世界が明日終わるとしても今日りんごの木を植えることの意味

初出:Facebook,2018年10月17日

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 「たとえ世界が明日終わるとしても,今日私はりんごの木を植える」という,ルターのものと伝えられる有名な言葉がある。人間,地上で何を成し遂げるかだけが問題なのであれば,不運,自分の弱さや間違った選択などによりどこかの時点で自分なりのキャリア形成の道を踏み外したら,もうただ嘆きや後悔のうちに生きるしかないかもしれない。自分が本来活躍するはずだった(と少なくとも本人が思っている)分野に関する勉強を続けても,それがもはや仕事に結びつかないのであれば,やっても何になる,と思ってしまいかねない。しかし事業には実は本体はなく,どちらの方向を向きどういう思いで生きているかこそが問題なのだとしたら,いつでもやり直せる。今さら始めても中途半端あるいは未完に終わるのではないかと恐れる必要はなくなるし,それどころか,もう育つことがないと確定しているりんごの苗を植えることも無意味でなくなる。そして,人生を諦めてしまうことをこのような考えによって避けるためには,永遠の生命の信仰は少なくとも有用であると思う。
 ただし,芸術家が具体的な素材と取っ組み合うことによって偉大になってゆくように,精神そのものも事業(種類は何であれ)を通して成長するというところは確かにあるはずなので,以上のように考えるにしてもやはり地上的な意味でもやれるだけのことをやるよう試みたほうがよかろう,と,おもに怠惰で世捨て気味になりがちな自分のために書いておく。
 ケルンからの連絡は未だに来ない〔註:この2週間前にケルン音大の音楽理論・聴音の非常勤講師の採用試験を受け,結果を待っていた〕。採用された場合に備えて,効率的に和声を身につけるための課題を作ったりバッハ・コラールの研究書を読んだりしている。私が教壇に立つことがなければ,こういうことが世の中に与える影響は非常に少なくなるわけだが,面白いと思う限り,不採用通知が来ても構わず続けよう。ベートーヴェンのミサ曲と彼の信仰についての読書なんてもっと(仕事的には)何にもならないが,こういうことを考えているときの自分は考えていないときの自分より明らかによく生きているので,堂々と続けよう。ピアノも弾き続けてよいし,また曲を書く気になったら相変わらず作曲と呼べないものだろうが真面目に書く限りは書けばよい。


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