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日本の平和外交『タイ・仏印(ベトナム)紛争調停(1940-41年)』その①

 第2次近衛文麿(このえ ふみまろ)内閣の時の平和外交『タイ・仏印紛争調停』。日本人にとっては大変誇らしい史実の一つです。
 。。。しかし、殆どの日本人は何故か全く知らない。。。戦後日本外務省の強烈な呪いが掛かってます。(笑)😅

 今日は、時の外務大臣松岡洋右(まつおか ようすけ)が牽引した、『仏印進駐』(1940年9月)直後の日本が2国間の調停に入って見事成功させた華々しい平和外交を取り上げたいと思います。⇩

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 「1867年までのタイ国の全領土は、その面積実に百万㎢に垂んとする広大な地域を擁し、当時の仏印はトンキン、安南及びコーチシナの東部沿岸諸州のみの細長いものであった。しかるに、同年より1907年に至る40年間に、46万7500㎢のタイ国領土を侵食し、ためにタイ国は、今日往時の約2分の1の領土を有するに過ぎず、失地恢復の熱意の熾烈なるはここに贅言を要しない。」
 
 これ⇧は、昭和16年発行の『新亜細亜』(東亜経済調査局)中の論文『泰・仏印紛争調停と第3国の策謀』(石川昌彦氏著)の文章です。

 フランスはベトナムを植民地化して以後、国境を接するタイ国領土をじりじりと占領していました。時系列の詳細は、⇩
1)1867年、カンボジア全領土(一部地域を除く)
2)1888年、シプソン・チュタイ
3)1893年、メコン河左岸地域(ラオス)及び河上の全島嶼
4)1904年、メコン河右岸地域(ルアン・プラバン及びパクセ)
5)1907年、パッタンポン(パタポーン)、シエムラ―(シェムラート
及びシーソポン
 総計で、46万7500㎢。なんと、領土の半分近くもフランスに不法占拠されてました。
 それでもタイ国民の殆どがまだのんびりとその日暮らしをしていた間に、国内経済は完全に華僑に握られて、結局昭和15(1940)年頃のタイは実際こんな状況だったそうです。⇩

 「英国大使クロスビーはタイ国駐在40年、…隠然としてタイ総督の観があり、政治経済外交の一切に発言権をもっていた。タイ国紙幣の金準備の大部分はイングランド銀行にあった。閣議によって決定した国庫予算は、英国人財政顧問の検閲を受けていた。…国家予算は彼の承諾なしには成立しない。検閲済みの予算案は英国植民省に送られ、イングランド銀行に廻付されてはじめて成立する。この事実は、タイ国の独立とは名ばかりのものであったことを証明している。国内経済の大部分は英国系資本と華僑資本に占められていた。英国は銀行や商社に実権を持ち、華僑は精米工場の大部分を支配していた。」
         石川達三著『包囲された日本』より

 。。。こんな状態だったタイに大きな変化があったのは、1932年です。⇩
 「かかる屈辱に対しタイ国に於いては、1932年の革命以来、新政権は鋭意国力の充実をはかって、これが恢復是正を期しつつあった」
 
 これが『タイ立憲革命』です。ネット情報はこちら⇒立憲革命 (タイ) - Wikipedia  この革命により、タイは『絶対君主制』から『立憲君主制』へ移行しました。

 「南海の我が友邦、新興タイ国に、近年澎湃として昂まりつつあったナショナリズムの波が、失地恢復運動に於いて愈愈高潮に達し、初志貫徹のための実力行使に至って、その集中的表現を見せたことは極めて自然であった。(中略)…相手国たるフランスが脆くもドイツの軍門に降って、その植民地帝国が瓦解の危機に晒されつつあるを見て、タイ国内に於ける失地恢復の国民的要望が熾烈化したのは当然であった。」
      『泰・仏印紛争調停と第3国の策謀』より

 1932年に立憲革命を主導したのは、『タイ人民党』です。実際に、この軍事行動を実行、成功させた方々のお写真です。⇩

立憲革命 (タイ) - Wikipedia  より

 長い間、国内経済は他国人(華僑)に牛耳られ、政治は西洋人(英国)に完全に抑えられ、領土半分が武力侵略されたタイは、1932年とうとう我慢の緒が切れ、国内改革を求めて軍主導で『立憲革命』を決行したのです。

 ところで、1932年といえば『満州国』建国年です。翌年に日本は国連を脱退します。成程、1933年2月24日にスイスジュネーブで『満州国承認』の採決を『反対』せずに『棄権』したのはタイ一国のみでした。要するに、この時『棄権』を叫んでくれたのは、立憲革命直後のタイ新政府です。この事に関して、日本帰国後に松岡洋右外相自身がこう語っています。⇩
 
 「第一この点につきまして、シャム(=タイ)が棄権しております。シャムは棄権したので、反対投票をした訳でないとおっしゃるかも知れませんが、これはその場の光景を御存知ないお方のおっしゃることでありまして、あの時の棄権というのは、殆ど反対投票と同じであります。シャムが『棄権』と叫んだ時に、それに対する嘲笑の声まで聞かれたくらいであります。そういう空気の中に、シャムは敢然と棄権と叫んだ。(中略)殊にシャムが棄権した。日本を除く外は、アジア広しといえども、今日本当に独立国といえる国は、このシャムしかない。そのシャムが嘲笑の中に、敢然として『棄権』と叫んだ。是は何を意味するか、是はアジアの声であります。地球上一番多いアジア人の声が連盟の耳に入らないのか。これが連盟を破壊するのであります。」
    『ジュネーブより帰りて』(昭和8年5月1日、東京中央放送局)

 「南海の我が友邦」、、、タイよ、ありがとう!!👌👌👌

 タイは、国内経済が完全に華僑と英国に握られて行く中で、同国人の売国政治家らが魂を売り、国を売り渡す様を見て来たでしょう。世界拝金資本主義の侵略から祖国を守るために起ち上ったタイ陸軍を中心とした愛国者達が、同国の売国奴から政治を取り戻したのが1932年『タイ立憲革命』だったのだと思います。
 
 話を昭和15(1940)年に戻しますと。。。
 この年6月にヨーロッパではドイツがフランス・パリを占領、フランスはドイツに降伏して『独仏休戦協定』、ここからのフランス政府は、ペタン元帥が首相の『ビシー政府』です。
 ヨーロッパの急転動地を見たタイのピブン内閣は、「相手国たるフランスが脆くもドイツの軍門に降って、その植民地帝国が瓦解の危機に晒されつつあるを見て」、そうして、失地恢復の国民的要望が熾烈化したのでした。

 しかし、それを黙って指をくわえて見てる様な拝金金融主義者達ではありません。。至極当然、明白に威嚇が始まりました。⇩

10月初 在バンコックアメリカ大使がタイへ『現状維持』申し入れ、同時にタイからの注文爆撃機10機をマニラで差し押さえ
11月末、在バンコク仏国陸軍武官がピブン首相を訪問して恫喝。
   25日 (タイ軍は国境を突破して侵入開始)
12月10日 イギリスが重慶に1千万ポンドの借款声明。
   13日 シンガポールにド・ゴール政府(反ビシー政府)極東代表部設置
   22日 イギリス軍有力部隊がマレーに到着
   30日 アメリカが鉄鋼などの輸出許可制を実施

 本国フランスがドイツに降伏、その直後に日本軍が仏印へ進駐、、、この状況では、やっぱり列強は『タイ全土を占領してしまえ』という意志があったでしょう。或いは、タイと仏印(ビジー政府=友日)が紛争して双方が疲弊するのを待つ目的で、裏で領土紛争を策謀していた可能性もあります。

 しかし、そこへ!日本外務省が毅然と両者の間に割って入って紛争調停を申し入れ、見事成し遂げたんですね~。この時の日本外務省はカッコイイです、戦後の腰抜けガイム省とは大違い。(笑)
 よく考えて見ると、もしこの時、日本が調停申し入れをして居なければ、タイは絶対にイギリス領植民地に組み入れられてたか、バラバラに分割されていた筈です。。。しつこいようですが、やっぱりこの時の日本外務省は正義の味方だ、本当にカッコイイ。⇩

 「…(日本)帝国政府は、東亜の平和を攪乱に導き、共栄圏の樹立を阻害せんとするこれらの悪意ある策謀を鋭く注視し、国境紛争の推移に対して深甚なる関心を払っていたが、戦火は益々拡大の一路を辿り、英米側の暗躍は愈々活発になり、英米泰密約説及び仏印に対する米国の経済的圧迫等は、実に憂慮すべき事態を醸成しつつあった。依って日本政府は、本年一月断乎たる重大決意の下に、居中調停の方針を泰仏両国政府に提議し、両国とも、これを受諾すべき旨直ちに回答せるを以て、同月29日、サイゴンに於いて、わが澄田陸軍少将主宰の下に両国委員の現地停戦会議を開催し」
      
『泰・仏印紛争調停と第3国の策謀』より

 このような⇧運びになりました。。

 「斯くて、我が外交史上空前の歴史的事件たる、東京調停会談はその第一次公式会談を(1941年)2月7日首相官邸に於いて調停者松岡外相主宰の下に開かれ、その幕を切って落とした。」

 その②で、この前後の⇧カッコイイ経緯を時系列に纏めたいと思います。。嗚呼、戦後日本ガイム省の『松岡恨み節』と歯ぎしりが聞こえます。。(笑)

 

 

 

 

 

 



 


 

 

 

 




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