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グエン朝第8代皇帝・ハムギ帝と画家藤田嗣治(ふじた つぐはる)

 戦後の日本では全然忘れ去られてますけど、、、
 ベトナムは、1945年までは帝政国家です。。。😅😅😅

 先日、bossacubana|noteさんのグエン朝第8代咸宜(ハム・ギ)帝流刑後のアルジェリア滞在期に関する記事を大変興味深く拝読しました。⇩
 帝国の隔離者(1)|bossacubana (note.com)

 ハム・ギ帝は、1885年に抗仏蜂起に起ち、1888年に捕えられた後に北アフリカのフランス領アルジェリアに流刑となって以後、二度と祖国の地を踏む事が無くそのまま現地でお亡くなりになった悲劇の皇帝。。。と云われています。

 えー、実は私、グエン朝歴代皇帝の内で抗仏蜂起に敗れて遠地へ流刑になった皇帝のことがずっと気になってました。毎度お馴染みグエン朝の皇帝系図→(阮(グエン)朝の皇帝系図)を再度見てみますと、お二人いらっしゃるのが判ると思います。

 第8代 ハム・ギ帝
 第11代 維新(ズイ・タン)帝

 気になっていた理由は、”なんで流刑地で長生きしたのかな?”です。😅
 
 クオン・デ候潘佩珠(ファン・ボイ・チャウ)の自伝を読むと判るのですが、当時は抗仏蜂起の大義名分になり得る”玉”、即ち皇統の人間を探すことは大変難しかったのです。病弱でなく、誘惑に強く、男気があり、聡明で徳がある、不自由のない皇居生活を棄て失敗すれば極刑になる覚悟を持つ人物。そんなにごろごろしてる訳が無い。(笑)フランスにとっては、一度蜂起の統領に起った人物なんて危なすぎますよね、普通。
 捕獲、はい即死刑!では、ベトナム国内世論が黙っちゃいない。だから取敢えず北アフリカかインド洋孤島などのフランス領地へ送り込み、そこで3S(Sports、Sex、Scandal)作戦だ~!と、それでも堕落しないようなら毒殺、密殺してしまえばよかったに。何故かフランスはしませんでした。。。

 因に、この記事→ベトナム抗仏志士リーダー達のその後)に書きました、カオ・ダイ教の教主范工則(ファム・コン・タック)氏も、⇩
 「1926年仲間と共にカオダイ教を設立。1928年日本の大本教がカオ・ダイに占卦を伝授する。宗教弾圧を受けて逮捕され、1941年から1946年までアフリカのマダガスカル島へ流罪。1946年サイゴンに戻り、仏英軍と胡志明(ホー・チ・ミン)率いる越盟(ベト・ミン)軍に抗するため、カオダイ教信徒のカオダイ教軍組織強化を指導する。」

 こんな経歴の持ち主です。何となく、最も危険な時期に最も危険な場所を避け、まるで、”いざ鎌倉!”まで体力を温存していたような結果。いやー、果たしてこれは本当にただの”運が良かったネ”なのか。。。🤔🤔 
 これをずっと疑問に思っていましたが、こちらの記事→(帝国の隔離者(3))を拝読して、またまた僅かながら糸口が見えたような気がしました。
 それが、この写真です。⇩

ハム・ギ帝と藤田嗣治(アルジェリアにて)

 藤田 嗣治(ふじた つぐはる)氏のネット情報は、「日本生まれのフランスの画家、彫刻家。エコール・ド・パリの代表的画家。」と出て来ますけど、落合莞爾(おちあい かんじ)先生の歴史書ファンなら言わずと知れたこの方は唯の画家ではありません。『國體特務衆』のお一人です。。
 実は😅😅、この辺りの歴史は私もまだよく理解出来てませんが…、ご興味のある方は是非落合先生のご著書をお読みになって見て下さい。
 
 以前にも書きましたが、戦後日本では完全に無視されるベトナムの≪仏領インドシナ時代史≫には、断片的に非常に不思議な史実があります。時の為政者が消そうとして消し切れないのか。それとも”誰か、気付くかな~?”と様子見でチラ出しされているのか判りませんが、何れにせよ、うっかりすると見落としてしまいそうな≪仏領インドシナ史≫の断片に、日本にとっても重大な秘密が隠されている!と私は一人で思い続けてます。全然同性同年代の友達が居ない、と我が娘が心配する理由でもありますが。(笑)

 不思議な断片の一つは、このベトナム史です。⇩

 「天津条約締結の年、第8代咸宜(ハム・ギ)帝へ謁見の為、フランスからド・クルシィ(De Courcy)将軍と仏兵5百人が中部フエを訪れた。ド・クルシイ将軍は現地のフランス人を招いて宴会を催したが、その宴会が終了した直後、まだ14歳だった幼帝を戴いた抗仏義軍の狼煙が突如として上がった。フエ城内に発砲音が鳴り響き、フランス理事官邸周辺の建物へ火が放たれた。翌朝フランス軍が反撃を開始した為、ベトナム軍は敗走。帝は広平(クアンビン)省へ落ち、ここから勤王の檄を各地へ発布した。これに呼応して、ビントゥァン省以北殆ど全ての各省で続々と士民が抗仏蜂起を起こしたのである。皇帝不在になった宮廷では、同慶(ドン・カィン) 帝を第9代皇帝として即位させたが、各地の勤王決起は収まるどころか更に盛り上がって行く。フランス軍は、広平省とダナンへ兵を増強したが、それでも勤王党の反撃は衰えを見せなかった。しかし、最期は結局仲間の裏切りによって遂に咸宜帝 は捕らえられ、仏領植民地北アフリカのアルジェリアへ流刑にされてしまった (1888)。この時、帝は18歳になったばかりであった。」
       チャン・チョン・キム篇『越南史略』より

 「統治権がフランスの手に落ちても、国内の抗仏分子らは容易に降伏せず、反って勤皇志士たちの士気は燃え盛かりました。最も激しく抵抗したのが殿前上将軍・尊室説 (トン・タット・テュェット、別名:阮福説 )です。乙酉5月22日 (1885年7月4日)、フエ京城内のフランス理事官邸とフランス兵舎を襲撃したのち、咸宜(ハムギ)帝を侍衛してフエを出奔します。広平(クアンビン)まで逃れ、勅を奉じて祖国恢復の為抗仏戦に起ち上がれと国民へ檄を飛ばしたのです。これに忠君愛国志士らが呼応し、各地で勤王軍が続々と起ち上がりました。この抵抗運動は、1888年に咸宜帝が逮捕流刑となった後も続きましたが、その中でも徹底抗戦を構えたのが潘廷逢(ファン・ディン・フン)氏です。(中略) 当時(=1895年頃)、潘廷逢氏から私の父咸化郷(ハム・ホア・フゥン)公へ連絡が来ました。勤王党が決起した当初、咸宜帝の詔勅が大義名分でした。ですが、既に咸宜帝はアフリカへ流罪にされたので、もう咸宜帝の詔勅は使えません。王族で別の人間を統領に推挙せねば、国民に対する旗印が存在しない。私の父は嘉隆(ザー・ロン)帝の5代目嫡男だから、これ以上無い程の相応しい名分です。故に、潘廷逢氏はフエへ人を派遣し、父を統領に迎えたい旨伝えて来たので、父も勿論これを了承するつもりでした。しかしながら父は、高齢でもあり弱々しい身体でこの艱難重大な責務を全うするのは難しいだろうと深慮して、私を代わりに立てることにしたのです。私は、この時13歳になったばかりでした。」
        『クオン・デ 革命の生涯』より

 ベトナムの大ベストセラー歴史書『越南史略』でも、14歳で抗仏統領として起ちアフリカに流刑になったハム・ギ帝は祖国の大英雄の一人です。クオン・デ候も自伝『クオン・デ 革命の生涯』の中で特にハム・ギ帝の抗仏蜂起に触れ、折しもハム・ギ帝とほぼ同年齢の時に、己の身に立った抗仏統領の白羽の矢を即座に了承し出立の準備をしました。これは当然極刑に遭う覚悟だったでしょう。
 『越南史略』は、国内初の国語(アルファベット化文字)文による1921年からの大ベストセラー
 『クオン・デ 革命の生涯』の原本は、1943年12月に日本の東京大森のクオン・デ候自宅で行われた日本人記者によるインタビューです。

 要するに、この時期、この段階で、ベトナム人達は皆知って居た訳です。ハム・ギ帝が反骨精神を失って居ない事。楽園の3S作戦なんかで堕落してなかった事。祖国を忘れて居なかった事、などなど。

 そう考えて、当時の日本陸軍松井石根大将たちや玄洋社黒龍会等が画策したと思われるクオン・デ候の自伝インタビューを見ると、やはりこの一番最後の文章が重みを帯びて来ます。⇩

 「40年に及ぶ活動期間で、現在初めて国際情勢やアジアの時局が、私の復国闘争に有利な方向へ向いて来たように見えます。言わずとも誰もが、いま私の内は獅子奮迅、進取果敢、明日の時局へ対峙するに準備万全だと想像出来る筈です。 日本は、西洋の桎梏の鎖からインドシナ各民族を解放するという理念を必ず奥底に秘めていると私は信じます。もしこれと反するなら、それはまた違った問題です。
 数十年間に亘る闘争の中で味わったあらゆる苦難も、大小数え切れない程の失敗も、私は弱気になったことはなく、反って今は断固として目標に起ち向かっていくつもりです。最期の息が絶える、その時まで。」
     
 『クオン・デ 革命の生涯』より

 この約1年と3カ月後の1945年3月9日に、仏印で日本軍による『仏印武力処理』通称『マ(明)号作戦』が決行された訳ですが、このインタビュー時(1943年12月)に、大東亜戦争の局地戦を闘うベトナムの頭領クオン・デ候が、ここまで自身満々でやる気に漲っている背景は日本軍のほんの一部とベトナム国内外に呼応する同志や宗教団体や政治派閥の存在だけでは無い筈だ、、、←私がずっと抱いていたこの疑問が、上⇧の藤田嗣治氏との写真で解けました。それは、
 「やっぱり、ヨーロッパ(フランス)側の或る派からの内応もちゃんとあったんだ。。」という確信。。。😅

 そう考えて見て見れば、上の2人の皇帝が流刑地で長生きした理由も、カオ・ダイ教教主が流刑地から元気に戻って来た理由も少し説明が付きます。それと、1940年仏印進駐からの『日仏印共同防衛協定』の史実も。

 そして、更に能く見てみると、ハム・ギ帝が1904年に結婚したという「アルジェリアでの上級裁判所長、つまり植民地アルジェリアのフランス人支配層の最上流家庭の娘であり、当然のことながらフランス貴族の出である、当時19才のマルセル・ラローエの背景も非常に気になるところ。。。

 「敬虔なカトリックのフランス貴族ラローエ家」、、、調べると案の定な血縁関係が見つかる様な予感がします。😊😊😊

 

 





 
 

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