満鉄東亜経済調査局『仏領インドシナ征略史』⑥ ~初期の植民政策・第一期~

 満鉄東亜経済調査局|何祐子|note

1,第一期(1885年~1895年)

 1889年の植民地会議の結果、完全なる同化政策を採用すべきことが決議され、従って一切の地方的事情は無視され、旧来の伝統的な諸機構は仮借なく破壊されるに至った。そして新たなる機構が生まれ、之に従うことを土民に強要した。…斯くの如き土民の消極的な抵抗の為に、フランスの同化政策は一つの越え難き障壁に当面したのである。
 …先ず同化政策の誤謬を最初に指摘したのはフェリーであった。彼は初めからインドシナを完全なる意味の植民地とすることに反対し、之を保護領として統治すべきを主張した。1883年の仏・安条約に於いて、植民地と保護国の中間的存在として認められた安南が、1884年6月の第2次条約にに於いて純然たる保護領となったのはそのためである。

 …そこでフランスは、一流の植民政策学者たるド・ラネッサンを派遣して実地調査をさせることになった。実地調査の結果は、その報告書において、インドシナ統治のためには土民の伝統と風習とが尊重されねばならぬことが主張され、数千年来の政治形態とこれに照応する独自の文化を一挙に変更せんとする思想が嘲笑された。報告書はこの社会組織に手を触れないことが望ましいことであり、政治の上に於いてもできるだけ変更を加えないことを理想とすべきであるとしていた。

 フェリーの理論はラネッサンの実地調査によって裏書されたのであるが、これを実行に移したのはポール・ベールであった。彼は自然科学者から政治学者に転じた人であるが、実際政治家として1886年1月安南及びトンキンの総督に任ぜられた。…彼の統治下に於けるインドシナは、ガリア二ーの統治下に於けるマダガスカル及びカムポンの統治に於けるチェニスとともに、フランス植民政策史の最も輝かしい頁である。
 彼はインドシナに到着第一歩、…フランスは唯北部のデルタ地方を確保しているだけで、西部トンキンの山獄地方は殆ど全く反軍の手に在り、北部の諸地方はまだ踏査の手さえつけられていない状態であった。就中安南(=中部)に於いて支配者たる智識階級は、殆ど一人の例外もなくフランスの統治に反抗の意を示し、フエに於ける安南王を「フランスの従僕」と看破し、王に対して従順の意を示さないのみか、祖先に対する反逆者として冷然たる態度をとっていた。
 …ベールは先ず流血と兵火の荒れ狂う安南に乗り込んだ。経済的発展こそは遅れていたが政治と文化の中心をなしている安南を収めることが全問題を解決する鍵であると信じたからである。当時安南を治めていたものは文官階級であり、王は儀式上又は宗教上の長に過ぎなかった。ベールは、衆望を王に集中せしめることが第一であると考え、形式的にもせよ王の権威を復活することに努力し、地方的な諸豪族の権力を尊重することによって、彼等を自分の味方とすることに成功した。
 …ベールは次いでトンキンの統治に着手したが、ここでは事態は更に深刻であった。…彼は先ず1886年4月宣言を発して、フランスは領土を欲しているのでもなければ民衆の生業を圧迫する意志もないこと、また民衆の風習は絶対にこれを尊重することを約した。賦役は制限され、重税は廃せられ、貧窮している地方に対して補助金を与え、その他病院、慈善施設を行なう等あらゆる努力をした結果、民衆の信頼は彼に集まった。
 彼は亦、多数の専門家の反対を押し切って、ルイ16世が国家の急に際し諮問機関として全国諸階級の名士から成る「名士評議会」を召集した故智に倣い、1886年4月、トンキンに「有力者評議会」を設置した。之は毎年各州から代表を選出せしめ、国政を審議した後、フランス植民行政の使徒として各州に帰しせしめるという仕組みであった。この制度は彼に土民と接触する機会を提供し、また、一般民衆の諦観的な無関心を匡正して、新時代の行政を理解させるのに非常な効果があった。
 …以上政治的、社会的な諸改革を、ベールは1886年4月の赴任から同年11月の死亡に至る僅か6カ月足らずのうちに成し遂げたのである。ベールの功績は、土民の社会生活を一挙に破壊せんとする同化政策の根本的な誤謬を立証したことである。
 果せるかな、彼亡き後の5年はあらゆる点に於いて失敗の連続であった。僅か5年のうちに総督の代わること実に5人而もこの5人とも皆それぞれ、その前任者と反対の政策を採用したのであった。この様な政策の不断の変更は、一定の強権政治が継続されるよりも寧ろ有害であった。社会の治安は乱れ、山賊の数は増え、土民は集団的に逃亡し、又は山賊の群に投じ、1891年には、ハノイの城門にまで反徒が襲来する有様で、掠奪と兵乱は一般民衆の生活根底から破壊した。

 そこで起用されたのが、改革論者のラネッサンである。彼がインドシナに特別監督官として上陸した1891年は、トンキンは殆ど潰滅の状態にあり、予算は1200万フランの赤字を示していた。公共事業は全て中止され、デルタ地帯に於いてさえ平静を保っていたのは僅か2州に過ぎず、山嶽地方は事実上独立して居り、紅河以西の全地域は山賊の支配下にあった。安南に於いても役人達はフランスに反抗的態度を示し、カンボジアは衰微しきっていた。ただコーチシナだけが、米の輸出が増していたので、僅かに繁栄の気運を示していたのである。
 ラネッサンは先ず1)安南政府の官吏は横暴極まる貴族階級であって之を打倒することが民衆の信頼を得る所以である、2)安南王の地位を強化して、之を官吏の打倒に利用する、3)トンキンは安南政府の統治よりも寧ろ外国人の統治を希望している、という誤れる3つの前提が、フランスの植民政策の失敗の原因であることを看破した。…そこでラネッサンは官吏群に旧来通りの権限を付与することを決意し、自らは唯間接的に之を統治するという方針を採った。…そしてまたトンキンの官吏と安南の王廷との間の従来の関係を復活させたのである。一方安南王はトンキンの官吏がフランスに対して忠順の義務を負うべき布告を発し、他方ラネッサンは安南王が従来トンキン及び官吏群に対し有していた宗主権をそのまま認めた。その結果、…デルタ地帯の大部分は彼が就任を見た1891年の終わりまでに平静に帰し、官吏群はどこでも「最善の平和の使徒」となったのである。
 …次に、土民の一般社会生活に対しては、之に無益なる変化を与えないことを信条とした。彼は、嘗てコーチシナで行われた様に、土民の家族制度、相続制度及びその他の共同体組織を破壊してフランス式の民法を以て之に代えるが如き政策を好まなかった。寧ろ土民の宗教を、社会制度を尊重し、そして又その役人達を尊重することこそ、近代的植民政策の基本原理であると考えたのである。
 彼は以上のような方針に基づいて、治安を維持し統治を進めた、…そこで彼は全力を尽くして経済的開発に着手した。ランソンに至る軍事鉄道敷設の工事を起こし、港湾を開き、1891年から92年至る2年間にデルタ地帯に350㎞の鉄道を敷設し、租税制度を整備して財政の確立に努力した。その為に、租税収入は彼の赴任当時の376万ピアストルから660万ピアストルに、関税収入は82万ピアストルから204万ピアストルに増加した。彼がインドシナに来た当時は、金融業者から百万フランの金を借りることすら出来なかったが、彼がインドシナを去る時には、5千万フランの公共事業が完成されていた。そしてフランスの金融業者達は、政府の保証なしに、1500㎞の鉄道敷設に要する資金を提供したのである。
 然し、本国政府はラネッサンの威望に不安を感じ、1894年突如として、事業の途中にある彼を本国に召還した。

 彼の召喚が如何に無意味なものであったがはすべての関係者の認めるところであったが、…1896年の3月には、インドシナに於ける公共事業は、年々の税収入の限度に止らるべき法令が発布され、而もそれさえ総督の権限から取り上げて直接本国の財務長官と連絡するパリの政府の代表の管轄するところとなったのである。即ち総督の創意は無視せられ、全ては本国政府の指令を仰がねばならないことになった、…ラネッサンの土民政策はそのまま継続されたが、彼の経済政策は一場の夢と化した。そしてこの状態は、1897年メリーヌ内閣によってポール・ドゥーメルが総督に任命されるまで続いたのである。

*******************

 このようにベトナムに於けるフランスの植民地運営初期は、多少ゴタゴタは有った後で何とか上手く行っていた模様です。

 この頃ヨーロッパのフランス本国は大変な変動期です。ネット情報ですけど、⇒フランスの歴史年表 - Wikipediaを貼り付けて置きます。
 革命、暴動、戦争、、、の連続なんですよね。そして、1870年からは『第3共和制』。ドイツがパリを制圧する1940年まで続きました。

 仏印史を調べてると、19世紀末頃からのフランス本国の混乱ぶりが際立ってます。フランスだけではなくヨーロッパ全体がざわざわとし、アジアの戦乱はアジアで自然に起こるものでは無く、いつの時代も常にヨーロッパの混乱の波が押し寄せて来た結果の一現象に過ぎないことに気が付きます。

 昭和8(1933)年発行の『非常時国民全集 外交篇』(中央公論社発行)、時の外務大臣松岡洋右の寄稿文『皇道外交を確立せよ』の中にこんな文章があります。⇩

 「現在世界を挙げて一大不景気の底に沈淪しているが、此の不景気は決して景気循環論者の云う様に時期を俟って自然に回復するものではない。従来景気、不景気が循環してた状態とはもっと根本的な原因から来るのである。
 現在世界の変局なるものは、滅亡に瀕した現代文明の悩みを包蔵しているのであって、所謂非常時を、私は現代文明の自殺への道程と解し、そこに深刻な意味を認めるものである。
 欧米の主要国たる英、米、仏、露、独、伊の諸国は何れも現代文明の行き詰まりにもがきつつ帰趨を失い、混迷に陥っているのである。」

 こんな状態⇧が具体的に書かれた文章がマクロビオティック創始者櫻澤如一(さくらざわ ゆきかず)氏著の『ジャックとミチ』(1957年巴里で発行)にあります。

 「私がヨーロッパを初めて訪ねたのは、1914年であります。その時に私が見たものは、すべて私の讃美と驚きと喜びと尊敬の対象になりました。しかし妙なことに、『不可解』なことがありました。この『不可解』は、西洋に見られる哲学の欠乏であり、最高判断力の欠如でありました。
 …1929年に、私はおかえしに、我々(東洋人)の数千年を経た、非常に実用的でわかりやすく、社会に無限の自由と平和を打ち立てるのに必須である哲学を皆様に贈る為に、再びやって参りました。…しかし、誰一人私を理解してくれる人はありませんでした。…それで止むなく私は、皆様に日本の『目に見える』文化を差し上げることを始めたのです。生け花とか、お茶とか、柔道とか、中国風の鍼灸療法とかいったものを、エレホン哲学とかインド仏教の代わりに教えたのです。1935年まで、全力を尽くしてそれをやりました。ごくごく少数の人々しか、私の東洋哲学の勉強について来ませんでした。…1935年に私はヨーロッパを去りました。
 去る3月(1956年)に当地(=欧州)へ再び帰るまでに、21年という年月が流れました。
 驚いたことに今やフランス、スイス、ドイツには鍼灸療法をやる公式医師が無数におり、何千という柔道家が活躍していることを知りました。(中略)今回は、多くの医者と知識人が私の話を聞いてくれました。しかし、驚いたことに、25年前と全く同じように、誰一人として、この最も古くて、最も実用的で、最もやさしい弁証法である無双原理をわかってくれた人はありません。(中略)現在の私はすっかり訳がわからなくなり、唖然としてしまい、度肝を抜かれ、呆然自失して絶望に瀕する思いでいるというのが、いつわらざる心境であります。
 …一方、今回私が見るものといえば、かつて自由、平等、博愛が支配した西洋のあらゆる国々に、不平等と敵意と不自由があるということです。国内には血なまぐさいストライキやデモや、そのまた対抗デモがあり、何百とも知れない逮捕、負傷、殺人が繰り返されています。…残虐性が西洋を支配しているのです。
 …ここで最高の王座を占めているのは力であります。」

 力=金(マネー)の奴隷。それが近代西洋人であり、彼等には完全に『哲学』が欠けているのだと。
 そりゃあ、戦争ばっかりする訳だ。


 


 
 
 

 

 
 

 
 
 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?