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落合莞爾先生の新書で知る、ベトナム独立運動家ファン・ボイ・チャウと『東亜同盟会』を結成した社会運動家大杉栄(おおすぎ さかえ)氏の正体


 奇縁でベトナムに暮らすこと早25年、私がベトナム近代史を調べ始めた理由は先の記事「近代ベトナム史への興味のきっかけに書きましたが、1906年に日本へやって来た旧ベトナム国の皇子クオン・デ候が生前遺した自伝書『クオン・デ 革命の生涯』(1957)の、ボロボロの茶色い古冊子を偶然ホーチミン市の古本屋で入手し、これまた偶然の連続で翻訳を決意したのは2019年の9月でした。

 元々若い頃に日越翻訳をメインに仕事してたので、翻訳作業にはコツがあり作業自体は直ぐに終わりました。しかし、その歴史背景は非常に複雑で、ベトナム史を能く知らない人は解説が無ければ全然興味を持って貰えないかも!?と危機感を持ち、その日からひたすら「クオン・デ」の一語を探し求めて日越の古書探索の日々。。(主婦ですので、一応家事はやってます。。😅😅)

 潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)氏の自伝書『自判』には、ちょっと珍しい日本人のお名前が沢山発見できます。学校の歴史書では余り聞いたことない方々ばかりで、多分私の様に変なおばさん😅でなきゃ、その皆さまを『自判』から掘り出して現代日本に蘇らせる奇特な人は二度と現れまい!と、何故か変な使命感(笑)に燃えた私は、『クオン・デ 革命の生涯』のアマゾン自費出版を去年8月やっと終えて、ここNOTEであれこれとご紹介してきました。⇒ベトナム独立運動家の考えたシリーズ|何祐子|note

 ”難解”と定評ある潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の古漢文による自伝書を、内海三八郎氏が大変な苦労をして翻訳(意訳)したのが『潘佩珠伝』(1999)でして、中にこんな一節があります。

 「東亜同盟会-…浅羽先生より贈られた大切な金の使途は、(中略)早速中国革命党と日本の平民党の間を奔走、東亜諸民族の大同団結運動に乗り出した。(中略)…このほか日本人では大杉栄、堺利彦、宮崎滔天などがあった。特に大杉、堺両氏は社会党の領雄で幸徳秋水の同志であり、云々…と潘佩珠は書いている。」
      
 ベトナムの皇子クオン・デ候の庇護者5.15事件で青年将校の銃弾に倒れた犬養毅(いぬかい つよし)首相(当時)の後を引き継ぎ支援団体を立ち上げたのが、南京事件の責を負わされ東京裁判で絞首刑になった松井石根予備役大将ですが、ベトナム近代史資料中に此のクオン・デ候支援団体『如月会』の主体として福岡玄洋社の『黒龍会』の名があります。ですので、玄洋社と関係の深かった宮崎滔天氏とベトナム革命家との接点不思議ではないですが、、、”えーと、社会党の大杉栄氏と堺利彦両氏って一体、、、誰??” 😅😅、、、、これが浅学の私の正直な第一印象でしたが、よく解らないが取敢えず、去年の9月4日の記事「ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(2)に載せて置きました。。

 そんな私の目に最近飛び込んだのが、落合莞爾(おちあい かんじ)先生(NOTE名は白頭狸先生)の今年1月の新書です!⇩

 落合先生のご著書「國躰アヘンの正体」は、私のベトナム生活の思い出話(日本陸軍・山下大将のベトナム埋蔵金)の参考に読んだ書籍の一つです。この事は後述するとして、何と言っても大杉栄(おおすぎ さかえ)氏(と堺利彦氏)です。。。
 一体どんな方々で、そしてあの頃(大正期)にどうしてファン・ボイ・チャウと知合ったのか、2人にどんな接点があったのか。。。等など興味深々で早速拝読しました。

 「関東大震災の余燼いまだ収まらぬ大正12(1923)年9月16日に、大杉栄ら三人が東京市内で憲兵大尉甘粕正彦らにより不法に殺害された(とされる)事件を「甘粕事件」あるいは「大杉栄殺害事件」と呼びます。」   『國體志士大杉栄と大東社員甘粕正彦の対発生』より

 。。。浅学過ぎる私は、恥ずかしながら事件を知りませんでした。。💦💦😅 大正12年に殺害されていた。。。ええと、大正12年と云えば、日本でファン・ボイ・チャウやアジア各国の独立運動家達「東亜同盟会」を結成してから約15年後です。

 大杉栄氏は1885年生まれ。東京外語学校(現東京外国語大学)の学生の頃に、「堺利彦の「平民新聞」が開いていた社会主義研究会に加盟」。明治38年(1905)卒業。そして、事件に巻き込まれ1923年、38歳で死亡。。。というのが、今までの歴史書の定説。
 しかし落合先生は、これは偽装死であり、「大杉栄は堀川國體が社会主義陣営に放った潜入スパイ」で、「國體志士」と結論されています。
 
 ”なるほど。。”と素直に納得。。なぜかというと、私は違和感だらけのクオン・デ候死亡状況に、”もしかして偽装死(或いは他殺かもっ)!?”と密かに疑問を持つ人間だからです。。。😅😅 (いつか詳述します。。)

 脱線しますが、学校の歴史教科書は辻褄の合わないことだらけです。
 例えば、5.15事件で大川周明先生が何故か逮捕されますが、5年刑期を終えて出所した1937年10月の、たった6カ月後に満鉄と外務省と陸軍の出資を得て大川塾(東亜経済調査局附属研究所)を開設したのでしたが、

 「出所時、彼は房内で書き付けた120ページつづりのノート、40冊を携えていた。10冊分は、同年中に「近世欧羅巴植民史」(第1巻・慶応書房)として出版され、また一部は大川塾での講義に使われることになる。」
  玉居子精広氏著『大川周明 アジア独立の夢』より

 静かで集中して机に向かい、誰にも邪魔されず、安心して眠り衣食住が保証され、盗聴、尾行、暗殺される心配のない理想的な場所で。。。😅😅 どう考えても満鉄、外務省、陸軍で事前に計画した偽装逮捕、偽装入獄としか思えない私。(←ただの主婦。。。(笑))

 話を戻しますが、落合莞爾先生の新書に見る大杉栄の行動と、ベトナム運動家の行動に相似性を感じる部分があります。

1)大杉栄氏、大正11年(1922)に密出国して北京でソビエトの要人に会う。⇒ 
 先の記事「ベトナム独立革命家とソヴィエト(Совет)ロシア労農政府との出会いに書いた様に、潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)もこの丁度その2年前、社会運動家、布施辰治氏の著書『露西亜の真相』を漢語訳し、これを持参して北京大学のソビエト在華代表を訪ねています。後には、阮愛国(グエン・アイ・クオック(=ホーおじさんとされる?謎の人物)含むベトナム人志士達が実際にソビエトへ留学しました。

2)1923年、大杉氏は上海を出港、フランス・マルセイユに到着。パリに滞在。約4カ月後マルセイユ出航、神戸へ戻る。
 クオン・デ候自伝「クオン・デ 革命の生涯」の「第10章 欧州滞在8カ月」に、1913年9月頃から欧州に滞在していたクオン・デ候が、中国の袁世凱(えん・せがい)総督と彼の部下、段祺瑞(だん・きずい)の招きを受け、急遽滞在先のロンドンから北京へ向かう記述があります(1914年4月)。

 「…長い間支援者が得られない日々が続いていたが、降って湧いた様に袁世凱のように軍事力のある人物から支援の意が届いたのだから、こんなに嬉しいことはない。 私は即座にイギリスを出発し、船で北京へ向かいました。 時期は、1914年4月でした。私の乗った船は、途中フランスのマルセイユに一日寄港しました。同船に乗船していた幾人かの日本人の友人が皆観光のため下船したので、私も下船しました。逮捕に昼夜血眼で捜索している人物が、実はこうして悠然とマルセイユの街を堂々と闊歩していたとは、フランスは思いもしなかっただろう。」
       『クオン・デ 革命の生涯』より

 日付に開きがありますので大杉栄氏との関係は不明ですが、相似性として注目は、クオン・デ候の言う「同船に乗船していた幾人かの日本人の友人」です。
 先の記事「仏領インドシナの中央銀行『印度支那(インドシナ)銀行』と『通貨発行権』にも書いた様に、クオン・デ候自伝の文章と構成は全体に無駄が無く、些細な記述にも意味があります。クオン・デ候は、「偶然にも」と言わず、また明確に「友人」と言ってますので、私はこれは「日本人の(隠密)護衛」だった可能性が高いと考えてます。
 もしそうならば、フランスにとっての最重要危険人物で常に厳重な密偵捕縛網を敷かれていたクオン・デ候が、フランスお膝元の欧州に8カ月も自由に滞在出来た背景の”辻褄”が合う。日本人の護衛はやはり全く目立たない人、例えば既に”死んだことになっている”とか”こんな所に居る訳ない”と誰もが思う人物だった筈です。そうでなければ護衛を付けること自体が目立ってしまって逆にアブナイ。
 きっと腕っぷしも立ち、語学堪能な大杉氏の様な人(そして既にこの世の存在を消した人)だったんだろうな…と私の想像は進む。。。😅

 もう一つ気付いたことがあります。
 抗仏闘争時代のベトナム人志士達は、一人で幾つもの偽名を使っていた為に誰が誰だか判りにくくなっています。当然当時のフランス側も同じ様に誰が誰だが判らなかっただろうから、これはベトナム人志士が密偵捕縛網を潜り抜け生き延びる方便だった筈です。そして、何故この偽名・変名を駆使する手が可能だったかと考えれば、仏印社会で「写真(機)」が一般的ではなく記念撮影の習慣がまだ無かったからじゃないでしょうか。そう考えると、既に記念写真撮影が一般的になった日本人が隠密行動に従事する場合、変名・偽名が使えない。だから、偽装死・変死の方法を取ったのかなと思ったりしました。

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 大東亜戦争後の現代日本では、「ベトナム人 クオン・デ」の名は見事に消えてます。
 私がまだ結婚して間もない頃に一度だけ、ベトナム人の義父が私に、「昔、ベトナムの皇子が日本に行ってたんだぞ。」と言いました。それに対するあまりの無反応・無関心ぶりに、きっと諦めたんでしょう、「なんでもない、なんでもない、気にするな。」と、いつもの優しい笑顔を向けてくれた義父でした。
 その後ベトナムで長く暮らし、段々とベトナム史に興味を持って来ると、それまで腑に落ちなかった歴史箇所が辻褄が合う様になり、それを周囲に話したら今度は私が、以前私が義父に向けたあの無反応・無関心を受ける対象になりました。実際に自分がその立場に立ってみて驚いたことは、現代日本では、”1975年以前のベトナムに対する無反応・無関心”が徹底しており、恰も”ベトナム史が全く存在しない様”だという事でした。

 最近の日本は、”実は日本史上の意外なあの人物が…!?”と、ショッキングな新説が多く出回り、それらは沢山の書籍や回想録を根拠に挙げてて何となく真実(の陰謀)っぽいですが、、”これじゃあ、仏領インドシナ史が嵌らないじゃない!?” と私はいつもがっかりしてました。いくら上手に作り込んだ話も、仏領インドシナ史を当て嵌めた途端にガラガラと崩壊します。
 大東亜戦争最期の大舞台の一つが仏領インドシナだったのだから、これが嵌らない、辻褄が合わないなら、その説の正体は結局”虚説”だと見るしかない。私は一人でそう思い続けて来ました。
 
 そんな孤独を抱えていた私が、”仏領インドシナ史を当て嵌めても崩壊しない”、”ベトナム人志士、独立運動家との接点が発見できる”、尚且つ、”辻褄が合う!”と驚いたのが、上述の落合莞爾先生のご著書の数々です。
 例えが変かも知れませんが、ジブリ映画『千と千尋の神隠し』のキャラ”顔無し”(←私😅)が、”おい、お前、何やってんだ?”といきなりこっちを向いて話しかけられた様な、やっと初めて、仏領インドシナ史が実在すると認められた感覚。。。
 
 世の中は異なった歴史解釈や諸説で溢れてますが、角度に依っては簡単に善悪ひっくり返ったりします。しかし少なくとも『真実』とは、どんな角度からの史実も受け止め、辻褄が合わなければならない筈。
 仏領インドシナ史を受け止めて、尚且つ辻褄が合う落合莞爾先生の歴史解釈は、今の日本では一番『真実』に近いんじゃないのかな、、と思え、これから更に仏領インドシナ史との相似性を探求してみたいと思います。
 
 

 

 

 
 
 
 
 

 
  
 

 
 





 

 
 


 
 
 
 
 

 
 
 

 

 

            
 

 


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