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松井石根大将の熱海伊豆山興亜観音

 ベトナムの抗仏運動史関連書を読んでいると、日本陸軍予備役大将、松井石根(まつい いわね)というお名前を、割と頻繁にお見掛けします。それも当然で、犬養毅首相が昭和17年の5.15事件で凶弾に倒れてからは、『大アジア協会』の会頭として、そして『如月会(きさらぎかい)』を組織してクオン・デ候とベトナム独立運動を陰日向に支援してくれていたからです。 
 松井石根予備役大将(以下、時々敬称を省きます)は、大東亜戦争中の『南京攻略戦』の司令官でした。その為に、東京裁判で「南京事件」に係わる「人道に対する罪」で、極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯容疑者として取り調べと裁判が行われます。判決は、絞首刑昭和23年12月23日午前零時3分に執行されました。
           早瀬利之著『将軍の真実』より

 私は、若い頃殆ど歴史を知りませんでしたので、それまで特になんとも思わなかったんですけど、ベトナムの抗仏史、仏領インドシナ史を調べたり本を読んでいくうちに、狭かった視野が広がりました。ですので、今はこれ⇧だけ書いただけで涙が止まらなくなります。涙目のまま先を続けたいと思います。。。

 『南京事件』は、戦後の私達世代にとって『南京大虐殺』という戦前日本軍が行った蛮行極まるショッキングな民族大虐殺が定説でした。私もずっとそれを含む日本人の悪行の数々を聞きながら、多感な学生時代を過ごしました、長い間日本人として自分に自信が持てませんでした。持てないというより、持ってはいけないという強迫観念に駆られて自己卑下が心の奥にあったと思います。
 さて、この『南京事件』の詳細、真実というものは、近年様々な新しい事実とか証言とか、角度を変えて、諸先生方が研究や著書を発表されています。ですので、私は別の角度から、やはり松井石根大将とベトナムとの繋がりと、そして大将が建立した熱海伊豆山の『興亜観音寺』のことをご紹介したいと思います。

 松井石根大将のお名前は、ここ→ベトナム国旗の“風変りな”話 |何祐子|note でもご紹介した、神谷美保子氏著『ベトナム1945』の中に出て来ます。
 「それ(=インドシナの独立運動)を陰で支えた、また局面に影響を与えた、代表的な支持者の例として、(中略)大東亜協会の会長として、アジアの国々の独立を望み、クオン・デ候を支援する『如月会(きさらぎかい)』を創設して画策したが、自らは南京虐殺の責任を追及されて、A級戦犯として処刑された松井石根(予備役)大将」
 「松井石根(予備役)大将は、駐留軍部を動かす影響力を持っていたが、1943年7月、サイゴンで、自分はクオン・デ候の友人であり、日本の目的は、ベトナムをフランスから解放することにある、フランスが平和裡にインドシナを去ればよし、さもなければ日本には考えがあると、過激な演説を行った。」
            『ベトナム1945』より
 
 1943年7月ですから、『明(マ)号作戦』の8カ月前ですね。(日本軍による『仏領インドシナ軍事クーデター、明号作戦』に関しては、こちらをご参照ください。→仏領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)で起こった軍事クーデター、通称「明(マ)号作戦」のこと その(1)|何祐子|note ) 既に此の年5月には、大本営が『仏印武力処理=軍事クーデター、マ号作戦』の研究開始を決定していました。

 「犬養毅が暗殺された後、クオン・デへの資金援助を始めた松井は、頭山満が顧問を務める「黒龍会」の関係者を中心として「如月会」という組織を結成する。この如月会が中心となって、終戦の日までクオン・デらベトナム独立運動家たちへの精神的、経済的な支援を行い続けたのである。松井は ベトナム人留学生たちのために、東京・桜上水に10人くらいが住める家も提供していた。」        
 「松井は後に、クオン・デについてこう述べている。「自分も頭山、犬養両翁から頼まれて、(クオン・デの)面倒を見た、支那事変が始まってから、安南で国民運動にたずさわっていた各党派が団結してはどうかという話が出て来た」」  牧久氏著『安南王国の夢』より

 ⇧の「玄洋社」とは、頭山満氏を中心に、主に福岡の旧肥前藩出身者で結成された団体です。クオン・デ候支援の「如月会」は、「黒龍会」メンバーを中心に結成されたそうですが、この「黒龍会」は、「玄洋社の「海外工作センター」ともいわれた」そうで、「インドやフィリピンなどの独立運動を支援するなど「復興アジア」に積極的に取り組んだ」そうです。松井石根大将自身もクオン・デ候のことを、「一口に言って彼は温厚なしかも亜細亜思想に固まった意志の人であり、人望のある志士だった」(「安南王国の夢」より)と評していました。
 ところで、松井石根予備役大将の、『予備役』というのは、現役でなく退役、要するに退役軍人という意味です。昭和10年(1935)8月に退役して現役を離れ、「大アジア協会」を設立しました。アジア植民地諸国の解放と、「誰よりも中国国民を愛し」、真の日中友好に力を尽くした人。それが、松井石根大将でした。

 「筆者の父、神谷憲三はジュネーブ滞在中、松井大将を補佐して、一年近く同じ宿舎で過ごした。涙を見せることが無い人だが、松井大将の話になると、あれほど中国と中国の人々を愛した人はいないと、南京虐殺の誇張された数を強く主張し、うっすらと涙を浮かべる。」 
             『ベトナム1945』より

 この⇧、ジュネーブ滞在中というのは、多分1931年12月の「ジュネーブ一般軍縮会議全権委員」として滞在していた時のことかと思います。松井石根は、フランス留学経験や海外大使付武官勤務期間も長く、フランス語が流暢でした。南京戦の時は、現地のロンドンタイムズ紙やニューヨークタイムズ紙記者と直接会見し、フランス人記者とは通訳が必要なかったそうです。中国語も少々、英語は会話には足りなくても意味は解した、成城学校-陸軍士官学校卒業の、優秀な武官でした。
 退役して予備役となっていた松井大将、当時59歳の時、突如として「至急出京されたし」と電報を受けとります。そして東京宮中に於いて「補上海派遣軍司令官」の辞令を受けとり(8月15日)、現場に復帰しました。
 東京を発ったのは、1937年8月19日。12月には南京城が陥落します。陥落後の18日に慰霊祭を執り行い、松井大将は、方面軍参謀へ、
 「中国軍の戦没者も合わせて祈り慰霊するようにせよ、これが日中和平の基調である。」
 
と、伝達しました。それから、現地で懸命に日中和平工作を行うも、翌年2月21日に任を解かれ、日本へ帰還します。そして、軍籍を離れました。

 帰国した松井大将の様子詳細が、早瀬利之氏著『将軍の真実』の第11章『寂しき凱旋』に書かれています。
 「宮中での天皇拝謁ならず-
 今回の(松井らの)帰還は、軍の命令により秘かに行われた。(中略)「凱旋の形式を避け、東京にての出迎え、上奏の手順などは、従来の先例を破りて、内輪に実施する」」
 宮中上奏と拝謁は前例を破り、無しとされました。松井大将はこの時のことを、「当局の意向笑うに耐えたり。何の意るも計り難し。かくのごとき姑息的当局の態度が、決して国民を挙げて時局に奮起せしむるの所以にあらざるはもちろんなり。」と日記に記しています。
 もう、この時期の日本軍上層部は、ダメダメ官僚組織の典型エピソードがてんこ盛りで本当に残念過ぎますねぇ。。。😭😭😭

 この時の「寂しき凱旋」の様子を、副官の角義春氏は手記の中で、
 「--2週間を経過、この間、大元帥に上奏上申もなければ、大本営に戦況報告もさせない。(中略)大先輩で、しかも歴戦の将軍である。遇する道を知らない。真の軍人と軍閥の差を想う。感無量であった。」
 「松井大将は支那に関しては日本軍内一の知識を持たれた方だったが、大本営は大将の意見具申を聞かない。後備役であっても、大元帥陛下の御命令による前軍司令官である。」
 そう記しています。帰国した松井大将を早速退役軍人扱いにした参謀本部は、松井大将が宮家へ御礼言上回りに行く時も、軍の車を出してくれなかったそうです。此の事に関して、角氏は、
 「ことの善不善や価値の大小が分からぬ馬鹿の多い軍隊、これが軍閥軍隊の実態である。戦さに負けたのも当然」だと嘆いています。

 軍内部は既に下剋上となり、コントロールの利かない時代に入っていたと云います。日本国中が乗っ取られていく、、丁度そんな雰囲気ですね。。。この頃は、ベトナム独立運動も、フランスに寝返る裏切り者の続出で精神的にも経済的にも人員的にも潰滅状態になっていた頃でした。

 脱線しましたが、帰国後の松井大将のことを続けます。
 松井大将は、日本中の傷病兵と護国神社へ慰問を続け、天皇陛下から賜った恩賜金を寄付します。
 そして、大森の官舎を引き払って、「無畏庵」と名付けた、熱海の海を見下ろす別荘に引っ越しました。松井大将の手元にあった小さな観音像がきっかけとなり、観音堂を造って祀ることが決まり、松井大将の発案で日本兵も支那兵も一緒に祀ることとなりました。松井大将は、
 「日支両国の戦没者は、とりもなおさず東亜民族興隆の、いわゆる興亜聖戦の犠牲者である。これら犠牲者の血肉によってできた観音像は、興亜観音と命名し奉るほかない」と語ったそうです。    
                                                           『将軍の真実』より
 そして、上海から10樽に詰めた土が届きます。この土を、愛知県常滑の杉江製陶所さんが焼成して、半眼合掌の鉄錆色の観音像が出来上がりました。そして、熱海の伊豆山に、昭和15年2月24日、『興亜観音』(興亜観音公式ホームページ (koakannon.org))の開眼式が行われたそうです。
 元秘書の田中正明氏はご自身の著書の中で、
 「昭和15年、興亜観音が建立され、昭和21年3月、巣鴨拘置所に下獄するまで、松井大将はさながら仏門に入ったような生活であった。観音堂参詣と朝夕の観音経の奉唱は、欠かすことが無かった。(中略)大将は南京攻略に参加した熊本の第6師団をかわきりに、京都、名古屋、富山、金沢などの各陸軍病院を訪ね、かつての部下の病床を見舞った。私もしばしばそのお供を仰せつかった。」
 「大将は、上海、南京戦で斃れた2万3千余提をともらうことと、5万の傷病兵を見舞うことが、帰還後から15年にかけての、生活の全部であったといってよかろう」

 と、書き遺しています。

 人を愛し、日本と中国の友好を願い、アジア植民地の解放に尽力し、戦没者の霊をともらう生活を続けた松井石根大将でした。南京攻略から帰朝後に天皇陛下から賜った恩賜金の殆どを寄付してしまい、自分の為には、犬養毅の眠る青山墓地の中の一基だけに使いました。
 しかし、東京裁判の判決によって、結局その墓地に眠ることも許されませんでした。
 昭和23年11月12日、東京裁判の法廷で、「デス・バイ・ハンギング」-絞首刑の判決が下されました。
 11月29日、巣鴨拘置所の戦犯教誨師花山信勝氏に対して、松井大将は語ったそうです。
 「こうなってみると、日本は大きな犠牲を払ったことになる――私に生命があれば、仏印の安南(旧サイゴン)へ行ってみたい」
             花山信勝氏著『巣鴨の生と死』より

 最期まで、クオン・デ候やベトナム独立の行く先を心配してくれてました。涙が止まりませんです。。。

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 この「興亜観音」寺に、私は不思議な縁があります。何年か前、お寺の事をネットで知り、熱海温泉旅行のついでにバスに乗って伊豆山観光気分でお参りをしました。松井石根大将のことやお寺創建のいわれなども、まだ殆ど何も知りません。本堂内で初めて目にした、松井石根大将のお写真は、本当に穏和で優しく慈悲深い好々爺という印象だけで、その時は、ベトナム抗仏運動のこととか、クオン・デ候を支援してくれていた事など全然知りませんでした。
 お寺をお参りした同年中だったと思います。私の身の回りに不思議なことが次々と起こりました。そして結局、ベトナム語が出来る以外に特に取りえも無い普通の主婦が、何故かクオン・デ候の自伝「クオン・デ 革命の生涯」のベトナム語版(原本は1944年頃に日本で発行された日本語版です。詳細はこちらをご参照下さい。→クオン・デ 革命の生涯|何祐子|note)を入手して、冊子の翻訳を志すようになりました。そして、自分で歴史背景も調べて、なんととうとう日本で出版もしてしまいました。💦💦  
 自分でも、もうなんだか良く判りませんが、やはり、人は生まれ持った「天命」というものがあるんだろうなぁ、、と、普段全く信心深くない私でも、最近そう考えるようになりました。

 近年に私の身に起こる(現在進行中、、)不思議な出来事は、何となくですが、クオン・デ候や松井大将、犬養毅子爵、東京裁判で絞首刑となった殉国七士、、、天国の方々は、死してなおあの世から現代の私たちのことを心配してくれているのか、と感じます。
 そのため、先日電車に乗って熱海に行き、興亜観音のご住職様(とても素敵な方です。)に今回出版した本をお届けして、お寺に奉納させて頂きました!😊😊😊⇩

 これを読んで下さった皆さん、熱海旅行の際には、是非伊豆山の興亜観音様にお参りして下さい。もしかして、私と同じく不思議な歴史の世界に入り込んで行くやも知れません。。。
  

 


 

 


 
 

 
 
 

 

 
 

 

  
 
 

 

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