べト・ミンの実態を追う③😭『民族の誇り』

 べト・ミンの実態を追う②🤐『拝金植民地主義エージェント』

 1945年4月に誕生したベトナム新政権のチャン・チョン・キム首相が回想する様に、1945年3月9日の日本軍による軍事クーデター仏印武力処理』=『明(マ)号作戦決行後は、国内の共産党の活動が大きく変化しました。北部では、「無頼者を送り込み各地で乱暴狼藉を働かせ、奴らは抵抗者を拉致するか眼の前で殺害」したりしたので、一般民衆は恐怖に慄いていたそうです。当然ですよね。。。

 とは言えその当時は、インターネットも携帯電話も勿論無い、テレビも何もまだ無い時代なので、各地の不特定多数の人々へ瞬時に動画や写真と共に情報を拡散できる手段などありません。
 だから、北部出身のキム首相が実際に北部で見たべト・ミンは上⇧のような無法者集団だったというだけです。実際、キム首相自身、新政権首相就任後5月頃にフエからハノイへ飛び、現地で初めてべト・ミンの詳しい情報を収集した、と回想してます。これを拡大解釈すれば、『中部・南部』ではべト・ミンは住民に危険だと特に認知されていなかった=暴れまわったり、住民に危害を加えていなかったのかと思います。

 しかし、そんなベトナム民衆に比べて、、、在インドシナ日本軍は全然条件が違います。通信手段には電報も無線もあり、飛行機や列車で往来し情報網もあります。そして、⇩

 「1945年5月頃のこと、ベト・ミン勢力がかなり強大であることに気付いた日本人は、きっと国家主義的な政党だろうと想像し人を派遣して交渉を試みた。同年5月9日に、日本人2人とベトナム人通訳一人がタイ・グエン省ダイ・トゥ県近くのキ・フ邑を訪れたが、全員ベト・ミン軍に殺害されてしまった。」
         
  『一陣の埃風』より

 べト・ミンと交渉する為にタイ・グエン省に入った北部安隊の丸山少佐と原田俊明(大川塾出身)とベトナム人青年グエン・チェン・ジェム君の惨殺遺体が現地で発見された事件。この情報は、北・中・南部に進駐してた日本軍は情報共有してた筈です。
 
 と、ここで、、、この連載のコアな読者(”…だから居ないってばぁ。。。”←我が家のJDの声。。😅)も、私と同じく、やはりお気付き疑問をお持ちでしょうか、、、それは、先の記事「日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様②」に書いておいたこの史実です。⇩

 「…1945年10月に既に離隊しべト・ミンに参加していた元若松連隊所属の猪狩和正中尉,加茂徳治中尉及びその部下数名がこの学校の教官・副教官として勧誘を受け参画することになった。
 昭和21年(1946)6月,クアンガイ陸軍中学(Trường Lục quân trung học Quảng Ngãi)開校。」

 独立混成第34旅団の井川(少佐)参謀は、中部フエ上陸後に中部ベト・ミンと連携し『相互不可侵協定』を結んでた。そして、第二師団歩兵第29連隊(=会津・若松連隊)の駐留場所は中南部ファンティエット(Phan Thiết)です。
 だからこそ、元若松連隊所属の猪狩和正中尉,加茂徳治中尉及びその部下数名が日本敗戦後に10月に現地除隊となってからそのまま何のためらいもなく中部べト・ミンに参加したのでしょう。要するに、中部べト・ミンは住民を殺戮したりして無かったという証拠だと思います。もし北部のべト・ミンの惨状を知って居たら、そんな不名誉な無頼集団に会津出身の元日本兵の若者達が参加するとは常識的に考えられません。。

 と、ここで或る一つの疑問が浮かびます、それは、、、
 井川少佐の部下だった中原少尉が,べト・ミン幹部のグエン・ソン(阮山、Nguyễn Sơn)に士官学校設立を進言した所までは解っても、妙なのは、『クアンガイ陸軍中学(Trường Lục quân trung học Quảng Ngãi)』の開校が昭和21(1946)6月だったことです。

 北部でベト・ミンは、1945年の3月以降は無頼の暴力集団に変身し、市内各所で日本人憲兵や市民らを拉致、殺害。5月には交渉に行った日本兵とベトナム人通訳が山奥で惨殺され、8月15日以降デモ頻発でバオ・ダイ帝に退位を迫り政権を把握。皇宮で王家の宝物を漁り、1946年1月は不正選挙で9割の議席を占めてました、、、

 こんな状況でその年の6月に、元日本軍が中部でべト・ミン青年達の軍事教育の為に『陸軍学校』を立ち上げた。そして、ベトナム青年達は何故、1946年6月元日本兵の下に『陸軍学校』に集結したのか?

 。。。推察ですけど、その理由は、それが大東亜戦争の一部であり、ベトナム(東南アジア)で大東亜戦争が継続することを意味してたんだと思います。
 日本軍は、日本に原爆を落とした後の連合国という巨悪が、今度はベトナム北部に上陸した、だから今度はここインドシナが戦場となって火の海になる、と明確に認識していたんだと思います。そして、それと戦い国を守るのはもう日本軍という外国軍隊ではない、これからは、君達自身が自分達の力で祖国を防衛するんだと。

 、、ここまで私一人で勝手に話を進めましたが、いつも考えがここまで来ると、私の頭にいつも浮かぶ、或る画像があります。それがこれ⇩

 。。。50代以上の方は、直ぐ判りますね。。アニメ『ガンバの冒険』です。私は子供の頃に大好きで夢中になって見てましたが、『ノロイ』が本当に本当に怖かった。。テレビの前で弟と一緒に恐怖に凍り付いてたことを思い出します。毎週アニメを見ながら思ってたのは、
 「あんなに怖い敵に、どうして立ち向かって行けるのか?」

 ”もういいじゃない、諦めたらいいじゃない、どっかの島で誰かが苦しんでいてもほって置けばいいじゃない、自分が死ぬよりいいじゃない、だって敵はあんなに巨大で強力で残忍で横暴だ、敵わないよ、、、”
 私はいつもそう思ってました。。。子供心に、完全に恐怖に支配されてたんだと思います。😅 
 その頃の日本社会はもう、高度経済成長からバブル前夜頃で、両親も社会全体も、礼儀や規則を守る事には煩かったですけど、正義とか義理には案外無頓着だったような気がします。私の両親は共働きで、家の中には新しいテレビ、大きな冷蔵庫、羽毛布団、ゴルフバックなんかがどんどん増えてましたが、夜帰ってくると夫婦喧嘩ばかりしてましたね。
 だからあの頃、弟とTVアニメばっかり見てました。 

 話がちょっと反れましたが、、、(笑)
 結局、巨悪に立ち向かうとは勝ち負け或いは損得の問題ではなく、自分達民族の歴史と誇りを諦めるのかどうかの問題なんだな、、と、この年齢になってやっと分かりまして。
 だから、あの時にクアン・ガイ陸軍学校に集まった『本当のベト・ミン』ベトナム青年達の決心や勇気、精神性に想いを馳せる時、私はいつも、日本の特攻隊の若者達にも絶対に劣らない、そう思えてならないのです。

 いつの日か、これからの日本の若い世代から、こういったベトナム史研究と発信が始まればいいなぁ、と願っています。

 

 

 
 

 

 

 
 
 

 
 
 

 

 
 

 

 

 

 

 
 

 

 

 

 

  
 

 
 
 

 
 

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?