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南北分断後の1960年代-南・ベトナム共和国で発生した”仏教徒弾圧”背景一考

 今日は硬派な掲題😅、現代日本人には馴染みの薄い『ベトナム近代史の或る事件』を、”満を持して”取り上げてみたいと思います。
 何故、”満を持して”かと云いますと、『ウクライナ』が出て来るからです。少し長くなりますが、以下前置きです。。。⇩

 先の記事でベトナムの新興宗教『高臺(カオ・ダイ)』を取り上げましたが、偶然にもと云いますか、やはり運命だったのか…(笑)、私の義父の『何(Hà(ハー)家』熱心なカオ・ダイ信仰一族です。
 1975年に第一次・二次インドシナ戦争(ベトナム戦争)が終結しましたが、焼け野原を見渡せば、既に印度支那(インドシナ)銀行は夢幻の如く消散し、『ドミノ理論』アメリカが『経済制裁』を加えた為、『ベトナム社会主義共和国』(←現在の政権)の前途は多難でした。。
 当然、南北再統一後のベトナム全土が更なる苛酷な貧乏のどん底に落とされ、誰もが生き延びるに必死の中、日に3度2時間のお経を欠かさずに、他者へ善の施しを優先する義父の姿は家族にとって口惜しかった事でしょう。そのせいか、私が嫁入りした時の家族全員の、義父の信仰に対する目は非常に冷ややかでした。。。😅😅
 頑固一徹で、『高臺(カオ・ダイ)』への信仰を最期まで捨てなかった義父も、8年位前に心不全で亡くなり、そのまま放置された膨大な文献コレクションには、好奇心旺盛な嫁の私以外は誰も立ち入らない。(笑)
 生真面目だった義父の本棚には、高臺、仏教、道教、儒教、キリスト教等々、宗教・宗派毎に綺麗に分別し蒐集してありましたが、その中に或る種異彩を放つ変わった宗派の文献コレクションの一角がありまして、それが、『Thông Thiên Học(通天学、トン・ティェン・ホック)』。日本名『神智学(しんちがく)』、英語名『Theosophy』でした。

 長い前置きはここ⇧までにして、本題です。😅😅
 神智学(Theosophy)…??なんだそれ?、というのが当時の私の正直な感想で、全然知らないし聞いた事も無かったですから、ネット検索してWikipediaなどを読んで判ったことを一応あれこれその時に書き留めて置きました。
 けれど、間もなくあっという間にコロナ・ワクチン騒動、その最中に露鵜戦争突入となって、この話題はちょっと微妙かな…と、田舎主婦のくせに一応世論の空気に忖度しまして(笑)、最近、やっと日本人のウクライナ関心が低下して来たようなのでそろそろいいかな…と、そういう意味で、”満を持して”今日は、私のベトナム想い出話・備忘録です
 備忘録と表現する部分は、数年前の『Wikipedia(ウィキペディア)日本語版』の『神智学』からの記述です。今年に改めてWikipediaを開いたら、何故か全く😵‍💫😵‍💫類似性の無い内容に華麗に変身してました。ですので、その意味での『備忘録』、がこれです。⇩

 「神智学の創設者で最も有名なのが、ウクライナ人のヴラヴァッキー婦人。考え方は、仏教尊崇、キリスト教否定
 1873年 フランス・パリからアメリカ・ニューヨークに本拠を移転
 1875年 神智学協会をニューヨークで正式に設立キリスト教会批判、リベラリズムとして誕生
 1878年 インドへ。新たに輪廻転生説やカルマ説を導入、独自色の濃い霊的進化論、根拠人種論が加わる。(仏教+ヒンドゥー教)」
              
 確かに数年前迄のWikipediaにはこの⇧様に書いてあった筈ですケド、変ですね、今はどうやってもこんな内容ネットで全然出て来ません。しかし、気にせず続けたいと思います。(笑)

 亡き義父の本庫にあった『Thông Thiên Học(トン・ティェン・ホック)=神智学』。早速家族に尋ねると、辛うじて微かな記憶が残っていた長姉(今年60歳位)の証言は、「ああ、あの頃ね、確か一区のNguyễn Đình Chiều(グエン・ディン・チウ) 通りに大きな会所があって、お父さん(=カオ・ダイ教徒)もお母さん(=華僑末裔の仏教徒)も毎週水曜日だったかな、欠かさず夜の勉強会に参加してたのよ。」ということでした。。
 さて、では『あの頃』とは、、、?

 「神智学がベトナムに入ったのは1923年頃。1928年頃から徐々に広まって行く。」
 「ベトナム神智学会の設立は、1952年。」
 「会の3大目的:1、一つの大同兄弟(Brother)を創造すること。種族、信条、宗派、階層、肌色の差別を無くすこと。2、宗教、哲理、科学を学ぶこと。3、解明されていない自然の摂理や人間の秘めた能力について研究すること。」    
(こちらのHPから⇒thong thien hoc home page
 
 1952年ですと、ジュネーブ会議で南北分断される3年前ですね。
1956年に南部に『ベトナム共和国』が建国されますが、この頃は既に団体の活動はかなり普及してたでしょうから、義理の長姉の幼い記憶に残る『あの頃=1960年代後半頃』とも一致します。

 えーと、ここまでが私のベトナム思い出話と忘備録ですが、それらと巷の情報をあれこれ繋ぎ合わせて、近代史のあの事件にここからは想像を膨らませたいと思います。😅😅

 ベトナム近代史上の大きな謎の一つに、『南部ベトナム共和国大統領呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)による仏教徒弾圧』があります。
 カトリック教徒の大統領が、『身内贔屓をしてカトリックを優遇、仏教徒を弾圧』。今日までのこの定説が全くの見当違いなこと、過去のベトナム義士抗仏闘争関連記事を読んで頂ければ納得して頂けると思います。
 それにも拘わらず、元抗仏志士であり、旧朝廷の筆頭家老とも廷臣頭とも云えるベトナム名家出身呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)大統領へ国際世論の非難が集中し、1963年南ベトナム軍クーデターによる暗殺計画が成功した事はベトナム近代史上のミステリーでして、この背景に、当時のサイゴンで連鎖発生した大統領官邸前での仏教徒焼身自殺抗議がありました。
 このショッキングでセンセーショナルな報道に接した当時の国際世論は『仏教徒弾圧は本当に有る!』と震撼した。これは当然でしょう。それに実際に仏教徒への弾圧(排除)があったからこそ、焼身自殺抗議が起こったのは間違いない。。。
 しかし、国家崩壊と暗殺リスクを天秤に掛ける程のメリットがないジェム大統領側が、何の理由あって突然に仏教徒弾圧の暴挙を強行??
 
これ⇧は、今でも大きな謎のまま・・・。
 
 
しかしです、この⇧素朴な疑問に答え得るのが、1928年頃からサイゴンでじわじわ広がっていた上述の『キリスト教否定』の考え方の存在かも知れません。
 要するにあの頃、ジェム大統領(カトリック)が反仏教だったのではなく、輪廻転生説やカルマ説を導入、独自色の濃い霊的進化論』がブームとなって蔓延していたサイゴンで、これに便乗する『第3者の反カトリック(ジェム大統領)派』によって巧妙な工作活動が行われてたとすれば…。当然、政府側は必至で反動分子制圧に乗り出しますが、制圧』を受けた反体制側は民衆に紛れ込んで、『これは弾圧だ!』と叫べばよい。
 
と、こう整理すると、ベトナム近代史の謎が一つ解明できそうな気がしますが、事実は判りません。😅😅💦💦 
 とは云えこれらを巡る史実は、何ともお互い場所、時間、国名等々…絶妙に重なり合う気がしないでもなく。

 先の『1926年設立 ベトナムの新宗-高臺(カオ・ダイ) その(2』に書きましたが、『印度支那(インドシナ)』のアメリカ人T.E エンニス氏は、著書の中で、「…輪廻不滅の法を説いて東西両洋の真の『接近』に努め、狭い人種的民族的感情の破壊を念願とする」ベトナム新宗『高臺(カオ・ダイ)に関する詳細」の参考先に、「1930年2月21日号ニューヨーク・タイムズ紙」を挙げています。
 アメリカ・ニューヨークは、この頃既にベトナムの神道『高臺(カオ・ダイ)』の研究に熱心だった模様。。。
 ついでに、1930年頃と云えば、欧州からマルキシストのフランクフルト学派(批判理論、新マルクス主義)がニューヨークに本拠を移したとされる頃と一致してたりします。。😅😅😅
 先の記事落合莞爾先生の新書で知る、ベトナム独立運動家ファン・ボイ・チャウと『東亜同盟会』を結成した社会運動家大杉栄(おおすぎ さかえ)氏の正体」の落合莞爾先生の著書の中にも、「ウクライナ生まれのユダヤ人レオン・トロッキー」は、「国際共産主義者の代表的存在とされることから国際共産主義をトロツキズムと呼ぶ」と。「国際資本家=トロツキスト」が侵入して、ニューヨーク・ウォール街を拠点に産業界を支配されたのが現在のアメリカだとありました。。。
 ニューヨークってカオスですよねぇ。。。なるべく近寄らないようにしたい。(笑)😅😵‍💫

 えーと、纏めますと、ウクライナ生まれのウクライナ人ヘレナ・ヴラヴァッキー夫人とその仲間が、1873年に反キリスト教学派をニューヨークに移して、1928年頃からベトナムでの活動に力を入れ、1952年にベトナム支部を設立してた。これは史実です。

 最近頻繁に、「職を失ったベトナム実習生、日本でベトナム仏教寺に駆け込み」のニュースを見掛けます。。。
 元々勤勉な貧農地方出身の青年らですから、仏教寺で施しを受けながら帰国費用の貯蓄に専念して欲しいですね。早くしないと、差別!貧困!抑圧!XX! OO!… 悪い人達が、得意のお題目を唱えながら近づいて来る予感がします。。。😨😨

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 ところで、既に定年退職した私の古い友人で商業省に勤務していた女性がベトナム東欧蜜月時代の元ウクライナ留学組でしたね。
 2000年頃からとても羽振りが良くなり、今では大富豪と云っても過言ではなく娘さんはスイス留学組。近年ベトナム人子弟の留学先にはランクがあって、大体上からスイス⇒英国⇒アメリカ⇒オーストラリア⇒日本・韓国・中国などのアジア諸国の順列です(残念ですけど。。)。😅😅 子弟のスイス留学はベトナム人富豪のステイタス、お金とコネが無ければかなりハードルが高いです。
 同じ元ウクライナ留学の出世頭が、今をときめくベトナム一の大富豪、ベトナムビンコム・グループのオーナー、ファム・ニャット・ブオン氏ですねぇ。。。
 そういえば、ホーチミン市一区繁華街中心地に周囲の再開発から取り残された場所がぽつぽつあり、夫は何故か、”あそこは昔からロシアの土地”と言ってましたが、その長年ベトナム政府が介入しなかった土地には5,6年前に『ビンコム・センター』というショッピングモールが建ちました。
 その時は何とも思わず、しかし数年後に両国が戦争に突入しましたから、それら一等地を巡る争奪戦に、ベトナムでも何かしらパワーバランス変動があったのかも。
 でも、田舎主婦には全然関係無い雲上の話か。。。(笑)😅😅😅
 

 

 

 

 

 
 
  
 


 


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