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仏印”平和”進駐の『第2次近衛内閣』総理大臣・近衛文麿のこと その①

 『日本と仏印(仏領インドシナ)』の最も重要な出来事に1940年の『(北部)仏印平和進駐』があります。この時は『第2次近衛文麿内閣』でしたから、関連書を読んでいるとこの時の内閣の関係者、要人のお名前を目にすることが多いです。
 不思議ですが、戦後日本では日本の大東亜戦争史解明にとって極めて重要なカギを握る『仏印史』が見事にすっ飛ばされているような印象を持ちます。このままでは完全に埋もれてしまいかねない。。。一度完全に埋没してしまえば、再度掘り起こすのは容易なことではない、、と、今日も田舎のボロ家で埋もれた歴史掘り起こしに励む一人の主婦、、、それは私。。😅

 『第2次近衛文麿内閣』シリーズとして先に 仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』陸軍大臣・東條英機のこと その(1)仏印”平和”進駐の『第2次近衛文麿内閣』外務大臣松岡洋右のこと その(1) を記事にしました。内閣の中心人物だった『総理大臣』近衛文麿氏のことは、どうやって纏めようか少々悩んでいたのですが、取敢えず一度記事を上げてみたいと思います。
 なぜ悩んでいたのか、それには2つ理由があります。一つは、近衛氏は戦争で困難な時期に第1次から第3次まで3回に亘り総理大臣を拝命、内閣を組閣し、合計でかなり長期間政権を担っていたこと、要するに私には範囲が広すぎるのです。😅 理由2つ目は、この近衛文麿氏は近衛篤麿侯爵のご長男で、この近衛篤麿侯爵というのは『東遊(ドン・ズー)運動』(=ベトナム独立運動家の潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)とベトナム皇子クオン・デ候の起こした出洋救国運動)により、1906年頃から祖国を出奔して渡日したベトナム人を留学生として快く全員受け入れ面倒を見てくれた『東京同文書院』(こちら→ベトナム独立運動家の見た日露戦争直後の明治日本・見聞録 その(2)の設立中心者でしたこと、そして近衛文麿氏御自身がクオン・デ候を支援した『如月会』代表松井石根大将(こちら→ 松井石根大将の熱海伊豆山興亜観音)が会頭を務めた『大アジア協会』の評議員でもいらしたので、私にとっては他に比べ非常に思い入れがあるからです。因みに、同じ評議員には第2次内閣の外務大臣だった松岡洋右氏(A級戦犯指定、病死)や、第32代総理大臣で福岡修猷館ご出身の広田弘毅氏(戦後A級戦犯として絞首刑)もいらっしゃいました。
 『仏領インドシナ史』を調べていますと、関係した日本人の方々は殆ど東京裁判の『戦争犯罪人』『A級戦犯』に指定されてます。取敢えず私はこの不思議な現象を、『仏印の3松』,『仏印オールスターズ』に続く『仏領インドシナ=A級戦犯の法則』と勝手に名付けています。。。😅

 この『東京同文書院』とは、
 「開校は明治35年(1902)、1月である。近衛篤麿は明治31年東亜同文書会を組織したが、その会の教育事業として清国に南京同文書院(のちの上海同文書院)を設けると共に、日本にも東京同文書院をつくり、清韓留学生に日本語および普通学を授け、やがて専門学にすすむ準備とすることにした。」 
   (長岡新次郎・川本邦衛編『ヴェトナム亡国史 他』より)

 要するに、今で言うところの外国人留学生用の大学予備校・語学学校に当たるかと思いますが、何処にあったかと言いますと、
 「開校当時には、神田錦町に校舎、また豊多摩郡落合村には寄宿舎があった。のち校舎は目白に移り、やがて目白中学校の付属となり、大正時代に消滅した。」
 この目白中学校をネットで調べますと、「1909年、東京府豊多摩郡落合村(現・新宿区下落合)の近衛公爵家敷地内に、東京同文書院併置の教育機関として誕生」、そして1934年に杉並中学校に改称され、戦後は中央大学と合併、現在の中央大学杉並高等学校に至るようです。

 クオン・デ候と潘佩珠の2人も、自身の自伝の中で『東京同文書院』について詳しく説明しています。 
  「1906年3月中旬、桜の花に霞む横浜に上陸した畿外候(=クオン・デ候のこと)と西湖(Tây Hồ=Phan Chu Trinh(ファン・チュ・チン)のこと)は、(中略)借り受けた『丙午軒(ビンゴ・ヒエン)』に落ち着いた。」   
 「新居に落ち着いた潘は、取敢えず犬養(→ベトナム独立を支援し続けた 第29代総理大臣犬養毅のこと その(1))に一書を送り、畿外候の無事日本到着を報じ、あわせて学生入学のことを依頼した。犬養は直ちに学校関係者の同志東亜同文書院院長細川侯爵、参謀次長兼振武学校校長福島正則陸軍大将および根津一東亜文書院総監事にこれを依頼、その後は犬養の代理柏原文太郎代議士が関係者の間を奔走、斡旋してくれたので、ベトナム人留学生の入学問題はわずか10日余りで無事解決」
           内海三八郎氏『潘佩珠伝』より

 1906年の記念すべきベトナム人留学生の第一期生は、この4人でした。
 振武学校:梁立岩(ルオン・ラップ・ニャム、Lương Lập Nham= Lương Ngọc Quyến)、陳有功(チャン・フゥ・コン、Trần Hữu Công= Nguyễn Thức Canh )、阮典(グエン・ディエン、Nguyễn Diễn)
 東京同文書院:梁毅卿(ルオン・ギ・カイン、Lương Nghị Khanh、梁立岩の弟)

 このすぐ後にクオン・デ候が来日して『振武学校』に私費留学生として入学します。
 すると、翌年の1907年頃からベトナム国内で『出洋救国運動=東遊運動』の波が起こり、続々と日本に渡って来たのです。しかしですね、、実はまだ肝心の受け皿となる入学先に関しては何も決めていなかったのです。。。ベトナム人は、行動力が破壊的に凄い半面、下準備に欠けることが多々あります💦 この辺り、日本人と足して2で割ると丁度いい塩梅になるのになぁ、といつも思うのですが。。。(笑)  
 
 「(潘)もここに至って進退窮まり、はたと行き詰ってしまった。(中略)そこで、彼は厚かましいとは知りながら、彼の日本渡来依頼一方ならぬ世話をかけて来た犬養の門をまず叩いた。彼の苦しい立場を聞いていた犬養木堂は、至極気軽に彼を伴い福島大将邸を訪ねた」                      
 これに対して、福島安正陸軍大将は、
 「今乃公(わし)の思いついた最も安全にして可能性のある方法を申し上げよう。それは他でもないが、貴国の留学生を全部、東亜(東京)同文書院に収容してもらうことである。同文書院はもともと東亜同文会と犬養君と深い関係のある国民党とが協力して建てた学校、(中略)学院さえ承知してくれれば、それで四方八方丸く収まる」      『潘佩珠伝』より

 こうして、親身になって世話し東亜文書会に依頼してくれた2人のお陰で、ベトナム人を同文書院に全員入学させてもらえることに決まりました。
 「東亜同文会の会長は貴族院の有力者、鍋島侯爵、学院長は細川侯爵、幹事は根津一、学院書記恒屋盛福という顔ぶれで、諸侯は私財を投じて5教室を新たに設けてベトナム人留学生を全部収容してくれた」
 「学院主任は、衆議院議員をしていた柏原文太郎、文学主任は東京帝国大学卒業の文学士十時弥、軍事主任は日露戦争の猛者、丹波予備陸軍中佐であった」
    『潘佩珠伝』より

 授業は、「午前と午後の2部に分かち、午前中は日本語のほかに算術、地理、歴史、化学、物理、修身等の一般教養学科を教え、午後はもっぱら軍事教練と野外教練にあて、在校中の学生の風紀取締りは書院の規定に従った」
 と、あります。
 1990年代からベトナムで生活し、心は既に半分ベトナム人となった私は😅、この部分を読むと本当に胸が熱くなり、この恩義というものは感謝してもし切れないと我が事の様に感じます。
 当時の仏印でフランスが敷いた悪政(→ ファン・ボイ・チャウの書籍から知る-他国・他民族に侵略されるとその国・民族はどうなるのか? その(1))に比べたら正に天国と地獄。元々優秀なベトナム人はどんなにどんなに感激したことかと思います。
 よくぞ東亜同文書会を立ち上げ、東京同文書院を開設し、そして着の身着のまま命がけで祖国を出奔して来た2百名近いベトナムの若者を快く受け入れて下さった。「近衛」ーこのお名前は絶対に忘れまい、決して足を向けて眠るまい、、、大袈裟ですけど、以前本を読んでいた時に本当にそんな気持ちになったのを今でも覚えています。

 仏領インドシナが、日本に於いて突如注目を集めることになった出来事「仏印平和進駐」。この当時の内閣が『第2次近衛内閣』で、総理大臣は近衛文麿氏-近衛侯爵のご長男です。仏印進駐の前の支那事変以後から、ずっと日支和平に尽力した、私にとりましては当然非常に親近感があり且つ勝手に特別な恩義を感じている人物です。

 「歴史辞典は彼のことを「軍に協力した」などとのみ書く…いや、いや、
 「大政翼賛会をつくり」
 「ファシズム体制の推進に尽力し」
 などと、戦後の近代史辞典は冷ややかに記すが、「つくり」「尽力」などと言うほどに、彼自身は決して踏み込んだのではない。」

          犬養道子著『ある歴史の娘』より

 こう著書に記したのは、5.15事件で暗殺された犬養毅首相の孫の犬養道子氏です。御父上の犬養健氏も、同じく政治家で近衛文麿氏と同じ学習院卒業。道子氏の成長した頃は日本の激動時代。間近で見て聞いた思い出話を著書に纏め、昭和55年に発刊された本が『ある歴史の娘』です。
 道子氏は、近衛文麿氏との想い出に関する部分にかなりのページを割いています。

 「そのころは父も、学習院同窓の昔からのよしみの近衛さんと、これは主として中国との和平問題をめぐって非常に屡々会っていた。あるいは嫌味になるかも知れないが一筆、必要の事実(もしくは事実を解釈する上の一必要事と思われるもの)を記しておくと、当時の記録史料を「机の上でだけ」いま「しらべる人」たちの中には、たとえば「犬養健は急速に近衛に近づいて行った」などと書く人がいる。木戸(幸一)と近衛の間ですらそんなことを「机の上で」考える人がなきにしもあらず。そういう人たちは(史家の数人を含めて)机の上をはなれた生きた人間関係としての「学校同窓」の背景をとんと無視している」
 そう、ちくりと苦言を呈しています。

 特に近衛文麿氏は、日本軍内部が下剋上となり官民を巻き込んで派閥と利権争いに猛烈な火花を散らす中、大変な国難の時に第1次(1937.6.14~1939.1.5)、第2次(1940.7.22~1941.7.18)、第3次(1941.7.18~1941.10.18)総理大臣として日本の舵取りをしました。そして、戦後GHQによりA級戦犯に指定され、昭和20年(1945)12月16日自宅の寝室で青酸カリ服毒による自決をしました。
 早い段階で亡くなってしまった故死人に口無しとばかりに、昭和55年頃に於いてもまだ当時の『記録史料』や『手記』等の断片を継ぎはぎして、⇧のように「軍に協力した」「ファシズム体制推進に尽力」など、歴史研究者や史家の間でも言われ放題だった様子は、令和の時代に入った今でも殆ど変わっていないな、と残念に思います。。。😥

 前説が長くなりましたが、掲題に入りたいと思います。
 ベトナムの皇子クオン・デ候は、日本に在って世間一般にはずっと日本語が理解できないふりをしていました。(犬養道子氏もご著書の中でそう語っています。)同じ様に第2次近衛内閣の頃の近衛文麿氏も、外務大臣の松岡洋右と2人で対軍部対策としてこんな方針を立てていたそうです。
 「この窮余の一策として松岡は、二重の外交方針を立てた。一つは、軍部との協調で決めた、いわば軍部懐柔のための表面的方針で、もう一つは、その裏にかくされた反侵略的主義的な、軍部には絶対秘密にされた方針である。」     
 「(私は)この二つの外交方針、すなわち軍部との協議を経て国の政策となった公けのものと、隠密のものとのいずれをも知っていた。松岡と近衛が死んだ今となっては、松岡外交の全貌を知る者は、私以外にはないと言ってもよい。せめて一切の事情が、外務省の記録に留められてでもいれば、後の人々がそれをたどることも出来るのだが、それができない。」
 「裏面の事情は、近衛と松岡と私との記憶に残ったに過ぎない。」
       
          斎藤良衛著『欺かれた歴史』より

 第2次近衛内閣の外務顧問だった斎藤良衛博士のご著書『欺かれた歴史』(昭和30年)に書かれた事実は、対軍部懐柔用として表面方針は記録に残ったが、2人の平和外交-例えば日支和平工作などの方針は絶対秘密にして、「そのほとんど全ては、文書形式をとらず、口頭報告を主とし、説明材料としての書類をつけたことさえごくまれ」だったそうです。ですから、上⇧で犬養道子氏も言うように、「当時の記録史料を「机の上でだけ」いま「しらべる人」たち、(中略)「机の上で」考える人がなきにしもあらず」の状態で、それら記録・回顧録・日記等を勝手に切り取り貼り合わせし自論に導くというやり方は、特にこの近衛文麿氏の場合は、非常に危険だと思います。ここでは、『記録文書には残らなかった』近衛文麿氏の素顔と、第2次近衛文麿内閣の陰陽方針を纏めてご紹介して行きたいと思います。

 犬養道子氏の幼心に刻まれたお父上の同窓『近衛さん』との思い出が、『ある歴史の娘』に書かれています。↓
 「このへんの人間模様と感情がつかめていないと、昭和20年頃までの日本の政界上層部に奥深く入り込んでいた公卿家族出身者たち(ほとんどすべては学習院卒業の同窓生である)の、密な相互関係の解釈が、机上政治論のみで冷たく切られてしまうおそれがある。」
 「
(近衛文麿が)総理であるとか公爵だとか五摂家筆頭だとか言うことは、私の頭にこれっぽっちもなく、」
 「何かひとつ、肩のこらない、肩書の仰山さの入りこまない、親しいものが学習院の上から下までを包んでいた。」

 道子氏は、「明治末期から戦争前までの学習院の同窓」「一種格別な、戦後使われ解される同じ文句と離れることほど遠い、言ってみれば「ひとつうちの中」みたいなわけへだてないものだった」と言っています。
 この当時の親しい友人との非常に楽しいお人柄溢れる愉快なエピソードが載っています。

 「そんな間(柄)の近衛さんの荻窪の自宅に出掛ける寸前のある日、父(=犬養健氏)は、おい、ママ、おい道ちゃんちょっと来てくれと呼び立てて、どうだいこれと見せたのが、おもちゃの犬の糞--それは本当に良く出来ていた。呼ばれてやって来た母が、あらいやねぇ、チビ(座敷飼いの犬)だわ、と大声をたてたほどであった。」
 この座った途端に「音」の出るおもちゃを持参し荻外荘(近衛邸)で仕掛けたそうです。
 「この「機械」の上に座ったのは他ならぬ近衛さんで、音と同時に「赤くなって、もじもじして、困った顔」をしていたそうです。。。
 「からくりを間もなく発見した近衛家からは、「家族だけでお食事を差し上げたいと御返礼が来た」そうです。
 「明日がだめなら明後日は?夜がだめなら朝食は?」とねばる近衛家。そしてそのうち、本当の用が出来てあたふたと出掛けて行き、健氏は引っかかってしまったそうです。。
 「おい健、食ってけよと言うし、奥さんも出て来て健さんいいじゃない食べてらっしゃいとすすめるから、うっかりやられた。この大変な時代にヒマのあるやつだなあ。(中略)刺身は一枚一枚絹糸で縫い付ける。吸物椀の中には『自分でさんざ工夫して』蛇のビックリ箱をしこみやがった。おかげで椅子からおっこっちまったよ。夫婦して喜んで手を叩いて、笑いころげて、バカだなあ」

 近衛文麿氏は1891年生まれですので、この頃は45歳位でしょうか。この当時の日本と世界は、欧州でスペイン風邪の大流行(1918-1920)、関東大震災(1923)、世界恐慌発生(1929)、柳条湖事件から満州建国(1932)、国連脱退(1933)、盧溝橋事件から支那事変へ(1937)、、、と、暗ーい、暗一い世の中です。
 日本政治を担う運命を負ったご家名に生まれた故、本当に気心の知れた学友の本当に信頼できる人にしか、本当の素の姿は見せられていなかったのではないかな、と想像します。それと、こんな悪戯で笑い合える様子は、昭和生まれの私に取りまして妙に懐かしいです。私の学生時代頃の日本も、こんな感じの明るい民族性がまだ多く残ってました。仕事も遊びも会社の中も、溌溂として上下もぎすぎす厳しくなかった。何と言いますか、今とは全然違います。
 バブルを境に本当に日本が、日本人の質が変わってしまった。改めて思い返します。
 
 上⇧の学習院とは、勿論今の学習院大学に繋がるのですが、起こりは古く天保13年(1842)です。
 「近衛さんの父君、気鋭進歩派の近衛篤麿をも明治後の院長」であり、「われら世代の近衛(文麿)も木戸(幸一)も、西園寺(公一)も、松平(康晶)等々」も、「宮中グループ」と呼ばれていた、といいます。

 「そのグループは、昭和初期の軍ファシズムが強引に日本を軍国主義と戦争に向かってひきずる上での「大きな障害」とみなした。しかし、結局は軍の力の前に崩れて行った、ひとつの抵抗グループだった」
 「御一新(=幕末・明治維新)のあの頃と同じく、多難の国事を、人事もろともひそやかに、グループの中だけで語り合い、時代を何とか切り抜けようとした。」
 
 。。。雄藩のご家名とか、華族とか、、、『明治維新の御威光』など、昭和に入ってから武力を巻き込んで出世を目論み下剋上を起こした勢力にとっては、憎むべき「既得権益」、目の上のたんこぶ以外の何物でもなかったのでしょうか。。
 
 道子氏は、犬養家出身の健氏は、当時の学習院の宮中グループとは一線を画していたと言います。けれども、「近衛さんといたずらのおもちゃで渡り合う親しさが生んだものは、近衛さんの小さな朝飯会と言う、一種のブレイン・トラストグループへの参加」でした。その縁もあり、後に「第一次(近衛)内閣の通信参与官」に就任したそうです。
 
 その②では、第2次近衛内閣の頃の『外部には一切秘密にされた』、近衛首相と松岡外相の極秘外交方針を知る唯一の証人、第2次近衛内閣外務顧問斎藤良衛博士のご著書から、旧会津潘ご出身の斎藤博士が『真面目で正直な』と何度も強調する近衛文麿氏の政治家としての本当の姿を纏めてみたいと思います。

仏印”平和”進駐の『第2次近衛内閣』総理大臣・近衛文麿のこと その②
 
 

 

 

 
 
 

 

 
 
 

 
 

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