教会の堂宇には必ずこれを見る。…神の真の姿は此の眼によって感じられる。神は何処にも存し何者をも見給う云々とあると論じている。

 …かの曠世の哲人たるアリストテレースも、神は常に明らかなる眼であると教え、このゆえに高台教は『天眼』の表象を祭壇の正面に掲げる。『天眼』は、常に人心の奥底を透視し、これを審き、これを強め、善道を進む霊魂を導く。
 この眼の信仰は自分達ベトナム人たちだけのものではなく、人類が進化の途上において常に何等かの形で顕示されている。

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 確かに、この『眼』をシンボル化したものは結構世の中に多いですね。有名なものなら『米ドル札の目』。あ、これは『陰謀論』とか言うやつだ。。😅😅😅 ネットで検索したら、『プロビデンスの目』なるものもあり。『プロビデンス=キリスト教の摂理』で、『神の全能の目を意味する』キリスト教における意匠とのこと。そうしますと、高台教徒の説明する「この眼の信仰は自分達ベトナム人たちだけのものではなく」←これは間違いないでしょう。。。😅😅
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 かように此の宗教は努めて天主公教及び西洋の理論を取り入れてはいるが、その根底をなすものは、ベトナム人の日常生活の基準をなしている道教的信仰と古来から存する巫覡道の信仰である。
 …つまり彼等ベトナム人の庶民信仰が此の宗教の中核をなしていることが、教団の勢力をして容易に且つ驚くべき浸透力をもって、大衆の間に拡大させた一つの原因となっている事実には、決して霊烟過眼し得ないものがある。
 1926年に西貢(サイゴン)に創始されたのだが、此れより遥かに先立つ数年間に、既に様々な機会に天啓が与えられていたと言う。
 1923年7月30日、或る寺院で行われた降神術の実演で、『三期普渡』などの託宣があった。同年中に、サイゴンのダカオにある道教寺院で『玉皇』が、また支那寺で『上帝』と『孫呉空(そん・ごくう)』の霊が、翌年1924年に同寺で『孔子』霊と『太乙』霊が現れて、何れも神『高台』の出現を啓示したという。
 他方で、教徒はキリスト教の新約聖書にも『三期普渡』の思想を求める。

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 私の日本の友人たちは、ベトナムの『高台教』を複数の宗教の『良いとこ取り』したお手軽な新興宗教だと解する人が殆どです。けれど、よくよく考えて見れば、元々あった土着の自然崇拝に外来宗教を上手く取り入れた手法は、日本の『神仏習合』にそっくりではないですか。。
 興味深いのは、1923ー25年頃に集注的に『神がかり』『ご神託』がベトナム国内各地で起こったこと。。。🙄🙄🙄(うー-む。)
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 設立年の6年前、コーチシナの『呉文昭(ゴ・バン・チウ)、Ngô Văn Chiêu』なる人物が、至高の神なる『高台』を尊崇していた。
 呉文昭は、1919年頃少年霊媒の力を借りて至上神たる『翹仙』の啓示を受けて修養の素としていた。1920年に至って『高台』が現れ、乞うて命を承け『天眼』を其の表象として崇拝する允許を得た。これが6年後、サイゴンに確立された新教団の発端となったのである。

 1925年の中頃、ベトナム人の書記連中が巫覡道を娯み、毎晩降神術をやっていると、『アアア』を自称する霊が霊媒に憑いて啓示を与え人々を驚かした。次第に数が増えて宗教団体の形態を帯びて来た。
 12月24日に、『アアア』なる神は、自分が『高台』である旨を明らかにした。その後、
インドシナ連邦総督府評議会議員の名望家、黎文忠(レ・バン・チュン、Lê Văn Trung)がこの新しい宗教に帰依して、教団樹立の指導者となった。その後、『李太白』の霊の啓示により信仰生活に入る決心をすると、御神霊は降神団体に解散を命じ、黎文忠のみに託宣を下すようになった。

 この託宣によって、范工則(ファム・コン・タック、Phạm Công Tắc)と高瓊居(カオ・クイン・ク、Cao Quỳnh Cư)なる2名の男は黎文忠を訪れ、宗教団体を創設する下相談を行った。2人は、所謂翁童(オン・ドン)であったが、黎文忠とは全くの初対面だったという。黎文忠は直ちに神意を聴くと、かつての託宣と同じだったため、ここに始めて新宗教団体創立の決意を固めたのである。
 黎文忠は、范工則と高瓊居を連れて、役人の呉文昭を訪れて宗教組織の件を相談した。呉文昭も既に、神の啓示によって知っていたので3名を歓迎し、ここに『高台教』が成立した。

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 整理しますと、設立時の核メンバーは4人。
 呉文昭、黎文忠(創始者)、范工則、高瓊居 

 現在ベトナム語でネット検索しますと、呉文昭さんは呉明昭とミドルネームが異なります。しかし、ここは大岩誠氏の論文に従って呉文昭のままとします。
 翁童(オン・ドン)とは、『男巫」のことだそうです。霊媒師ですね。大岩誠氏は、
 「教団の沿革においても、常に重要な役割を占めているのは、所謂翁童と婆童(バ・ドン)と呼ばれる霊媒である事実だけをみてもその間の消息が察せられる」
 
と言い、ベトナム人の日常生活の基準である『道教的信仰』が根底にあることを指摘しています。

 ちょっとここで、オタク🤓的な方向に行くかも知れませんが、私が面白いなと思うのが4人の『苗字』です。
 高台神が降りた『呉』、李太白霊の啓示で宗教設立を決心した『黎』『呉(NGO)』も『黎(LE)』も、ベトナム史上で王朝を築いた超名家です。ミドルネームにも注目です。2人共『文(バン)』です。昔はミドルネームに意味があり、『文』は『御書物取扱方』、要するに『呉文(ゴ・バン、Ngô Văn )』は、呉家の御書物取扱方、『黎文(レ・バン、Lê Văn)』も同じじゃない?と、田舎の主婦の想像は膨らみます。。😅😅😅
 『范』は、『ベトナム史略』で、占城・林邑(チャンパ=インドネシア系)国に結構登場する名字。『高』は、多分支那系帰化人ですよね。この2家が『霊媒家筆頭』。。(因みに、この頃ベトナムカトリックのトップは『呉廷、Ngô Đình』家です。。。)
 あくまで勝手な想像ですので、先を続けます。🤓🤓🤓
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 新しい宗教を特に歓迎したのは庶民階級だった。この大勢を見て、1926年10月7日に28名の名を列ねて、コーチシナ長官宛てに正式の届書を提出した。この届書には信者247人の名簿と署名とを添えて出し、高台教の成立を公けに発表した。

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 それから2カ月のうちに2万人の信者を獲得したそうですので、凄い勢いです。
 「ベトナム人の庶民信仰を中核とし、今まで信奉していた信仰と摩擦を生ぜしめないことが大きな推進力になっている」
 と、著者の大岩誠氏は述べています。

その(2)『高台(カオ・ダイ)教の教理』に続きます!(いつかは未定。。😅)

 

 

 


 
 
 
 


 

 
 

 
 

 

  

    



 
 
 

 
 

  
 
 


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