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Guitar0915

Universe(savage garden)からの飛び火シリーズもだいぶ回が重なってきた。今回はMr. childrenの「シーラカンス」。逆転の発想で雨の日はチャンス、ということで練習に出かけてきた。でも移動中にノーマスクに汚い咳をかけられた。最悪。
ノーガードは感染していても平気でノーマスクで動き回り当たり前のようにウイルスを撒き散らすので本当にタチが悪い。「外では&人通りが少ないところではマスク不要」等と言う人間もいるけれど、このようにたとえ人を避け人通りが少ない道を選んで使っていたとしてもノーガードは現れる。そして、「ノーガードは感染している&症状が出ている最中にノーマスクで積極的にウイルスを撒き散らす」。マスクにおいて本来重要なのは「感染者が適切にマスクを着用してウイルス含有量の多い飛沫を撒き散らさないこと」なのだが、理性無き者にはそれが行えない。だからせめて感染させられたくない自分がマスクをしていることで、完璧ではないけど「少しでも」汚い「飛沫」を吸い込む量を減らすことを期待するしか無いのだ。
外でも当然飛沫は飛ぶし、感染者の症状による咳くしゃみ鼻水飛沫はウイルス含有量が極めて多い。それなのに外だから、人が少ないからとノーマスクでいたら、肝心な時に自分を守ることができなくなる。どんなに普段、室内でマスクをつけていたとしてもアウト。極端なことを言えば、感染させられた以外の全ての時にマスクをしていたとしてもその一瞬に外していたらアウト。(決して十分はないけれどもそれでもある程度自分の感染リスクや暴露吸引量を下げるための効果を求めるのであれば)肝心なのは「ウイルスを飛ばす人間がいる時にマスクをしていること」で、「ウイルスを飛ばす人間は、このように室内だけでなく屋外でも、たとえ人通りが少ない道であっても現れる」のだ。だから結局は自宅以外の全ての場所でマスクが必要になる。その想定ができないから「マスクをしていたのに感染した」「マスクに効果は無い」等と言い始める結果になる。効果を発する必要がある時も見極められずに「してるつもり」の穴だらけマスク着用もどき状態では適切な効果を生むことはできない。マスク「使いよう」だ。

さて。飛び火シリーズは自分だと出てこないアーティストや曲が浮かぶから面白いな。とはいえ、私、実は小学生時代(まあまあ陽キャだった)はミスチル好きだったんだった。

抑圧が強いタイプの機能不全家庭あるあるだと思うんだけど、とにかく子ども時代は「してはいけない」ことが多かった。
××ちゃんとは遊んではだめ、テレビは民放はだめ、民放でなくてもあの番組はだめ、この番組はだめ、あれはだめ、これはだめ、あれしなさい、これしなさい、、
そんな風に規制や命令が多い中で私の聴いてきた音楽&持っていたCDは小学校の中学年までピアノ関連、声楽曲(合唱部に時々指導に来ていた声楽家の方のもの)、ゲーム音楽のサントラ、そしてなんと、さだまさしさんという、何とも言えない激渋セレクションだった。
ちなみに、あれだけ規制が多かったわりに、早い時代からゲーム機があった(勿論時間制限はされていた)のはわりと謎で、でも、もしかしたら何台も歴代パソコンがあったように、母方祖父の職業の関係もあったもかもしれないとも今は思う(けれどももはや検証不可能。思い返せばインターネット開通時期も周りに比べて随分早かったな)。
それが、ピアノ家庭学習やらで怒りを抱え始めた時期プラス父親の借金ごたごたプラス反抗期の小5くらいから、私は当時の現代音楽?というかヒットチャートに乗るような曲を聴くようになり、中学時代は洋楽へ行ってしまったので実質2年くらいしかないんだけど、この時期はわりと普通のポップソング&ヒット曲に触れていた。そして好きだったのがなんと、福山雅治さん(!)とミスチルだったのだ。それはまあ、めちゃくちゃ「普通」であった。そんな時期もあった、、

ミスチルは"Atomic Heart"までのアルバムとその時期までのシングルは全てレンタルして聴いていた。お気に入りはシングルだと"Replay"、アルバム曲だと「星になれたら」、"over"で、この辺もわりと王道の好みに近いのではないかと思う。あと「雨のち晴れ」も好きだった。2羽のインコが出てくるから(やっぱり)。今思い出したけど、初めて自分で買ったCDはミスチルの「名も無き詩」だったかもしれない。

ミスチルは、「イノセントワールド」くらいまでの雰囲気と、"Tomorrow never knows"の大ヒット後の「シーソーゲーム」くらいからで何だかちょっと変わったよなあと感じるところがあって、移住前の私は、その変化に少し違和感があって馴染めないところがあった。ちょうどこの時期サザン桑田さんとのコラボもあったよね。それで何か影響があったのかなとか、考えたりもしていた(ちょっと昔過ぎてもはや前後関係がわからなくなってしまったのだけど、当時もサザンはあまり品のよろしくない歌を出していたので、規制の多い中育った私は桜井さんが桑田さんに何かポジティブではない影響を受けたのでは?とも思っていた)。でも結局はよくわからず、その後移住と共に環境日常、思考も嗜好も激変し、そのまま洋楽どっぷり生活の中で忘れかけていた。

そんな中、奇しくもまさに、前回の「愛無き愛児」の入っているサザンのアルバムを借りた友達から借りたのが「深海」だった。「深海」はそれまでのミスチルのアルバムとは全然違った。暗く重く、移住後の私の心境に合った。けれども思ったのは、「桜井さん、一体どうしたんだろう、大丈夫だろうか、、(ずいぶん病んでるよね、これ、、)」ということだった。

移住前はワイドショーを見る機会などなかったし、年齢的にも遠い話だから気付かなかったのかもしれないけれども(移住後は母親が仕事で家からほぼ不在状態になったのでテレビ等見放題になった)、今、振り返ってみれば"Tomorrow never knows"はまさに不倫の曲だし、私が「ミスチル何か変わったよなあ」と違和感を抱いていた時期、「深海」の制作時期はまさにそれがon goingだったのだろう。その行為の是非をここで問うことはしないが、その苦悩や葛藤の中で生まれた「曲」には魅力があった。「深海」は大学入学前にもよく聴いていた。

「シーラカンス」は、何故かミスチルがくるり主催の京都音楽博覧会に出演した際に、くるりと一緒に演奏された曲でもあった。あの回はミスチルファンの応募が殺到したからチケットの確保が本当に大変だったなあ。そして、あろうことにか当日は土砂降り大雨になって、結局ミスチルの途中に公演中止になる(当然トリのくるりの演奏は聴けない)という、ずぶ濡れになった上になんとも言えない結果になったんだった。途中までは開催されたからメインが無くなったとしても払い戻しは無しだったし。ミスチルも結局、「シーラカンス」一曲のみだったんじゃなかったろうか。でも、数々の楽曲がある中でこの曲をセレクトしてくるあたりがやっぱりくるりだよなあと思った。

歌った箇所の最後にある同じ弦を何回も速く弾く部分はさすがに指1本だときついなあ、複数の指に以降したほうがいいんだろうなあと思った。

この間の"Take cover"の時にも思ったけど、テンポにもよるけど16分の速さになると親指だけで同弦&連続はちょっと厳しい。昔に比べれば弾ける速さの幅は広がったし、ある程度の緩急というか強弱も少しずつつけられるようにはなってきているんだけど。

そこで試しに人差し指と中指を使って弾いてみ、、たら大変なことに。周りの弦に触れずに弾くことができない。。

仕方ないので、使う弦以外を押さえて弾いてみた(ちょうど連続する音が弦を押さえずに出せる音だったから)。けど、やっぱりあんまりうまくいかない。そもそも何か親指で出す時と音が違うんだけど???どうなってるの???何より左手で持ち替えが多い時だと周りを押さえるのも厳しい。。

あと、これは薄々気付いていて、だから避けていたところもあると思うんだけど、親指を使う時と、親指以外を使う時とで、指の「向き」が変わるんだよ。。
親指は低い音の方向から高い音の方向へ、親指以外は高い音の方向から低い音の方向へ弾くことになるはずなんだけど、これが私にとっては全然別物。おそらく空間認識能力との兼ね合いもあって、違う方向のものを混ぜるのが難しい(ピアノの場合は全ての指が上から下で揃っているから全く問題が無い)。。

前途多難感しかなくて打ちひしがれながらフィンガーピッキングについて軽く検索をしてみたら、指を何本使うか、どの指を使うかでわりとバリエーションがあった。
ちょっとある程度調べて自分に合う方法を探さないといけない感じで、これにはきちんとした本が必要だろう。しかし、今は時期が悪くちょっと図書館にも行きたくないので、とりあえずは自分で探りながら本を借りに行けるようになるまで待つしかないだろうな。


先生がまた「きぼう」が見えますよとメールをくださったんだけど、雨で出られなかった。そしてもう芝生付近は危険なエリアになってしまった。
危険な人間がいなければ、練習もできるし、勿論働くことも生存も可能だけれども、そうなる見込みがないので全て捨てるしかない。他人をどうこうすることはできないのだから自分を変えるのみ。

見えないけどレンズ豆のあんこ入り。
たまにはシンプルめなものも。
ゴールデンベリーが爆発&焦げがちなのをいつも忘れてしまう。
やっぱりチョコ。
ゆべしも食べた。相変わらず糖質過多である。

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