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『安南民族運動史』(9)~仏印進駐の頃のベトナム~

 南アジアの民族の運命は、今や一日も看過すべからざるものとなった。西洋の圧抑に喘ぎつつも、自らの運命を自らの手によって拓いて行こうとする彼等が不屈の死闘は、われらに対して厳粛な省察と断固たる決意とその実践を要請する。

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 昭和16年(1941)発刊の『安南民族運動史概説』は、序文冒頭を大岩誠先生のこの文章で始まります。
 フランス領植民地の仏領インドシナと呼ばれていたベトナムは、当時の日本にどのように認識されていたのでしょうか。
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 かかる(ベトナム国民党等と共産党の)共同戦線はベトナムでは既に早く結成されていたのであるから、強ち(フランス)人民戦線(政府)政策の力を借りずとも目的は達成されていた。此のコミンテルンは新しいが併し今日では其の無力を完全に実証された戦術によって、ベトナムにおける赤化工作は多少の進展を見たとしても、その実力においてフランス当局(=ビシー政権)の宣伝するほどのものではないと見て誤はないであろう。ただ此の動員力の源泉が前に詳述した社会問題に存することは決して見逃してはならないことである。

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 先の記事-その(8)に書きましたが、日本軍の仏印進駐の少し前に、フランス本国では社会党・共産党の連立政権と言える『フランス人民戦線内閣』が政権を握った時期(1936年6月~)がありましたので、それを踏まえて上⇧の文章を読み取って見ます。
 要するに、1936年6月からフランス本国のサポートを得たベトナム共産党の国内活動が盛んになった。だが、その頻発していたゲリラ暴動も、今日の(1941年頃)日本軍の仏印進駐以後は、仏印現地政府と共同でこれの封じ込みに成功し、現在はフランス本国ビシー政府(←ドイツに降伏)の宣伝する程の脅威ではなくなった、という状況だったのだと思います。

 「此の動員力の源泉」となる社会問題とは先の記事に書きました「昔から続く東北山間部の農業問題、人口問題、食料問題。加えて長引く戦争が引き起こした労働問題に格差問題、貧困問題。挙句にその上、フランス植民地政府が課した税金の税率が上がり続ける社会」問題のことで、これ等の問題が解決しない限り、仏印社会の不安定は燻り続け、いつどんなきっかけで騒動が勃発するか解らない、という意味だと思います。
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 叙上の運動のほかに近年注目を惹くものとして 保大(バオ・ダイ)帝の改新政策、フランス印度支那連邦自治案、高台(カオ・ダイ)教の活動などである。
 保大帝の改新は昭和8年に帰国してのち執った新政策で、憲法その他諸法の全面的な改革を行ったものであるが、保大帝自身が国民の信望を失っている実情を反映し、ベトナム人の知識層は強い反対の意向を示し、保大帝が外夷の傀儡にすぎないことを示威している。
 次に所謂仏印の自治についての動きであるが、これは既に早くからフランスの急進論者が提唱したことがある。此度の提唱は(中略)懐柔策で、保大帝を表面の立役者としているのを見ても、全く実践の意志のない身振りにすぎないことが直ちに看破せられ、却って逆にフランスの制圧力が急速に喪失しつつある証拠とすら見られている。

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 昭和8年(1933)の「保大帝の改新政策」は⇩、

  「パスキエ(当時の仏印理事長官)が土着民に対して、従来より一歩進んで自由な態度に出ようと決心したのは、彼が支持した安南王廷における『革命』がその何よりも明らかな証拠になっている。」
 この『革命』とは、
 「1933年5月、若い皇帝保大(バオ・ダイ)はフランスから帰って来たが、彼は西洋流の教育課程を終えて来たのだった。(中略)保大帝はパリに5か年を過ごして、完全に『現代的な』訓練を受けた。1932年9月、帝は一連の改革方針を宣布したが、(中略)これによると土着民の行政官制について、官吏の選任、法令の編纂、西洋式の手続きによる王廷の創設、科学問題に関連する教育の新体制などが含まれている。」
          T.E エンニス『印度支那』より

 この改革に対して無関心の態度を見せた宮廷人らに対する見せしめでしょうか、保大帝は6名の大臣を解任してしまった為、ベトナム国内世論からは、
 「フランス的安南人(=開明派?)や人民の間の反動分子は皇帝を批判して、フランス人に『売り渡し』た」と揶揄されたそうです。

 「フランス印度支那連邦自治案」とは、先の1920年頃に開設されたベトナム人による『地方自治行政会議』1925年11月、時の仏印総督ヴァランヌによる総督府会議演説での「将来のインドシナの独立容認」発言等々、フランスのインドシナ統治の行き詰まり修正する『協同政策』の延長上です。
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 これに反して高台(カオ・ダイ)教の活動は幾多の示唆に富む問題を含んでいる。大正15年に黎文忠(レ・バン・チュン)が創設したこの新しい宗教は、ベトナム人の民間振興に立ち、巧みにローマンカトリック教会の鋭鋒を避けながら、儒・仏・道・基の四大宗教の綜合宗教として教勢を張り、今や信者は4百万に達している。昭和5年の騒乱時代には高台教も民族運動の
一翼で共産党の外郭団体と見られて弾圧を受け、黎文忠は信仰の自由を楯に抗議し、授けられていたレジオン・ド・ノール勲章を叩き返した事件もある。

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 ベトナムで暮らしたり、或いはビジネスで関係がある日本人の方々は、このベトナム独特の新興宗教と云われる『カオ・ダイ教』の名前を一度は聞いたことがあると思います。どうもこの『新興宗教』という日本語の持つニュアンスが軽い印象を与える為でしょうか、日本語でネット検索しますと、
 「1926年に南部で起こったベトナムの宗教。本拠地はタイニン省。複数の宗教を合わせた複合宗教。シンボルは『天眼』と言われる大きな左目。フランス領インドシナ時代には独自に私兵団を持ち反フランス運動を展開した。」
 簡単にはこの様な⇧説明になってます。今では、白装束の信者とド派手な寺院が目を引く、南西部地方タイ・ニン省の観光名物になっていたりします。
 戦後日本で言及する人は殆どないですので、現代の我々日本人が、戦前日本の大東亜戦争とカオダイ教の深い繋がりを知る機会は殆ど無いですが、これは長くなるので別途記事にしたいと思います。😅😅😅

 「昭和5年の騒乱時代の弾圧」とは安沛(イエン・バイ)事件の後に頻発した暴動を制圧するため仏印政府がとった強硬手段で、
 「この集団の多くは丸腰であったにも拘わらずフランス当局は機銃の掃射を以て答え、彼等群衆の憤激を挑発し、民衆が武装して防衛するのを待って軍隊を出動せしめて村落を包囲し、航空隊に爆撃を敢行させ、村落を灰塵に帰せしめる強硬手段を講じた。」
 その後のインドシナ(ベトナム)戦争も同じ。。
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 昭和15年11月、所謂『高台教』暴動なるものが勃発して流血の惨事が演じられ、西貢(サイゴン)を中心に約一カ月の間軍隊が出動して鎮圧に努めた。そのときの犠牲者は昭和5年当時に比肩すると言われているから再び獰猛な殺戮が行われたものと考えられる。
 要するに、ベトナムの独立運動は、フランス領有以後、殊に惨憺たる非史の連続であるが、しかも、その焼土にも今もなお撓まぬ生の芽生が続々と『太陽』を求めて台頭している。

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 「昭和15年11月、所謂『高台教』暴動」とは、1940年の日本軍仏印進駐の年にあった事件です。私が翻訳したクオン・デ候の自伝本の中でも言及しましたが、この⇩南部カオダイ教への大弾圧事件のことです。

 「しかしやがて南部でカオダイ教事件が起こって仏印政府の土台をゆすぶった。(中略)11月22日夜から翌朝にかけて、武装蜂起した暴徒はサイゴン市の附近に迫り、仏印軍の屯所を襲った。政府はこれを「極左分子の煽動による突発事件なり」と称して、小事件として扱う態度であった。しかし騒乱は次第にひろまり、25日にはチョロン市外のフランス人農園を襲い、その他にも頻々と事件が起こった。
 12月10日(仏印)政府は軍隊を動かしてタイニンの本山を攻め、空軍を出して土着民を爆撃し、死者数千といい、暴徒とその一味と称する者4千名を逮捕し、首謀者と思われる者は南方のプロ・コンドル島に島流しにした。」
    石川達三氏著『包囲された日本』より

 高台(カオ・ダイ)教設立者の一人で教主の范工則(ファム・コン・タック)は、元々『東遊(ドン・ズー)運動』の頃に日本留学生に志願しました。しかし、フランスの厳しい摘発に遭い日本渡航を断念した経緯があります。
 1926年設立後から1930年(昭和5年)、1940年(昭和15年)と大弾圧に遭いながらも、1940年の日本軍仏印進駐以後は、昼にサイゴンの日南商船株式会社造船所で働き、夜は『カオダイ教義勇軍』として日本軍の指導を受けて軍事教練に励みました。そのため、日本敗戦後も、戻って来たド・ゴールのフランスと共産勢力を相手に、インドシナ(ベトナム)戦争を戦い抜いた「戦う宗教」「強いカオ・ダイ教軍」の名は関連書籍の中に屡々発見できます。 

 著者の大岩誠先生は、「ベトナムの独立運動は、フランス領有以後、殊に惨憺たる非史の連続」だと言い、「しかし、その焼土にも今もなお撓まぬ生の芽生が続々と『太陽』を求めて台頭している」と結んでいます。

 ここでの『太陽』の意味は、抑圧された人間の『独立』、『解放』の意味か、或いは本当の『太陽』-『天眼』を拝む古代太陽信仰という意味かも知れないな、と考えたりしています。
 そう私が思うのは、実は大岩誠先生は、ベトナムに於ける高台(カオ・ダイ)教の問題を、「民族独立運動と様々な関連を持つ興味のある問題であって、是非とも詳しく考察しなければならない」と述べ、「筆者は、既に高台教に関して他の出版物において、その成立過程、理論、組織、宗律を相当詳かに論述」したという、戦前のカオ・ダイ教研究の第一人者だったからです。
 
 その論述に基づいて、また今度カオ・ダイ教について詳しく書こうと思いますので、どうぞお楽しみに。😊😊😊(そんな変な事に興味あるのはお母さんだけー(笑)。←我が家のJKの声。。。😅😅😅)


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