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ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰? 続・続編 ~べト・ミンを追え!😅の巻~

ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?・続編 ~ホーおじさんのコミンテルン人脈を探る!~

 今日はこの⇧シリーズの続・続編。。(お母さん、暇なの~←我が家のJDの声。。。)😅
 一応、ネット情報によるべト・ミン情報はこちら。⇩

 「ベトミン(ベトナム語:Việt Minh / 越盟)、正式名称:ベトナム独立同盟会(ベトナムどくりつどうめいかい 越南獨立同盟會)は、1941年5月19日に正式に結成され、フランスによる植民地支配からの独立を求め第一次インドシナ戦争において戦闘に従事したベトナムの独立運動組織である。ホー・チ・ミンが結成して主席となり、ヴォー・グエン・ザップおよびファム・ヴァン・ドンがともに指導した。
               Wikipediaより

 この説明の通りなら『ベト・ミン』とは、なるほど現在のベトナム社会主義共和国の一党独裁政権ベトナム共産党の前身というか正に土台ですよね。

 しかしです。戦前の日越古書中に出て来る『ベト・ミン情報』を継ぎはぎして行くと、何と言いますか動きも主張もバラバラで多重な人格を持った非常に不思議な団体です。これならもういっそのこと『実は3つ子でした!」と言ってくれた方がすっきりするのですが、そんな説明は聞いたことが無い。(笑)ですので、今日は『初期のベト・ミン(~1956年頃)』を分解・分析して勝手に正体を突き止めて見たいと思います!😅😅😅😊

 既に先の記事日本敗戦-『ベトナム現地に残った日本人残留兵たち』-様々な人間模様②』に書いた様に、1945年の日本敗戦後、ベトナム現地で除隊になった残留日本兵がベト・ミン教官になった『クアン・ガイ陸軍中学』(1946年設立)。ここのベトナム学徒を取敢えず『ベト・ミン長女』と名付けて置きます。(笑)

 次に、『潘佩珠伝』の著者内海三八郎氏の文章から、⇩
 「…日本の敗戦後、ホー・チ・ミン政府は北部、中部、南部と呼び変え、彼等の住んで居た北部山岳地方を越北(ベト・バック)と呼んでいた。従ってベト・バックと言うと、ベトナム人は皆『越盟(べト・ミン)の巣』という感じを受けたものである。」  
 国際派ビジネスマンとして仏領インドシナ出張・駐在期間も長かった内海氏がこう回想するように、当時一般的には『北部山岳地帯=越北=ベト・ミン』と言われていた模様。
  また、先の記事『ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?・続編 ~ホーおじさんのコミンテルン人脈を探る!~」で書いた様に、阮愛国(グエン・アイ・クオック=ホー・チ・ミン??)がモスクワ・コミンテルンの後押しを受け1928年頃からベトナム国内でテロ活動を行い活発に活動してました。具体的に言うと、大岩誠氏著『安南民族運動史』にあった様に、阮愛国とソビエト共産党が共産党員獲得の為に集中的に活動したのが有名なベトナム貧農地帯である北部と中部のゲアン省・ハティン省です。。。
 ですので、『北部山岳ベト・ミン』を『べト・ミン次女』と名付けたいと思います。。。
 
 次に、こちら『ホー・チ・ミン氏とは、結局一体誰?①』でご紹介したベトナム人歴史家陳仲淦(チャン・チョン・キム)氏回想録『一陣の埃風』による1945年5月頃のハノイの様子が、⇩ 
 「ハノイで反日を掲げたべトミンの青年が日本人に捕まったという情報が入り、状況確認の為に私はフエからハノイへ飛んだ。
 …べトミン党はどんな党か、どうして出たのか、どこが源流かなど、殆どの人が能く知らなかった。この時ハノイへ行って詳しく聴き取りしてようやくはっきりその正体が解った。

 この様に、この当時ハノイ近郊で頻繁に出没し始めていた謎の『反日団体ベト・ミン』。これを『ベト・ミン3女』と名付けます。(笑)

 纏めますと、1945年頃に存在した『ベト・ミン』はこのような多重性格の持ち主です。⇩
1,中部クアン・ガイ陸軍中学で日本軍に教育されたベト・ミン
2,モスクワ・コミンテルンの後押しで阮愛国が組織した越北ベト・ミン
3,ハノイ近郊に現れた反日のベト・ミン

 …こ、これはもう、、、一人に指導された一つ主義を持つ一つ団体だというのはとても苦しい。。。もういっそのこと、同じ苗字だが3姉妹全く性格の違う別人だったという説明の方がすっきりします。ですので、
1,クアン・ガイ陸軍中学卒業生を『ベト・ミン長女』
2,モスクワ・コミンテルンの北部山岳地方ゲリラを『ベト・ミン次女』
3,謎のハノイ近郊反日団体を『ベト・ミン3女』

 この様に過程して、それぞれを分解してみたいと思います。
 
 まず、クアン・ガイ陸軍中学のベト・ミン長女ですが、これは解り易い。中部クアン・ガイは、元々フランス軍の営舎が集中し訓練兵学校(=ベトナム傭兵学校)も多かった関係上、1945年以降にそれら建物や訓練生たちをそのまま『クアン・ガイ陸軍中学』と看板を変え、残留日本兵が教育したという経緯だと思います。

 そして北部山岳地方のベト・ミン次女です。そもそも、19歳でベトナムを離れ、以後アメリカ、主にフランス、モスクワで暮らし西洋食文化にどっぷり浸かったインテリの阮愛国(グエン・アイ・コック)が、いきなり山岳地方の貧農山岳地帯に数か月も滞在できたとする言説自体が非常にアヤシイ。
 密林地帯には『瘴癘(しょうれい)』という病気があります。青年期にフランスパンとチーズで生活した人間が、何年間も密林に潜んで健康的に暮らせる訳が無い。さて、そうなるとこの『北部山岳地方のベト・ミンの本体』って一体?という問題ですが、多分これです、⇩

 「壬寅(1902)年。安世(イエン・テ)省の蕃昌(フォン・スゥン)屯へ、11月私自ら屯を訪れることにした。(中略)
 以前にゲ・ティン省から北圻を訪ねてホア・タム将軍と面会した者は多かったが、屯内部を見た者はまだ誰も居なかった。この時、私は屯内の各部署を見学し、上遊(=ベトナム北部山林地帯)地方各県へ対するホア・タム将軍の威令を知った。それはまるで、我国亡き後の厳粛な独立小王国の様だった。」
      
         ファン・ボイ・チャウ『自判』より

 ベトナム史では有名な抗仏戦争の英雄ホアン・ホア・タム(=デ・タム)将軍。北圻勤王党の提督(=地方軍司令官)だったデ・タム将軍は、1891年頃の義党潰滅後に配下を引き連れて北部山岳地帯に入りました。
 それ以後は、ゲリラ戦法を使って常にフランス軍を蹴散らし、フランスが建設していた越桂鉄道の諒山(ラン・ソン)-北江(バック・ザン)間線路を度々爆破し、欧米世界では『安世(イエン・テ)の虎』と呼ばれて恐れられました。その結果、フランスはホア・タム将軍に上遊の1県(安世県)と4総(=村)を譲る条約を交わして8年毎に更新していました。
 1909-10年頃にフランスが条約を破棄してデ・タム将軍に宣戦布告。戦闘は2年間も続き、最期は華僑友人の裏切り、通牒でフランス軍の急襲に遭って将軍は殺されました。この『カリスマ将軍』を失ったことで、北部山岳地帯一帯に築かれていた『デ・タム王国』とも云うべき強固な反仏組織は一旦は散り散りバラバラになったでしょう。とは言っても、その後もフランスがデ・タム軍名簿を元に残党狩りをしたとか、執拗に山狩りをしたとかの記録はありません。だから、私の結論!⇩
 1928年頃からベトナム北部入りしたソビエト・コミンテルンは、先ずデ・タム軍の生き残りを糾合して資金を与え、昔の通り北部山岳地帯に強固な屯を建設させて『抗仏軍=デ・タム王国』を再築させた!! ←これが『ベト・ミン次女』の正体だと思います。。。😅

 さて、では謎の反日『ベト・ミン3女』の正体です。
 これは単純に考えて、あの時代にあの場所で『反日』を標榜する団体。その背後を考えれば、『西欧列強』以外に居ませんネ。だって日本と戦争中だし。😅😅
 要するに、その頃ハノイ近郊に出没した反日団体の資金の出所は西欧列強、要するにアメリカ・イギリス・フランスなどに巣くう金融資本と軍産複合体がその正体でしょう。

 それでは、この『ベト・ミン3姉妹』は、1945年日本敗戦以後お互い手を取り合い仲良くなって、ホーおじさんの下で一つ主義一つ目的に統一されたのでしょうか?
 。。。そんな訳ないですよね。。。

 チャン・チョン・キム氏自伝に、「1946年頃、べト・ミンとフランスの交戦で厖大な歴史資料と共に自宅が焼失」とあり、
 呉廷琰(ゴ・ディン・ジェム)氏の御兄弟「実兄の呉廷魁(ゴ・ディン・コイ)と呉廷勲(ゴ・ディン・ファン)は、1945年秋頃フエで越盟(ベトミン)軍により惨殺」され、
 ファン・ボイ・チャウ『自判』の出版社挨拶文(1956年)にも、「1946年頃、私達が提供した原稿を元に、苦労して『自判』初版を印刷し、製本まで終えた。そして、さあこれから民間へ流通するぞ、という段階で、検閲を称した越盟(ベト・ミン)に全部を押収された上、更に手元にあった原稿と資料まで全て廃棄させられた」と書いて有ります。

 1945年の敗戦で、ベトナムに日本軍が居なくなってからあっちこっちで暴れ回って同国人殺しとか焚書に血眼になっていたこのベト・ミンは『3女』に決まってます。
 では1945年以後、『親日・長女』や『ソビエト・次女』のべト・ミンはどうしたの、どこで何してたの、何処へ行ったの。。。?

 この⇧詳細は判りませんケド、、、
 取敢えず、1945年8月にホーおじさんが読み上げた『再・独立宣言』は、創造主を称え平等の権利を謳い上げ、『アメリカ独立宣言』を引用して『フランス人権宣言』を讃えてます。要旨は人権・権利。そして、『日本ファシストとの戦い』に『民族平等の権利に基づく君主制との100年の戦い』。。。極めつけは、「私たちは、私たち民族は、フランスの手からではなく日本の手からベトナム国を取り戻したのです!」
 と、びっくり文句も飛び出してました。。。😅😅

 信じたくないですけど、この時『再・独立』を宣言したホーおじさんは紛れもない『反日』だ。。と判明したところで、では、この宣言の起草者である『反日3女のパトロン』の正体を考えれば、やっぱり西欧植民地主義しかいないです。
 それでですね、結局その後1975年まで、何故か3女がパトロンから資金を貰いながら、パトロンが送り込んで来るアメリカ軍と延々と長々と交戦し続けたというベトナム戦争の結果、アメリカ経済はガタガタになり、ベトナム・シンドロームと呼ばれた帰還兵の深刻な戦争後遺症がアメリカの社会問題になりました。アメリカの斜陽の始まり。←これに、ベト・ミン3女は多大な貢献をしたとさ。。。
 そういうことになりますよね???😅😅😅😅😅
 

 

 

 

 
 



 

 


 
 

 

 
 

 
 





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