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帝国の隔離者(1)

フランスに反逆した少年皇帝

(フランス国籍を持つ二人のベトナム人音楽家、Huong ThanhとNguyen Leによるベトナムのトラッドの現代化。恐らくこうした音楽がこれから物語る一人のベトナム人の生涯を飾るのに相応しいと思われる)

W.アトキンスの”帝国の追放者たち”(原題:Exiles; Three Island Journeys 追放、三つの島への旅)には19世紀の後半、それぞれの帝国によって”ホームランド”(故郷と訳すべきだろうか?)より遥かに離れた辺境に追放された3人の帝国にとっての”厄介者たち”、フランスのパリコミューンの闘士でありアナキスト、ルイーズ・ミシェル、ロシア帝国のユダヤ人革命家、レフ・シュテルンベルク、そして南アフリカ、ズールーランドの王、ディヌズールー・カ・チェツワヨの足跡を辿り、その追放を追体験しようという旅行記である。アトキンスの当初の問題意識は、人にとり原初的であり、最も心安らげる場所=ホームを心ならずも失った”追放”の状態は、人間にとってのどのようなもので、それは彼らにどう影響したか?の探究だったと思われるが、彼ら、三人の19世紀後半の追放者たちの足跡をたどるうちに、追放を生み出した帝国の傷跡は今でも生々しく残り、特に追放地とされた”辺境”では、そこが”ホーム”であるはずの土地の住民もまた”追放者”となってしまっていて、その回復もなされていないことを発見する。それは、現存する”帝国”により世界のあらゆる場所で新たな追放者が次々の生み出されている現状、今のガザやウクライナは言うまでもない-を私たちに否応なくつけつけてくるが、アトキンスの本では、そのあたりの突っ込みが今ひとつ弱いのが弱点となっているが残念だ。

追放以前の若きディノズールー・カ・チェツワヨ (1863-1913) 

この本で取り上げられた”帝国の厄介者たち”のひとりがセントヘレナ島に流刑にされたズールー王、ディヌズールー。1868年生まれで、1884年に非常に若くして父王の後を継いだものの、ズールーランドの植民地化を進めるイギリスと対立を深め、結局は1890年にイギリスに捕らえられ、セントヘレナ島に追放されたというこの南アフリカの王を知った時、即座に同時期に生まれ、やはり同時期にベトナムを追放された、グエン王朝の第八代皇帝、ハムギのことを連想した。

ベトナムのホーチミン市を訪ねたことのある人なら、ハムギの名前に聞き覚えがある人も多いだろう。ホーチミン市の市庁舎の前からサイゴン川までのメインストリートがグエン・フエ通りで、それを3角形の辺の一つとして、ホーチミン市のマーケットを取り囲む、他の2辺を作るメインストリートが、ハムギ通りとレロイ通りだ。この通りの名前となったグエン・フエ、ハムギ、レロイとはそれぞれ、時代はかなり違うもののいずれもベトナムの歴史上の皇帝で、愛国者としてベトナムナショナリズムを鼓舞する存在として、ホーチミン市に限らず、他のベトナムの都市にも主要道路に彼らの名前がついている。

もっとも英雄として様々な物語が語られる二人の他の皇帝に比べ、ハムギのことはベトナム人にもその生涯や人となりが語られることはあまりなかった。知られていることは1872年の生まれで、ディヌズールーと同じように非常に若く1884年に即位(つまりディヌズールーの即位と同じ年 )、当時、わずか13才だった。そしてハムギを皇帝に立てた宮廷内の重臣たちに担がれてベトナムの植民地化を急速に進めてきたフランスに抵抗、間もなくディノズールーがイギリスに行ったと同様な武装反乱をフランスに対し起こした。もちろん、皇帝が反仏運動に身を投じたことを知ったフランスと王宮の親仏派は新皇帝を即時に擁立、そのため即位期間はわずか一年、しかし、王都のフエを脱出し、現在のラオス国境付近のジャングルから、以後3年にわたり反乱を”指揮”、継続することとなる。新皇帝はハムギに帰順を呼びかけるが、彼はこれを敢然と拒否、逆にフランスへの徹底抗戦の檄を全国に出して抵抗を続けた。だが、ハムギを支えた反仏派の重臣も、次々に捕らえられ、あるいは逃亡、次第に追い詰められてゆき、遂に1988年にフランス軍に捕らえられた。そして即座に、当時、フランスの植民地だったアルジェリアの首都アルジェに流刑となった。それでも、この実際に帝位にあったものの呼びかけの影響は大きく、彼の追放以降も10年に渡りベトナム各地でこの呼びかけに応じた”勤王抗仏”とベトナム史で呼ばれる反仏武装運動が続くこととなる。そして、この時の反乱の指導者たちはベトナムの歴史上の英雄として、ハムギと同様、ベトナムの各都市の通りの名となって語り継がれている。現在に至るまで、ベトナムの人々にハムギの名が残り続けるのは、こうした非常に若くしてのフランスへの武装反乱と、その後に続く長期にわたる流刑という悲劇の”愛国”少年王としての記憶ゆえである。

ハムギ帝= 咸宜帝、Nguyễn Phúc Ưng Lịch=阮福膺𧰡が本名。ベトナムでは通常、Vua Hàm Nghiと呼ばれる。

ディノズールーのセントヘレナへの流刑は7年ほどで終わった。もちろん”ホーム”に帰還できても、そこでの彼の地位は以前のものとは全く違ってしまい、彼には失意の生涯しか待っていなかったのだが。そして、”ホーム”回復の希望は彼の子孫たちに引き継がれることになる。他のふたり、ルイーズ・ミシェルもレフ・シュテルンベルグの追放も、同じように7‐8年ほどで解除された。この二人も追放前と追放後では、人生が大きく変わったが、それは追放と帰還の経験を通して、彼らにとっての”ホーム”を根本的に見直す機会を得たことが大きく影響している。だが、ハムギの帰還は遂にかなわず、その後の生涯を1944年に世を去るまでアルジェで過ごすこととなる。追放の経験がいかに困難な辛いものであったとしても、他の三人は少なくとも帰還を果たし、喪失と引き換えで別な何かを回復することができた。だが、ハムギはどうだったろうか?この永遠の”追放と王国”(ハムギがアルジェリアに生きた時代にそのアルジェリアに生を受け、育ったフランス人作家、A.カミュの晩年の作品集)の真の主人公は?

7年の追放から帰還後のティノズールー

ハムギは皇族の中では皇位継承順位が筆頭者の位置にいたわけではない。事実上の先帝に子供がなく、しかも宮廷内では皇帝の地位を巡り、重臣や皇后、側室らの勢力争いが絶えず、そこに急速にベトナムへの進出と干渉を進めてきたフランスに対する姿勢の違いが、その混乱に更なる輪をかた。1年にも満たない間に皇帝が3人も入れ替わるという異常事態がおき、その3人目が養子として事実上の先帝の後継ぎになっていたハムギの腹違いの兄で、即位はしたものの重臣たちに反抗を企てたとして、毒殺されてしまったのである。次に反仏派でもある当時の宮廷内の重臣たちに担がれたのが、より若く、まだ13才のハムギだったのだ。彼が即位できたのは、まだ年齢が若く、というより幼く、こうした重臣たちが利用しやすかったからと言われる。

そうした年端もゆかないハムギにどれだけ反仏抗戦の意思があったのかはわからない。事の次第を辿れば、彼自身の意志というよりも成り行きの結果でしかなかったろうが、3年ものジャングルでの闘争は彼をそれなりの少年"闘士”に仕立てたであろうことは容易に想像がつく。だが、その果敢な戦いも彼が17才になった1888年11月のフランス軍による捕捉によって終わった。その際、ハムギの抗戦中に彼の護衛を受け持っていた、まだ少年期を脱し切れていない彼にとってはかけがえのない親友だっただろう二人の若い部下、18才と24才の兄弟を、ひとりは目の前でフランス軍に銃撃されて殺され、ひとりは自死に追いやられたのを見た。彼は亡くなるまで、このハムギの腕の中で亡くなった若い部下の血に濡れた肌着を大切に持っていたという。彼は捕らえられる直前に”私をフランスに引き渡すぐらいなら、殺しなさい!”とフランス軍の中のベトナム人兵に言い放ったと伝えられている。

ハムギがフランス軍に捕捉された時の様子を描いた当時のフランスの雑誌の挿絵

ハムギの反抗的な態度は、身柄を拘束されて後も変わらなかった。自分をハムギであるとは巌と認めようとせず、宮廷内に残った家族との面会も拒否した。そして、フランスの在ベトナム統治機関であるインドシナ総督府も、この”帝国の厄介者”をひどく恐れた。既に”帝”の称号はなく、彼を支えた反仏派の重臣たちも宮廷内から一掃され、なによりも彼はまだ17才の少年に過ぎなかったのだが。しかし、ベトナムの植民地化を加速度的に進めていたフランスに公然と抵抗した皇帝としての彼の人気は、宮廷外の民衆の間では高く、彼の存在自体がベトナム人たちの反仏意識にいつ火をつけることになってもおかしくなかったからだ。何が何でも、一刻も早く、ハムギを宮廷から、そしてフランスが新たに”帝国の版図”に加えようとしていたインドシナの土地から引き離さねばならぬ、それがフランス当局の決定だった。

当時、既にフランスの直轄地となっていた南部ベトナム(=コーチシナ、今のホーチミン市を中心とした南部デルタ地帯)には、1975年の南ベトナム終焉まで政治犯の収容所として、長期にわたり絶海の孤島刑務所として悪名を馳せたコンダオ島が早くも流刑地になっていたが、ここでは、ハムギの危険性を消すにはまだまだ距離が近すぎた。この頃のフランスは南米の仏領ギアナや南太平洋のニューカレドニアを、大量の囚人や政治犯の流刑先としていたが、遠隔という条件は満たしても、反逆者とはいえ皇帝の地位にあった皇族、しかも、山間部での長期のゲリラ戦の間にマラリアを患っており、健康も万全とは言えなかったハムギの生命を危険に曝しかねない”帝国の辺境”というわけにはいかなかったのだろう。別に帝国が温情深かったということではない。帝国の支配者たちも、追放者の殺害はしばしばその影響力を弱めるどころか、抵抗に殉じた殉教者としての声望をますます高め、反乱の火に油を油を注ぐことになりかねないことを知っていただけのことである。ハムギはフランスの進んだ医療による療養を受けながら、フランス本土より温暖な地で静養するというもっともらしい理由で、身柄の確保後、一か月たらずの1888年の暮れにはさっさとサイゴンからの船に乗せられ、フランス帝国の辺境でなく植民地のアルジェリアに追放された。もちろん、それまでハムギを支えた側近や闘争の同志たち、家族も誰一人、随行を許されなかった。年若いハムギに付き従ってアルジェリアに赴いたのは通訳と料理人、身の回りの世話人のわずか三人。そして、この3人には任期があり、時期が来れば新たな者と代わって帰国ができたが、ハムギにはそんなものはなかった。

ルイーズ・ミシェルはニューカレドニアでは孤独ではなかった。一緒に流されたパリコミューンの同志たちもいたし、彼女の類まれな個性に負うところが多いとはいえ、ニューカレドニアの先住民、カナクたちとの深く、実り多い関係を築くことができる自由があり、そこで新たな連帯と闘争への展望を探ることもできたのだ。レフ・シュテルンベルクには、流刑地、樺太の先住民ニブフ(=ギリヤーク人という名で広く知られる)との出会いがあり、彼らとの交流を通じて、革命家、テロリストから人類学者へと転生を遂げ、そこで得た仲間とともに新たな人生を歩みだした。ディノズールーはそもそも孤独の追放ではなかった。彼と共にイギリスと戦った有力な側近でもあった叔父たちがおり、彼の二人の妻も一緒だったのだ。そして追放地のセントヘレナでは、彼には新たな妻や子供たちさえが加わった。さて、ハムギはどうだったろう?

ごく近年になって、アルジェリア追放前のハムギには既に事実上の妻がいて、彼の追放時点で妊娠していたという事実が明らかになった。彼女はフエ王宮内の有力な貴族の出とのことだが、ハムギ自身が宮廷内の反乱者として事実上の追放を受け、ラオス国境に近い山岳地帯に隠れて抗戦中だったのだから、彼女は正式な王妃として王宮に認められた存在だったのか、そして果たしてハムギとの間に結婚生活と言えるものがあったかも疑問だ。いずれにせよ、ハムギのアルジェ追放に前後して彼女も王都フエを逃れ(=追放され?)数百キロも離れたベトナム北部の地方都市ナムディンに移り住み、そこでハムギとの子である男子をひとり1989年に出産した。その子孫たちは今でもハムギの直系であることを自認して生きているが、この事実はハムギがアルジェリア時代に結婚して設けたフランスの家族たちには伏せられ、ベトナムでも大っぴらに語られることも知られることも、ごく近年までなかった。そしてハムギ自身が、この子供や子孫のことを知っていたかもわからない。いずれにせよ、彼が孤独で追放された事実に変わりはないし、フランスの植民地当局はもちろん、フエの王宮も彼の存在を王宮内で、そしてベトナム全土で抹消してしまうことに懸命だったことをこのことは表している。

→以下、帝国の隔離者(2)に続く。
以下の音楽は本文にはあまり関係ないが、ベトナム系の音楽家たち、ギターのNguyen Le (冒頭の音楽のプロデューサーでもある)、Ngo Hong Quan (ヴォーカル、各種民族楽器、多分彼はベトナム出身)、Cuong Vu(カナダのベトナム系トランペット奏者、パット・メセニーのグループに参加していた)らが奏でる、現代ジャズ。すごい。強烈に民族臭を放ちながら、実にインターナショナル。恐らく、ハムギはこうした芸術家たちの系譜の最初のひとりなのだろう。その辺りは続編を読んでください。


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