仏領インドシナ、ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その①(再)

 私の『本の登場人物と時代背景に関する補足説明①~⑲』本の登場人物・時代背景に関する補足説明(1)|何祐子|note をお読みくださった方は、もう「ああ、第五師団ね!」と思い出して頂けると嬉しいのですが、もう一度おさらいしますと、第五師団とは、「1873年(明治6年)設置された広島鎮台を母体に1888年(明治22年)に編成された、1940年仏印進攻の主力部隊」でして、「日清戦争から続く中国での戦闘経験と戦歴を持つ(当時の)帝国陸軍の精鋭部隊」。要するに、広島県人部隊ですね。その後仏印から南下してマレー作戦、シンガポール攻略、フィリピン作戦に転戦し、常に戦場で主力を努めたという、当時では(多分)日本人誰もが知る、強い強い部隊だったのかと推察します。😊

 クオン・デ候の自伝『クオン・デ 革命の生涯』(1957)クオン・デ 革命の生涯|何祐子|note  の第17章『ベトナム復国同盟会』で、クオン・デ候は、ベトナム復国同盟会のベトナム建国軍設立と、その総司令官に就任した陳忠立(チャン・チュン・ラップ)のこと、そして彼のルック・ビン戦での殉死まで言及し、「…20年以上の間、軍事を学び、支那で武官職に就くなどした陳忠立は、ベトナム復国同盟会の会員であり、最期は祖国への貢献という自らの本分を全うしました。」と説明しています。

 私は、このベトナム冊子を読み終わってから直ぐに日本語訳を始めまして、そして、翻訳が終わってから解説とあとがきを執筆しました。その間中、ずっとこの記述がやたらと浮き上がって訴えかけて来るような気がしてました。しかし、ただでさえ他に調べなければならないことが山の様にあります、又一度脱線を始めたら、その脱線先の行き止まりまで見届けて、タッチしないと帰って来られない変な癖がある私ですので、脱線せずに本文に書いてある事だけにしよう、、、と、中々重い腰をあげずに、この記述はそのままにしてありました。
 しかし、やはり最終的に「おーい、こいつのことを調べてやれよー!」と、どなたか? の声が、天から、いえ、背後から聞こえるような気がしまして、(ベトナム語だったかもしれません・・・Trời ơi, cố gắng đi cháu, đừng làm biếng! (チョイオーイ、頑張れよ!怠けるな! ←いつも背後から、日越の先人の叱咤激励と共に楽しそうな笑い声が聞こえる、至って普通の主婦です。。😅) 「ドンダン・ランソン攻略」「ベトナム建国軍」と行動を共にした、日本軍側の主力部隊、当時の南支那方面軍(波集団)『第五師団』のことを少し調べて見ました。

 基本前提として、当時東京に本部を置いたクオン・デ殿下のベトナム復国同盟会のことですが、
 『1940年9月に日本軍の協力を得て、同盟会の陳希聖(チャン・ヒ・タイン、Trần Hy Thành)(=陳文安)が、『ベトナム建国軍』を結成し、陳忠立(チャン・チュン・ラップ、Trần Trung Lập)を広州から広西に移動させて『建国軍総司令官』に任命しました。
 と、自伝の中でクオン・デ殿下は説明しています。

 陳希聖(チャン・ヒ・タイン)氏に関しては、
 「同年5月、陳希聖(=陳文安)が天津から東京に私を訪ねて来ました。ベトナム復国同盟会外交部として、これから本格的に仕事を実行するためです。(中略)彼は、小学校から大学まで全く日本人と同じ教育を受け、早稲田大学を卒業した後は支那に行き、漢口、北京で日本語教師をしていました。1938年には、天津市行政府の外交課長職に就いていました。」「1940年8月12日、陳希聖をベトナム復国同盟会の広東代表に任命し、中国南部の日本軍部との直接交渉全権に委任しました。」 

 こう⇧説明していますので、ですから、陳希聖氏は、この時『ベトナム復国同盟会外交部長兼中国南部駐留日本軍部との直接交渉全権兼ベトナム建国軍創設者』という立場になるかと思います。凄い重責ですね・・・。
 なんで、そんな重責に抜擢されたのかな?と不思議に思いましたが、「1938年には、天津市行政府の外交課長職」というところがポイントかなぁと思います。要するにこの頃の天津ですから、もう以前からそこで日本人と一緒に働いていた経験があった(或いは、計画的に準備していた)ことが、その背景だと思います。

 陳忠立(チャン・チュン・ラップ)氏は、1917年ハノイ北部太原(タイ・グエン)監獄を襲撃しますが、失敗します。この時、一緒に襲撃をした、元日本留学生の梁玉眷(ルォン・ゴック・クエン)は殉死しましたが、陳忠立は中国へ逃れました。そのまま中国で国民党軍などに入隊し、戦場で武官として軍事を学び続け、祖国ベトナムの決起の日に備えていたベトナム独立運動家の一人です。
 1937年11月にクオン・デ殿下が新組織(=復国同盟会)の話し合いの為に香港に渡った時も、まず広州にいた陳忠立らへ手紙を送っていますので、ベトナム同盟会設立時の最重要幹部の一人だと言えると思います。

 さて、当時の日本軍による仏印進駐の皮切りとなった有名な『ドンダン・ランソン進攻』で、日本軍とともに鎮南関を越えた数千人規模の『ベトナム建国軍』は、土地に不慣れな日本軍の案内役・先導役を務めました

 戦後遺された数々の回顧録や資料から推測しますと、当時大陸と仏印の駐留軍内部でも、この建国軍のことは、その存在と詳細が全く周知されていなかった様です。けれども、史実を時系列に整理して行きますと、ドンダン・ランソン進攻部隊である南支那方面軍第五師団 中村明人師団長らは、早くから、ベトナム建国軍と共に行動していたことが浮き上がって来ます。

 仏印進駐に至るまでの中村兵団-第五師団と、陳忠立らベトナム人活動家の動きを重ね合わせて見たいと思います。⇩

1939年
 11月24日
 陸軍精鋭部隊で編成された第五師団が、欽州湾上陸後、援蒋ルートの大拠点南寧を陥落

1940年
 3月9日
 中村明人中将 南支方面軍第五師団師団長拝命 ⇒「前任は今井均中将。この頃第五師団の任務は、「欽寧援蔣ルート(欽県、南寧、昆明街道)」の遮断」                 
            
『鎮難関を目ざして』より

 6月29日 中村兵団の先鋒部隊が鎮南関北方を占領
 8月頃   陳中立ら約8名のベトナム人が南寧の第22軍に合流
 9月頃   ベトナム復国同盟会による「ベトナム建国軍」設立、ベトナム建国軍が、フランス軍に所属するべトナム兵に対して日本軍への帰順工作を開始始   
 9月6日  『森本中佐(歩兵第21連隊)鎮南関付近越境事件』が発生)
             
 9月12日頃 中村兵団の長勇参謀長がハノイ・ハイフォンへ先行潜入                 
 9月19日 中村明人師団長 車両部隊と共に南寧から鎮南関へ進発           
 9月22日 松岡-アンリ-協定締結
       平和進駐決定、ランソン攻撃中止 
 9月23日 日本軍の先導役として「ベトナム建国軍」が鎮南関を突破、
       ドンダン占領

 9月25日 ランソン占領  
 9月26日
 中村明人師団長 ランソンで入城式 
       三木部隊長と部隊へ感状を授与
 10月18日 中村中将は、第五師団の師団長職を解かれ、兵団もランソン地区警備を終えてハイフォンより仏印を離れる
   
 陳希聖(チャン・ヒ・タイン)氏は、1940年8月12日に「同盟会広東代表」を拝命し、「(在)中国南部の日本軍部」との直接交渉全権に就任しました。それから、陳忠立らを広西省(南寧)へ移動させて、自分も南寧に入り、日本軍との通訳交渉に入ったのだと思います。
 協議の結果、陳忠立は、日本軍から「広州駐屯地日本軍大尉資格」を授与されると同時に、ベトナム復国同盟会のベトナム建国軍の総司令官に就任します。この時この南寧で、中村師団長らは、80年に亘るフランス恐怖統治の苦しみと、ベトナム人の独立への想いについて当然直接聞いたことと思います、陳希聖氏の完璧な通訳を通してです。
 そして、ベトナム建国軍は、下記の通り、この時日本軍から強力な支援を得ることが出来たのです。

 「仏印国境監視委員の中井増太郎大佐の要請で、この時復国同盟軍顧問となる原進、増井準一は、先に澤山商会(←本社は長崎です。)ハノイ事務所から台湾拓殖の子会社「印度支那商会」に移り、7月に第五師団軍属として南寧に移動、合流してベトナム建国軍幹部を待ち受けた。第22軍参謀の権藤正威中佐にも支援を要請。桜会の和知鷹二(当時、広東駐屯軍付)広東特務機関に支援を依頼。」『安南王国の夢』より

 こうして、事前の帰順工作を経て、鎮南関を突破して来た陳忠立総司令官率いるベトナム建国軍と日本軍の姿を見た当時のベトナムの人々のことを考える度、私はいつも本当に溢れる涙が止まりません。😭😭😭😭😭 どんなに、どんなにこの日が来るのを待っていたことでしょうか。。。

 ドンダン・ランソンを攻略した日本軍とベトナム建国軍は、「9月26日 中村明人師団長 ランソンで入城式」を行いましたが、当然、その場に陳中立らベトナム建国軍もいたのでしょう。

  実は、この戦闘の前、9月22日ギリギリに、「松岡-アンリ-協定」が合意された為、この攻撃に中止命令が出されました。日仏間外交の努力で、平和進駐の協定締結に成功したのですから、わざわざ無駄な戦闘を起こす必要はなかったのです。しかし、中村兵団はドンダン・ランソンへ進攻しました。日仏間で平和協定が締結され、実際には戦闘の必要が無く、大陸からの長征で転戦に次ぐ転戦でボロボロに疲れ果てていたであろうこの広島部隊は、なぜこの時、後々まで不名誉の誹りを浴びる危険性をもあった戦闘を起こし、優秀な部隊員まで失うこと(戦死71名、戦傷229名)になったのでしょうか。
 下記に、中村明人師団長の入場式の訓辞を抜粋します。

 「諸君の今次の戦いにおける功績は、あるいは中央によって認められず、多くの有為な 将兵を失ったが、これら亡き戦友もその功績を褒賞されることなく、新聞にも書かれないで終わるかも知れない。すべては自分の責任である。しかしながら、今次の戦闘は東亜の建設のための貴重な戦いであり、後年必ずや諸君の功績はあらわれ戦歿将士の英霊もまたかく赫赫たる栄誉をもって報いられる時が来るに違いない、それまでどうか辛抱して待っていてもらいたい。」

 ランソン入城式を執り行う中村師団長と部隊のこの姿を見て、陳忠立らベトナム建国軍は、何を想っていたのでしょうか。。。

 結局、この時の第5師団の命令無視は、「軍令違反」とされてしまいます。中村師団長は処分を受けて、10月15日第五師団の師団長職を解かれ帰国、そして、日本で閑職へ廻されました。

 べトナム建国軍へも、同じ様に進攻中止命令が伝えられましたが、陳忠立の率いる軍の一部はドンダン・ランソン進攻後も、退却要請を受け入れず、日本軍が去った後もそのままランソンに居残り、現地の治安の維持・回復に努めました。
 陳忠立(チャン・チュン・ラップ)氏は、この時の戦闘で戦地に赴く前、ハノイで山根道一(元南洋協会理事、元久原工業、印度支那経済研究所所長)へ、クオン・デ殿下を元首とする独立政府の閣僚名簿を渡したそうです。
 結局、日本軍が去った後も単独でドンダン・ランソンに居残っていた陳忠立ら一部の「ベトナム建国軍」は、12月頃に単独でハノイへ進攻しましたが、フランス軍の砲弾を受けて、ルック・ビン戦で殉死してしまったのです。

 仏印ドンダン・ランソン進攻の中村兵団-第五師団のこと その(2)|何祐子|note

 

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