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独自ロザリオ (「イエス,復活する」を12場面に分けて黙想するなど)
ロザリオの祈りとは ロザリオの祈りというのは,簡単にいうと「主の祈りを1回,アヴェ・マリアを10回,栄唱を1回」を1セットとするカトリックの伝統的な祈りの形式の一つです。この1セットを「1連」と呼び,5セット一組で行うことが多くこれを「1環」と呼びます。
このとき,イエス・キリストと聖母マリアの生涯の諸場面を黙想しながら祈るというのが一般的です。黙想することになっている場面は20 (後述のように
マガジンフォロワーの皆様へのお知らせ (グレゴリオ聖歌に関する記事を1か所にまとめます)
いつも私の記事をお読みくださりありがとうございます。
先ほどグレゴリオ聖歌に関する重要な話題を扱った記事を投稿しました。この時点で,私のnoteには「グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ」というマガジンがありましたが,この記事は聖歌を訳したものではないため,仕方なくマガジン「その他の投稿」に入れました (追記:その後まもなく,下記の新方針に従って移動しました)。
しかし実際には,マガジン「その他の
私のキリスト教観 (2012年4月29日時点)
もともとは随想録ノート (手元にある紙のノート) に2012年4月29日に書いたもの。それにごくわずかな修正・補足を加え,同年5月13日に注を加えてFacebookの「ノート」機能を用いて公開した。これはその転載である。
現在の私のキリスト教観。休み中にヨーハン・アルント [注1] の「真のキリスト教について」第2巻第6章 (創文社・ドイツ神秘主義叢書12『キリスト教についての対話』[山
母語の文化を豊かにしてゆくことの重要性
2019年2月16日のFacebook投稿 (文章表現をほんの少し改善,内容はそのまま)。タイトルは今仮につけたもの。
日本は翻訳大国であると言われますが,これは本当に素晴らしいことであり,また大切なことでもあると思います。
基礎が欠けていると盲点が多くなる,あるいは少なくともいろいろ非効率になるということは知っているので,このところ【註:2019年2月】聖書・典礼・教会史などについて
讃美歌で教会と社会を建て直す:三十年戦争後のヨハン・クリューガー (1598–1662) の事業について
三十年戦争 (1618–1648) とペストによるたいへんな荒廃のあと,教会を,社会を,人々の心を建て直すために一つの事業を始めた人がいました。彼の名はヨハン・クリューガー (Johann Crüger),教会音楽家にして町の音楽監督でもありました。その事業にはまもなく,ある素晴らしい仲間も加わりました。彼らの遺した仕事は,今日に至るまで私たちの心を慰め,文化を豊かにし,生きる力を与えてくれてい
もっとみる詩としての楽音 (消費され流れてゆくことを拒否して立っているものについて)
初出:Facebook (近況),2017年6月4日。本来は無題。
古楽器の展示イベントがあったので見てきた。話し声がガヤガヤいう中で,時々誰かが楽器を試奏する音が聞こえる。その音は(たった1音であっても),人々の話し声という日常的な音の中にあって,全く異質なものとして,近年流行りの言葉でいえば「空気を読まない」音として響く。
ガヤガヤした話し声と楽音との違いは何か。いろいろあるが,な
2008年12月14日長岡純子ピアノ・リサイタルの感想(ある友人へのメール)
2008年12月14日に長岡純子の演奏会を聴き,その日のうちに,このピアニストを教えてくれた友人に宛てて書いたメール。
○○様
お久しぶりです。オランダ留学生活はどんな調子ですか? というかそちらでもメールは見ているのでしょうか。
今日長岡純子さん(なんだか,「さん」付けくらいが一番よく合うような気のする方だと思います)の演奏を久々に聴いてきました。ハイドンの変奏曲へ短調(Hob. X
日常性と一続きの高度な芸術:文化のひとつの理想的なあり方としての教会文化について (2018年12月1日のアドヴェント・コンサートに寄せて)
教会の暦では,今日はアドヴェント (待降節) に入る直前に当たります。3年前のこの日 (2018年12月1日),聖書朗読とオルガン演奏を組み合わせたささやかなアドヴェント・コンサートを開きました。これはそのお知らせのためにもとはドイツ語で書いた文章ですが,私の思うキリスト教文化の面白さをよく述べることができていると思いますので,このたび日本語でも発表したいと思います。
音大にまで行って勉強し
世界が明日終わるとしても今日りんごの木を植えることの意味
初出:Facebook,2018年10月17日
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「たとえ世界が明日終わるとしても,今日私はりんごの木を植える」という,ルターのものと伝えられる有名な言葉がある。人間,地上で何を成し遂げるかだけが問題なのであれば,不運,自分の弱さや間違った選択などによりどこかの時点で自分なりのキャリア形成の道を踏み外したら,もうただ嘆きや後悔のうちに生きるしかないかもしれない。自分が本来