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藤田嗣治と吉薗周蔵─二人の國體特務(白頭狸先生著『京都皇統と東京皇室の極秘関係』を読む3)

第1章 新文書の出現(2)

前回に続き、白頭狸先生の旧著の紹介となります。
「新文書」とは大きく分けると二つの内容となっておりまして、
1.山村御殿での出来事
2.和歌山市の紀州徳川家での出来事

についての記載となります。

「山村御殿」とは、奈良県奈良市帯解(おびとけ)にある普門山圓照寺(ふもんざん・えんしょうじ)の別称で「大和三門跡」と呼ばれる尼寺のことです。
なお「門跡」とは皇族・公家が住職を務める特定の寺院、または住職のことを指します(ウィキペディアより)。

「新発見文書」の内容は、昭和4(1929年)の秋に、吉薗周蔵が親友の画家藤田嗣治を伴って山村御殿を訪れ、その翌日に和歌山市内の紀州徳川別邸にまで足を延ばした際の記録となります。

藤田嗣治(1886~1968年)と言えば、「レオナール・フジタ」としてエコール・ド・パリ(パリ派)の代表的な画家として知られているそうです。
いま”いるそうです”と伝聞風に書きましたのには理由がございまして、私めが「藤田嗣治」の名を知ったのは、白頭狸先生の著書をとおしてであり、それまで藤田嗣治の世情の評価や画家としての業績をまったく知らずにおりました。

私めにとっての藤田嗣治は、画家という表の顔を持ちながら、「國體特務」という裏の顔を持つ藤田嗣治であり、それが初めに知った藤田嗣治ですから、「そういう御方なのだな」という認識なのですが、おそらく一般的な情報を通して藤田嗣治をご存じの方には、藤田嗣治がじつは「國體特務」であったという情報自体がすでに「んな阿保な」という拒絶反応を起こすような情報であると思われるのですが、歴史の真実というものは非情なものでございます。

藤田嗣治の正体を知りながら、そのことを隠して藤田嗣治を喧伝してきた方には精神的な動揺は少ないかと思いますが、藤田嗣治の正体を知らずして知っているかのように藤田嗣治を喧伝し、さらには一廉の立場を得てしまった方にとっては「周蔵手記」および白頭狸先生の存在は脅威であり、「わが生存圏を脅かす敵」となってしまうわけですが、後世の歴史に残るのは真実だけであり、事実に真摯に向き合うことが人としての意義を問われる大事であると愚考します。

いま、ものの譬えのようにお話しましたが、実際に一つの事件として起きたのが平成7(1995年)の「佐伯祐三絵画の真贋事件」でございまして、この真贋事件の渦中に巻き込まれてしまったのがご承知のことかと思いますが白頭狸先生となります。なお、顛末の一部始終は白頭狸先生の別著『天才画家「佐伯祐三」真贋事件の真実』において、美術業界の利害関係の実態、マスメディアがいかにして真実を闇に葬り去るのかの記録とともに詳しく著述されてあります。

今回、記事を作成するにあたり別著を再読しましたが、白頭狸先生と当時の秘書・中尾様の掛け合いが即妙で、あたかもホームズとワトソン、明智小五郎と小林少年の如き興趣があり、じりじりと間合いを詰めて「佐伯祐三絵画の真贋事件」の真相に肉迫していく筆致は、ノンフィクションとしても推理物としても読みごたえがあり、「サントリーミステリー大賞を受賞してもおかしくない」と博識ならぬ薄識な知性で唐突に思ったのですが、調べてみるとサントリーミステリー大賞は創作物を対象としている賞であったようで選考対象外だったのかも知れません。

兎も角も、白頭狸先生が「周蔵手記」の解明作業に取り掛かることとなったのは、まさしく「佐伯祐三絵画の真贋論争」が発端となっており、新たに発見された未公開の佐伯祐三絵画の真なることを証明するためには、「周蔵手記」の真なることを証明する必要があり、「周蔵手記」の真なることを証明するためには、吉薗周蔵の実在が真なることを証明する必要があったのです。

「周蔵手記」の解明作業の端緒においては、白頭狸先生にとっても吉薗周蔵の実像は未確定の状態であり、調査依頼人である吉薗明子女史の証言や、「周蔵手記」以外に遺されていた周蔵宛の手紙の調査をとおして総合的に洞察するなかで、國體特務として大正から昭和にかけての狂瀾怒涛の世界情勢において敢然と立ち向かっていた日本国家を蔭で支えて来た吉薗周蔵その人の像が確かな輪郭をもって浮かび上がることとなったのです。

と、なかなか前に進みませんが、これは白頭狸先生の著書の文章の一文一文が、いかに情報が凝縮された「稠密」な文章であるかの証であると存じます。デジタルのビット数で言うとどれくらいになるのか計算できませんが、途轍もない情報量が凝縮されていることは確かです。
長くなりましたので次回となります。

(白頭狸先生のnote記事より転載)

頓首謹言

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