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日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その②

 日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その①
 
1940年
6月 パリ陥落(フランス本国がドイツに降伏)
9月15日 タイから在バンコク仏大使に4箇条要求
  17日 仏印側はこれを拒否
 (ドン・ダンの戦が終わり、
日本軍が北部仏印進駐開始)
  30日 タイ再度要求を申し入れ、仏印再び拒否
     タイ・仏印両国陸軍が国境方面へ集結
11月25日 タイ軍が国境を突破して侵入を開始
 (12月に入り戦況激しくなり、日本は調査団を派遣)
12月22日 ロバン仏印名誉総督が日本着 
   30日 東京(日本)第一回会談

1941年
1月4日 第2回会談
    15日~19日まで8回の非公式会談を経て、
 20日 松岡外相からアンリー仏大使へ国境紛争調停を正式に提議
 24日 日本の調停が正式決定
 28日 タイ・仏印国境で停戦喇叭が鳴る(午前10時)
 29日 サイゴンでは、澄田少将とタイ・仏印両国代表と3者会談
 31日 サイゴン河上の軍艦『名取』上に於いて、タイ・仏印代表が停戦調印 
2月7日 日本の首相官邸にて、第一次公式会談開催
 14日 松宮大使とタイのワンワイ殿下(首席全権)会談
 16日 松宮大使とロバン仏印名誉総督会談
    17日~24日 4回の非公式会談、
 24日 第4次非公式会談で松岡外相より最期的調停案提示
 25日 停戦期限を一週間延長(⇒3月7日へ)
 26日 タイは、日本の調停案に全面的受諾を回答
       仏印は拒否
3月2日 タイも拒否
3月10日 タイ・仏印両国とも受諾
  11日 東京で調印式
(上⇧の写真です)

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 時系列を見ただけでも、胸が熱くなりますね~、(そんな人お母さんだけだよ。。。←我が家のJDの声、、(笑)😅😅)

2月7日 日本の首相官邸にて、第一次公式会談開催

 
この時⇧の日本国首相は、当然ですけど近衛文麿(このえ ふみまろ)氏です。近年『近衛ガー、日米戦争を策謀したー』で華麗に保守言論界にデビューされた某歴史研究家の方がこの『タイ仏印国境調停』に言及した文章を私はまだ見た事ありません。(笑)

 さて、記念すべき第一回公式会談の後ですが、拝金植民地主義者の方たちは、勿論黙っちゃいませんでした。⇩
 「2月11日英国政府は1万2千のインド兵をマレーに増派すると発表し、15日にはビルマの東部国境に外国人の立ち入りを禁じ、その翌日はシンガポール東海峡に機雷が敷設されたと公表した。ビルマ、マレーの国境には地上部隊2万、飛行機150が集結されている。そしてタイ国在留の英国人婦女子に向って引き上げ勧告が発せられた。…更に英国はタイへの石油輸出を禁止し、米、ゴム、錫などの市場を攪乱すべき経済的手段をとった。タイは内外から迫る英国の強圧手段にあって、国内騒然たるものがあった。」
         『包囲された日本』より

 モーレツです。。。
 そして、更にです、
「タイにピブンの政敵たる反ピブン派というものがあって、…ピブンの政策を批難し、日本は余計な時に出て来たと言いふらした。その裏面には英国の手が動いていた。(英国がタイを後援すれば、ラオスとカンボジアの全部をとることができる。日本の調停を拒絶せよ)というのである。」

また更に、
「当時仏印には、ドク―の勢力とロバンの系統をひく本国派官吏の勢力があり、クーザン財務長官を代表とするコルシカ財閥や、ユダヤ財閥があり、それらの勢力が一々発言権をもっているので、」

おまけ、
「サイゴンにつづく華僑の街チョロンは、排日支那人の大巣窟であった。11月20日に仏印総督はここの大検挙をやって、排日行動を今までは許していたが、今後は許さないという態度を明らかにした。」
 
更におまけ、
「12月13日 シンガポールにド・ゴール政府(反ビシー政府)極東代表部設置」

 。。。彼らの常套手口は、表立っては恫喝し示威行動を見せつけ、どこにも売国奴を養い、全方位にスパイを送って、反社的な執拗で執念に満ちた裏工作、買収、策謀、密謀、陰謀の連続です。敵は手強い。😭

 停戦期限だった3月7日を過ぎても会談は纏まりませんで、この時松岡外相からタイと仏印両国へ必死の説得があったことは言うまでもなく。それが実を結び、停戦期限を2日過ぎた3月10日に両国が日本の調停案を受諾しました。
 3月11日、日本での調停式の同日、バンコックにおいても首相官邸で盛大な祝賀会が催されました。その時のピブン首相の演説が、⇩

 「われらは日本の誠意と友情に感謝する。今回満足すべき条約を成立し得たのは、一にわれらの実力と日本の後援によるものである。われらは日本と提携し、あくまで東洋平和のため邁進せんとするものである。」

 この報を日本で聞いたクオン・デ候、嬉しかったでしょう。日本の調停によって、タイと仏印(ベトナム)間の領土問題の平和解決が成ったのです。タイ人とベトナム人の一部は、元々モンゴルの方から一緒に南下して来た同胞なんですから。

 この調停会談に御出席された方々のお写真がこちらです。

ロバン仏印名誉総督


アルセーヌ・アンリー駐日フランス大使


タイ全権ワンワイ殿下
タイ全権セナ公使

 ベトナムのクオン・デ候と同じく、目を見れば皆、慈悲と正義感で溢れているように思います。。。😊😊

 しかしです、、この4年後に広島と長崎に原爆が落ち、日本が連合国に無条件降伏すると、ベトナム同様、タイも、アジアの解放という志半ばで、日本という頼れる兄貴を失いました。

 1932年タイ立憲革命後、1938年12月から首相として政権を率いたピブン首相も、結局1957年のクーデターで政権を追われました。立憲革命後から英米がタイ国内に醸成してた『反ピブン派』の存在を考えれば、これは仕方ない。でも、国を追われたピブン元帥の亡命を助けたのは日本です。 

ピブン元帥

  ピブン元帥は、『ドンダン、ランソン進攻』時の第5師団師団長だった中村明人(なかむら あけと)中将を頼って、日本へ亡命しました。そして、そのまま1964年に神奈川県相模原でお亡くなりになっています。享年67歳でした。お二人の友情を想うと胸が熱くなります。😭

 それにしても、こんなに華々しい日本平和外交の成果なのに、戦後は全然話題に上らない。。。日本外務省は不甲斐ないです。
 なんでかな~、不思議だな~、と思って調べて見ると、やっぱりアレが原因じゃないでしょうか。松岡洋右が外務大臣就任直後に左遷した40人近い外務官僚様たちの怨念と執念か。。。
 次回以降に、戦後利権者として日本外務省に華麗に復活した、戦前の『反松岡=反革新派』の存在を取り上げたいと思います。。(笑)

  

 

 



 

   
 
 
     

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