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これまでの歩み


最終更新時の変更箇所

 記事更新のたびに通知が届く (届いてしまう) 方々がいらっしゃると思われるので,最終更新時に何を変更したかをここに記すことにする。そういう目的なので,レイアウトなどちょっとした修正にすぎないときもここにその旨記す。短い間に何度も更新した場合は,最後の更新だけでなくその「短い間」に行なった更新はすべて書き残しておく。

【2024年4月26日 (日本時間27日)】
 新設:2004年2月,追記:2010年3月。あとは微修正のみ。


 某YouTubeチャンネルでさまざまな変わった経歴の人たちの話を聴いていて実に面白かったので,自分もここで一度これまでの歩みを振り返り,しかも公開してしまおうという気になった。
 以下けっこう長いので,まず要点をまとめて記しておく。

  •  多くの「進路変更」があった。主な学歴でいうと音楽高校 (作曲専攻) →文学部 (西洋史学専攻) →音楽大学 (教会音楽専攻) →音楽大学 (音楽理論専攻)。あと卒業を目指してきちんと通っているわけではないのでほとんど言及に値しないが,現在は神学部に籍を置いてはいる。

  •  そういうわけであまり一貫・徹底してではないものの,音楽との関わりがなんだかんだいって中心にある人生を生きてきたといってよい。途中からはキリスト教も。両者が交差する分野である教会音楽を仕事として生きている。

  •  何かの専門を究める道が開かれていたことは何度もあったが,それらの道のどれ一つとして本当に深く進んでゆくことはなかった。また,ここに書いていないことも含め,大きな過ち,チャンスを逃すこと,成長を妨げる生き方や生活習慣,といったものが少なからずあった。結果,受けてきた恵みの多さのわりに働きは少ない。その意味では全体として「失敗」と評価することもできる半生である。これは今の時点 (投稿時すなわち2021年10月。30代半ば) でいえるというだけでなく,これまでの人生のさまざまな段階で過去を振り返るたびに思ってきたことであり,おおよそ10歳から30歳すぎまで何度もそれを苦しく思ってきたし,またある時期からは申し訳なくも思ってきたものだが,現在は基本的に穏やかな気持で生きることができている。それは諦めかもしれないし,自己受容かもしれない。志を失ったということかもしれないし,身のほどを知ったということかもしれない。可能性を閉ざしたということかもしれないし,自分らしさを大切にしたということかもしれない。ただ,どこへ行っても感じることの多かった「ここではない」感を感じることは今は至って少ない。そして今の生活は概ね気に入っており,ありがたく思っている。それがよいことか悪いことかは,私には分からない。 

 以下,特に重要なことばかり書かれているとは限らず,また,重要なことであっても書かれているとは限らない。
 


乳幼児期,両親について

  •  母は童謡などの歌をたくさん歌って聞かせてくれたらしい。これは私の音楽的発達において大切な役割を果たしたことだったのではないかと思う (母がそういう意図を持っていたかどうかは知らない)。また,本もよく読み聞かせてもらっていた。

  •  数字に強い興味を示していたという。

  •  家には,母が小学生のときに買ってもらったという1台のアップライトピアノがあった。母が演奏しているのはほとんど見たことがないが,少なくとも少女時代にはかなりの腕前だったようである (中学生のときに使っていたショパンのエチュードの楽譜を見たことがある)。

  •  家族で車で出かけるとき,車内ではクラシック音楽も流行歌もかかっていた。

  •  両親とも長らく無宗教だったが,父は晩年仏教 (高野山真言宗) に目覚めることになる。母は (おそらく) 最後まで特定の信仰を持っていなかったと思われるが,キリスト教に関心を抱いていた時期が少なからずあり,カトリックの通信講座も受講していたことがあった。そのため,いつからかは覚えていないが,フランシスコ会訳の新約聖書や三浦綾子・遠藤周作といったクリスチャン作家の多くの著作がうちにあった。

1989年

4月 (就学3年前) クララ会 (カトリックの女子修道会) が営む幼稚園に入園,1年間通う。先生は全員修道女 (シスター) だった。登園するたびに一人一人お祈り (幼児には意味の分からないような文句だったと思う) することになっていた。
 後年洗礼を受けるに至ることに無意識レベルでこのときの影響が少しでもあったのかどうかは分からないが,とにかくこれがキリスト教との最初の出会いだったといえる。

 といっても,両親には宗教的意図は全くなく,単に当時の自宅から最も近いところに通わせたというだけであった。その証拠に,1年後引っ越しのため転入した先は仏教の幼稚園だった。

1991年

2月4日 (就学1年2か月前) ピアノを習い始める。うちで私がピアノを1本指で弾いているのを見た親がかわいそうに思って教室に連れて行ってくれたことによる。
 進歩が速かったためまもなく先生から「この子にはプロにするための教育をしますか」と聞かれた母は「いえ,趣味で」と答えたという。

 後年 (小学校高学年くらいか) このことを聞き,非常に悔しい思いを抱えるようになり,それは長年続くことになる。私はさまざまな点で「優れた才能を与えられたのにそれを十分磨かなかった・それを十分生かして働いていない」という思いを抱き続け苦しんできた人間なのだが (後述の中1のとき親に書いた手紙は,主としてこういう思いからのものだったように記憶している),このような思いの原点の一つはここにあるように思う。
 ただ,私はもともと練習熱心なタイプではない上,両親も教育面でうるさい人たちではなかったので,いずれにせよそんなに厳しく英才教育するのは無理だったのかもしれない。上記のような悔しさを感じるようになってからさえ,練習量は増えなかった。私は自分がトップでないとやる気が出ないことが多い人間なのだが,小学生ながらにこの時点でもう後れをとっていると感じたので今さらと思ってしまっていた,というのもあったのかもしれない。そして何より,これは後に音楽高校に入ってからはっきり自覚することだが,音楽への愛・熱意というおそらく最も重要なものが私には不十分だった,というのが決定的だったのだろうと思う。

1992年

4月 (小1) 小学校に入学。

1995年

1月 (小3) 小学校の吹奏楽部に仮入部,楽器はトランペット。4月に本入部し,卒業まで続ける。その後中学校でも1年間続ける。

4月 (小4) 4年生に上がるとき例外的に担任替え (クラス替えを伴わない) が行われ,音楽をはじめとする課外の諸活動に熱心な先生のクラスになる。1年後,5年生に上がるときのクラス替えでもこの先生のクラスになり,結局小学校時代後半の3年間お世話になることになった。
 私にとっておそらく何より重要だったのは,この先生のもとでさまざまな美しい (そして小学生が取り組むものとしては水準の高い) 日本語の合唱曲に触れたことである。今に至るまで日本語の合唱曲は大好きで (心に最も直接触れてくると感じる),中学生のころなどピアノのレッスンで習っていた曲 (音楽高校入試の副科ピアノ用) よりも合唱の伴奏を家でも熱心に弾いており,母からたしなめられたくらいである。

 今思えば,これこそ私が純粋に好きなことだったわけだから,これを突き詰めてゆけばよかったのだろう。この点は音楽高校に行ったのがかえって災いし,バッハやモーツァルトやシューベルトは歌っても日本語合唱曲の傑作に触れる機会は皆無に近かったし,専攻の作曲でもソナタ形式の器楽曲を作ることしか考えていなかったので,この分野における私の自然な発展は中学校卒業とともに止まってしまったといえる (たぶん,当時はまだ日本語の合唱曲というのがそれほど自分にとって特別なものだと気づいてもいなかった)。
 今まで多くの作曲家たちの経歴を読んできたが,学校で音楽を専門的に勉強したか否かにかかわらず,「好き」という素直な思いから出発してそのまま行くことができているように見受けられる人々について,本当にいいなと思う。これこそが私の歩んできた道においてあまりに不十分だったものであり,それはまず音楽においてそうだが,結局はほかの多くのことにおいてもそうで,そうしているうちにどうも何がしたいのか自分でも分からなくなるに至っているというのが現状 (2023年現在) であると思っている。また,私が何事も徹底的に究めることなく来た大きな原因もここにある気もしているが,これは単に飽きっぽいとか,何といっても独りでいすぎるとかいうのも大きいかもしれない。
 また,音楽高校時代は大学の作曲科に進んで勉強するということについていわゆる前衛の世界に入ってゆくというイメージしかなく,どうにもそういう方向に馴染めなかった私の場合,もし20世紀以降も続いていたいわば (私にいわせれば) もっと「人間的な」音楽の世界,すなわち合唱音楽 (外国の作品も含む) の世界にもっと目を向けることが当時できていたなら,もしかしたら素直に作曲科に進んだ上で自分の好きな方向を追究していたのかもしれない。

1996年

時期不詳 (小5) 母に連れられ,一度だけ最寄りのカトリック教会のミサに出席。一度だけ,というのは私が連れてゆかれたことについてだけではなくて,そもそも母がミサに行ったのがこのときだけだったように思うが,もう遠い記憶なのでよく分からない。

 このとき交通手段は車だったと考えられ,運転は父しかできなかったので父も一緒に教会まで行ったことになり,ミサにも一緒に出席したのかもしれない。

12月 (小5) 完成したものとしては最初の作曲。これを含め,最初の9曲 (~1998年9月) はだいたいDTMで作った。

1998年

4月 (中1) 中学校に入学。まもなく2週間ほど入院。退院後,欠席中のぶんを補おうと国語の先生が個人授業してくださったことが今も印象に残っている。

4月または5月 (中1) 私にとって心の故郷のような大切な文学作品である,ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を初めて読む (入院中に親が持ってきてくれた本のうちの一つだった)。このときは短縮版 (たしか豊島与志雄訳) で,全部読んだ (新庄嘉章訳) のは8月。なおだいぶ後で豊島与志雄による全訳も読んだが,私は新庄訳が好きであり,人にも迷わずこちらを薦めたい。

11月か12月初め (中1) 本格的に音楽の道に進みたいという思いが切実なものとなり,親に手紙を書く。母がこの件を (具体的には,ゆくゆくは音大を目指すということを) 当時の私のピアノの先生に相談したところ,そんなのは無理に決まっているというようなことを言われたが,母はそれを聞いて萎縮するでもなく考え込むでもなく,私がそこに通うのを即座にやめさせ,別の教室を探してきた。

↑  ここにはもともと「親に手紙を書く」というところまでしか書いていなかった。その後に書き足した部分についてだが,これはあるYouTube動画を視聴していて思い出し,またその重要性に今さらながら気づいたものである。「無理」という言葉 (それも専門家の) によって可能性をつぶされることを回避させてくれた母への感謝をもって,本件を追記することにした。(2022年8月15日)

 もう一つ追記。「本格的に音楽の道に進みたいという思い」と書いたが,これは音楽を愛していたというより, 「自分の可能性をこのまま殺したくない」という思いだったはずである。今思えば,後述のように結局音楽家としての道を一筋に進むことにはならなかった大きな原因は既にここにあったといえるだろう。(2024年2月13日 [日本時間14日])

12月 (中1) それまではピアノしか習っていなかったのだが,上記の事情により新しく通い始めた音楽教室で,それに加えてソルフェージュを習い始める。

1999年

3月31日 (中1最後の日) 東京藝大音楽学部附属音高,通称芸高 (作曲専攻) 受験に向けて和声法 (ときどき作曲) を習い始める。このとき福澤達郎氏に,11月ごろから北村昭氏に師事。

時期不明 (中2) 性格が内向的になり始めたのはこのころだったと思う。この年度の初め,芸高受験のために部活動をやめたことも関係していたかもしれない。

2000年

時期不明 (中2または中3) ソルフェージュのレッスン (前年11月ごろから和声を,しばらくしてソルフェージュ・楽典も,お茶の水で習うようになっていた) の後にあてもなく歩いていたら神保町の三省堂書店を「発見」し,初めて見る大型書店に感激。

 お茶の水・神保町はこのころから私が日本で最も好きな街の一つであり (それも,2023年の一時帰国まで長らく「~の一つ」でさえなく,はっきり「一番」だった),レッスンのため通う必要がなくなってからも2007年くらい (あまりはっきりとは覚えていないが) まではしばしば行くことになる。

夏? (中3) 三浦綾子を集中的に読む。『道ありき』三部作を読んでキリスト教に強く惹かれるが,このときは2週間ほどで冷める。

夏か秋 (中3) 随想録ノート (日記のようなものだが,毎日書くわけではなく,逆に1日に何度も書くこともあり,またできごとを記すというより思ったこと考えたことを記すのが中心なのでこう呼んでいる) に初めて書く。
 この年にはほんの何度か書いただけだが,特に高校時代から大学最初の3年半ほどにかけてかなりの量を書くことになる。

2001年

4月 (高1) 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校に入学 (作曲専攻)。作曲 (とその基礎科目である和声法・対位法・楽曲分析) を夏田昌和氏に師事。
 同級には作曲専攻者がもう1人おり,その人は入学時点で私より勉強が進んでいただけでなく,入ってからの勉強量もずっと多かった。ちなみに,彼女は高校時代を通じて19世紀後半フランスの旋法主義風の書法をとっていたのに対し,私はいつも19世紀ドイツ風の書法だった。

 しかし,15年ほど後,音楽理論科修了試験の一つであるLehrprobe (学部生を相手に90分間音楽理論の授業をするというもの) において,さらにその翌年受けた非常勤講師採用試験のLehrprobeにおいても,私が選んだテーマはフォーレの和声であった。

夏以降 (高1) 作曲の道を行くことについての迷いが生じる。学年末に高校中退を数日間考える (どのくらい本気でだったかは忘れた) が,そのまま通い続けることにする。
 なお,上記「随想録ノート」を再び書き始めたのはこの年の10月14日なのだが,再開第1号の記事はこの迷いについてのものであった。

 上で作曲の先生のお名前を出したのでここで念のため断っておくが,このとき迷いを感じたり,翌年ついに進路変更に至ったりしたことに,先生の影響 (例えばレッスンに不満だったなど) は一切ない。これについて何か言うとしたらむしろ真逆のことであり,つまり夏田先生に習うことができたのは実に幸運だったと今でも思っている。進路についての迷いにおいて人からの影響があったとしたら,音楽に対して自分とは段違いに真剣な同級生たちの姿を見たこと,これだけである。

時期不明 (高1) 最も好きな作曲家がベートーヴェンになる。これは現在でも変わらない (あるいは好きというより特別な存在,作品だけでなく彼の生涯と周辺世界も含め心の故郷)。

2002年

通年? (特に高2) 武者小路実篤に傾倒。

時期不明 (高2) このころから古書店によく行くようになったらしい。

6月~7月 (高2) 2段階で進路変更を決意。まず6月初めに藝大作曲科志望から楽理科志望に変わり,さらに7月末に東大文III志望になった。独学で受験勉強を開始。伊藤和夫の『英文法のナビゲーター』で勉強の喜びを知る (それまで勉強が嫌いだったわけでは全くなく,むしろ好きだったが,それにもかかわらずこの言い方がぴったりくるような気持だった。学校と関係ない完全に自発的な勉強をしたのがこの時たぶん初めてだったというのも関係しているかもしれない)。

 その後も,英語はだいたい伊藤和夫の参考書・問題集で勉強し,受験科目の中では最も得意になった。このとき身につけた文法・読解の力は後にほかのヨーロッパ諸言語に取り組むときにも大いに役立ったと思う。

9月10日 (高2) 母が亡くなる。

11月末~翌年2月 (高2) 高校中退を真剣に考えるが,結局通い続けることにする。

2003年

5月・6月 (高3) 高校の「公開実技試験」のため,作曲に全力を注ぐ。「公開実技試験で失敗するくらいなら大学になんか落ちたってかまわない」との思いだったが,その時にしかできないことをその時大切にするという意味で,本当に正しい思い・行動だったと思う。

 そうはいっても高3なのにこのように思い切ることができたのは,2年生のうちからかなり受験勉強して力をつけていたためというのも大いにあると思われ,この経験からも, 「受験勉強は高1・高2から」と昔も今も思っている。

7月初め (高3) 数学の勉強があまりにも遅れていたので,東大を前期日程で受験することを諦め,文系4教科 (国語・外国語・地理歴史・公民) + 小論文に集中することにする。

 当時はそれでも,文科I類か文科III類の後期日程入試であれば東大に入ることができた。なかなか面白い入試で,どのようなものだったのかご興味のある方にはこちら (執筆者は私ではない) をお読みいただきたい。この方式は,私が受験した数年後に残念ながら廃止されてしまった。

2004年

2月 受験した私立大学 (すべて文学部) の一つでは出願時点で専攻を決めることになっていたのだが,この時点では倫理学への関心が最も大きかったようで (少なくとも高2時点では教育学も考えていた),哲学科を受験している。

3月 (高3) 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』を読む。少なくとも私の意識の上では,後にキリスト教を信じるに至る最大のきっかけを与えてくれた本。

3月 (高3) 東京藝術大学音楽学部附属音楽高等学校を卒業 (14年後に高校時代を振り返って書いたものはこちら)。

4月 (大1) 東京大学教養学部文科III類に入学。第2外国語はフランス語。
 まもなく胃がおかしくなったことをきっかけに5月病ならぬ4月病ともいうべき状態になって早くも2週間ほど大学を休み (もともとはオーケストラの部活/サークルに入るつもりだったのだが,この2週間のうちに新入生歓迎合宿などが軒並み終わって行く気が失せた),また非社交的な性格も災いし,学内ではほぼ完全に孤独になる。

 この孤独の生活によってこそ得られたと考えられる非常に重要なものもあったけれども,今ではこれは本当にもったいないことであったと考えている。これから大学生活をする人にはこうなることは極力避けていただきたいと思う。
 なお大学を休んでいた2週間は,自室で寝ながらベートーヴェンのピアノ・ソナタを (たしか) 全部,主にフリードリヒ・グルダのamadeo盤で聴いていた。

ここから数年間 音楽を完全に捨て去ったわけではなく,独りで (ただし後述のように2006年9月からオルガンを習ったりはしたが) 細々と続けた。それも,作曲科に進むのを自らやめたわりには,作曲で大成したいという思いさえもどこかに抱き続けていた。いや,当時の随想録を読み返してみると, 「どこかに抱き続けていた」どころか,かなり切実にそのように思っていた時期も少なからずあったようである。しかし通常の作曲教育やいわゆる前衛音楽に疑問を抱き (なお前者については,それまでに習った先生方に不満があったという意味では全くないことを断っておく。パリ音楽院に始まる近代的作曲教育に疑問を投げかける文章を読んで影響を受けただけ), 「本当の道」を探ろうと,さまざまな作曲家の伝記を読んだり,古典的な作曲法教本を繙いたり,昔の大家の修業時代に倣って写譜したり編曲したりした。また,東京文化会館音楽資料室や文京区立小石川図書館などを利用して録音を聴いたり楽譜を読んだりした。

 特に東京文化会館音楽資料室には,この目的をもってに限らず本当によく通った。実を結ぶ結ばないはともかくとして,ここでは本を読んだりしていてインスピレーションが降ってくることも特に多かった気がする。私にとって「聖地」とも呼びたいほどに大切な場所である。

 ところが書いた作品はごくわずかで,内容的にも高3のとき公開実技試験のために作曲したものを超えることは決してなかった。これは一つにはあまりにも孤独に生きていたせいかと思うが (孤独だと感情の動きが非常に少なくなるので。この時代の作品で唯一本当によいと思うもの [後述] が,ある人と楽しい一日を過ごした直後に着想したものだった,ということもそれを裏書きする),それより何よりこの経験から言いたいのは, 「もし音楽をやりたい/続けたいなら,よほど強い思いがある例外的な人 (吉松隆のような) でない限り,独学はやめよ。たとえ多少既存のシステムに疑問や不満があってもとにかく習いに行け」ということである。あるいは習いに行かないにしても,少なくとも音楽仲間を持ったり,定期的に発表の機会を持ったりはしなければならないと思う。一切の強制力・緊張感なしに続けるのは,まして成長してゆくのは,本当に困難だろうと思う。

6月か7月 (大1) 当時受講していた「フランス語インテンシヴ」のクラス (なお,これ以外にフランス語の授業が週2時間あったのだがそれは早々に切ってしまった。これは間違いだったと今ははっきり思う。後述) で「シャンソンを作ってこい」という宿題が出,もちろん曲ではなく歌詞を書いてこいという意味だったのだが,このクラスでも全く周りとコミュニケーションが取れていなかった私はこれを自分の存在をアピールする千載一遇の機会と捉え,作詞だけでなく何より作曲に没頭,こうして仕上げた歌曲 (二重唱) は東大時代に書いたわずかな作品の中で唯一本当によいと思うものとなった (それだけに歌詞が初心者のフランス語なのは惜しいが)。
 1年生のときの大学でのただ一つの明るい思い出であり, 「芸に身を助けられた」貴重な経験の一つであり,そして「書かなければならない状況になれば書ける」ことを示す一つの例でもある。

 最後の点についてだが,私は少なくとも高校時代以降,発表会や試験という形であれレッスンで出された課題という形であれその他個人的な事情という形であれ,このように「書かなければならない状況」にならないと本気で作曲をすることがまずない人間であり,そうであればそういう機会をなるべく多く作る以外にこの道で成長する可能性はないのであり,それをしなかったこと (上に書いた「習いに行かなかったこと」もその一つ) こそ,私が作曲ということに関して失敗した最大の理由だといえると思う。
 なお, 「そんな状況にならないと作曲しないような者はそもそも向いていないのだ」とは思わない。表現意欲に溢れていて次から次へと自発的に創作するタイプの人々はたしかにいるだろうが,そういう人たちだけが本物なのだと思うならば,それは「芸術家」のステレオタイプに基づく幻想であろう。主として外的要因 (仕事上の必要,委嘱など) によって書き,しかもそれで傑作を生み出す人々も存在するということは,音楽史が示している。

夏 (大1) 小説以外のロマン・ロランの著作をよく読むようになる。特に『ベートーヴェン 偉大な創造の時期』(『ベートーヴェンの生涯』ではない) に熱中する (なお本筋以外では,テレーゼ・ブルンスヴィックのことに強い関心を抱いた)。

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夏以降? (大1) 音楽の存在意義・役割を真剣に疑って考えたりいろいろ読んだりする。もう少し正確にいうと,音楽が本当に一時の気晴らし以上のもの (善く生きることに真に貢献するもの) でありうるかどうかを切実に気にする。この問題には,これ以降もなお数年間強い関心を持っていたと記憶している。

10月初めごろ (大1) キリスト教を信じる (キリスト教の基本的な教義を受け入れる) に至る (ここに至る経緯はこちら)。

11月以降 (大1) 内村鑑三を集中的に読む。ほかの無教会関係者の著作もよく読む。

2005年

1月くらい? (大1) ドイツ語を始めるが,偏った考えに基づく独学が中心で,しかも特に目標もなく行なっていたため,かなり遠回りすることになる (このときの様子を含め,私のドイツ語学習の軌跡はこちら)。

 この経験から,またフランス語や作曲でも独学/独学中心 (あるいはそれ以前に,どのような道を歩んでゆくか自体を自分で一から探る状態) にしてろくに実力がつかなかったという経験からも言いたいことは, 「何であれ,好条件がかなりそろっていない限り独学でゆけると思ってはならない」ということである。
 私の場合,大学受験のときにほぼ独りで勉強して成功し,しかも独学だったからこそ効率がよかったのだと認識しており,それ自体はよかったのだが,これはむしろ例外的な成功だったのだということを認識しなければならなかった (しかし,失敗に失敗を重ねてもなかなかそうと悟らず,10年15年経ってようやく気づいた)。この認識が欠けていたせいで,大学受験のことはいわば有害な成功体験になってしまったのだといえる。
 ではなぜ例外的な成功が起きたのかというと,大学受験のときにはこの上ないほどに好条件がそろっていたのである。その好条件とは,
● 優れた教材が十分にあった
● それらの教材をどのように用いてゆけばよいかについての情報も十分にあった
● 人生がかかっているという意識を強く持つことができた
● 同じフィールドで戦う仲間/ライバルがいた (私は音楽高校にいたので顔の見える範囲でこそ独りだったものの,インターネット越しにそういう仲間を得ることができていた)
● 勉強の成果を分かりやすい形で確認する手段 (模試など) があった
● 厳然と期限が切られていた
といったものである。こういった条件が (全部でないにしても,少なくとも大部分) 満たされていない場合には,たとえ多少疑問や不満を抱くところがあっても,とにかく習いに行くべきであると考える。自分なりの工夫をするのはよいことだが,それは,まず授業を受けていろいろな問題にぶつかり,それをどうにかするというはっきりした目的意識・動機づけを持ってこそ行うべきであると思う。

3月~10月 (大1の終わり~大2) あまりに孤独なのはよくないと判断し,3月12日,東京大学YMCA寮に入寮。
 この寮のおかげで,学内でのほとんど唯一の人間関係を築くことができた (ほかに全くなかったわけではないが,あまりにも一時的だった)。ほぼ全員上級生だった上に私はわずか7か月で寮を出ることになったので打ち解けるとまではゆかなかったが,本当によい人たちと知り合うことができて (そして信仰のことなどについて語り合うことができて) ありがたいことだったし,この青年会 (100年以上の歴史がある) の一員になれたということ自体も大切に思っている。
 この7か月間は,寮関係のことに限らず私が最も (日本の) 大学生らしい生活をしていた,比較的明るい時期だったということができると思う。それがかくも短期間で終わったというところには宿命を感じないでもなく,宿命だとすれば,極端に孤独に生きていたことを必ずしも否定的に捉えなくてもよいのかもしれない,などと思わないでもない。

 しかし,大学入学時のところに書いた通り,原則としては,少なくとも学生生活を極端な孤独のうちに送るのはあまりにももったいないことであると今は考えている。

3月27日 (大1の終わり) 受洗 (このときはプロテスタント)。

6月~ (大2) 救済論上の疑問を常々抱いていたところ,ある日東大駒場図書館集密書庫でスヴェーデンボルイ (スウェーデンボルグ) の著作に出会い,非常に共鳴する。これにより,6月5日を最後に早くも教会に行かなくなる。
 5か月半にわたってその状態だったが11月20日からカトリック教会に通うようになり (なお,最初に行ったのは小5のとき行ったのと同じ教会だったはずである),さらに正式な改宗に向けて入門講座に通い始める。

 それからしばらくして,マリア・ワルトルタ,スンダル・シングといったほかの神秘家たちの著作や伝記も熱心に読むようになり,これが何年か続いた。
 なお,教会に5か月半行かなかったと書いたが,厳密にはこの間にスヴェーデンボルイ主義の教会の礼拝に出席したことがあった。驚くほど全く霊的なものが感じられず (本物の教会ではないことの何よりの証拠かもしれない,とだいぶ後で振り返って思った),一度きりでやめた。

10月 (大2) 父が発病したので,実家に戻るため東京大学YMCA寮を去る。
 わずか7か月の在寮だったのに実に心のこもったお別れ会を開いてくださったり,その後もクリスマス恒例行事の合唱対抗戦のために讃美歌の編曲を依頼してくださったり (それに伴い合唱の練習に何度か顔を出すことになった) など,本当に温かい人たちだった。

2006年

1月頃 (大2) 正教会 (お茶の水の東京復活大聖堂,通称ニコライ堂) を2度訪れる (うち一度は日曜の奉神礼)。そこの修道士さんの一人が個人的にたくさんお話ししてくださった。正教についての本もいくらか読んだ。

 長々と話しこむ中で,修道士さんが「ハリストス (キリストのこと) の教えというのは本来,こうやって (大人数を相手にした説教でというより,人と人とが個人的に向き合ってのコミュニケーションという形で) 伝えられてきたものなんだよね」というようなことをおっしゃっていたのが,印象に残っていることの一つである。

4月 (大3) 文学部歴史文化学科西洋史学専修課程に進学。歴史学を選んだのはロマン・ロランの影響が大きい。ここでも友人は一人もできなかった。

 ただし,他学部のゼミナールで一時的な交わりが生じたことはあった。素晴らしい先生のもと出会った素敵な人たちだったので,この交わりが一時的なものに終わったことは少し残念である。なお,そもそも当時の私はおそらく人格に特に問題があったので,まともに人間関係を築けるような状態ではなかったろうとも思われる。

4~7月頃 (大3) 音楽教育への関心が格別強くなる。コダーイの音楽教育に関する文献のほか, 『[季刊] 音楽教育研究』誌のバックナンバーを東京文化会館音楽資料室で読み漁る。この直前の3月,京都で行われた「多文化音楽教育シンポジウム」に参加 (東大時代に行なった数少ない旅行の一つ)。

遅くとも6月 (大3) 教会音楽を勉強したいと思うようになる (ここに至る経緯などはこちら)。そんな中,6月7日に四谷のサンパウロで高校時代の恩師 (教会音楽家でもいらっしゃる方) にバッタリお会いし,そのまま喫茶店に行き,数時間にわたり教会音楽とその勉強の進め方などについてお話を伺う。

6月25日 (大3) 初めて聖グレゴリオの家を訪れ,グレゴリオ聖歌で行われたミサに深い印象を受ける。

9月5日 (大3) オルガンを習い始める。同じところ (なお聖グレゴリオの家ではない) で合唱も始め,また聖書・教会暦 (典礼暦)・聖歌学なども学ぶ。以後4年間,ここが私にとって最重要の学舎・最重要の居場所となる。その後いろいろな学校で勉強したけれども,教会音楽について,さらにはキリスト教文化一般についての私の考え方や知識の核は,間違いなくここで形成されたものである。また,前奏・伴奏を自分で作って会衆を歌わせるという教会オルガニストの仕事の基本を初めて知りかつ実習したのもここでだった。

12月22日 (大3) カトリックに改宗 (麹町聖イグナチオ教会,松本紘一神父司式),霊名「エフレム」。

 改宗前からだが平日・日曜問わず頻繁に四谷に通ったため,3年生・4年生 (1回め) の日々を振り返ると本郷に勝るとも劣らず四谷の印象が強い。

2007年

4月7~8日 (1回めの大4) カトリックの復活徹夜祭に与ったのちそのままニコライ堂に行き,正教会の復活大祭に参列する (今のところ [2024年],正教会のほうはこれが唯一の経験)。

5月15日 (1回めの大4) 父が亡くなる。兄弟姉妹はいないので,これで一人になる。

8月 (1回めの大4) ある日曜 (12日と記憶している) に小説を読んでいてミサに行かなかったことをきっかけに,生活の破綻 (経済的な意味ではなく) が始まる。3か月間教会を離れ,個人的に祈ることもほとんどしなくなり,その後も2011年くらいまで,教会には時々戻るがまた離れてしまうということを繰り返す。それまではものをよく考える人間だったのだがこれをやめてしまう (その表れとして,随想録ノートを書く量が激減する)。この後2回留年する (うち1回はどちらにしろしていただろうと思う。卒業論文をどうしたものか見当がつかずにいたので)。ここから2016年10月の断酒まで,アルコールの摂取量がたいへん多くなる。

2008年

1月 (1回めの大4) この時点 (1度めの留年は確定していた) では,卒業後の進路として大学院進学または神学部への編入を考えていたこと,それも後者のほうにかなり傾いていたことが記録されている。
 ここにも見られるように,神学部で勉強したいという思いは早くからあった。なお,今もそうだがこの時も,聖職者になりたかったわけではない。

8月~ (2回めの大4) 生活の破綻が激しくなる。今のところ,ここからの数か月が私の人生で最悪の時期。

秋 (2回めの大4) 公務員試験の受験を考えるが,予備校の説明会に1回行っただけでやめる。

2008年12月25日 (2回めの大4) 聖グレゴリオの家のクリスマス・ミサ (午前0時) に与り,ハッとするほど聖なる響きを聴く。

2009年

4月 (3回めの大4) 在学 (ただし前期は休学) のまま某所に就職 (今もそうなのかどうか知らないが,少なくとも当時は,昼間の学生であっても卒業学年には就職可能だった)。就職といっても半ば奨学生のような状態で,まことにありがたい話だった。

2010年

1月 (3回めの大4) 卒業論文を提出,テーマはJohann Heermann (1585–1647) のペリコーペ聖歌 (三十年戦争中のシュレージエンの精神状況がそこに読み取れるかを検討する,という方向での研究)。

3月 (3回めの大4) 東京大学文学部歴史文化学科西洋史学専修課程を卒業。
 6年も在学しながら,一応でも「ものにした」といえる水準まで身につけたものは何ひとつなかった (その主な原因は2005年1月のところに書いた通りのことだと思う)。他面,純粋にひとりの人間としての関心をもって読書したり勉強したりすることを最も多く行なったのはこの東大時代であり,肯定的に評価してよいところもあったのかもしれないと思う。そういう中でこそ自分の方向性の主要なところ (特に信仰) が定まったのだと考えるならば,この時代の重要性は計り知れないとさえいえる。ただし読書については,おそらく孤独ゆえの偏り,そしてなんといっても「何を読むべきか」という問いにいつも異様な神経質さをもって囚われてしまっていたことにより,書物に向き合う機会が多かったわりに豊かさにはもうひとつ欠けるものとなってしまったことは残念であるが。
 それから,この6年間にはさまざまな夢や大きな構想を抱いていたということを忘れないようにしたいと思う。実力が足りず継続的な修練もろくにせず夢を語る相手もほとんど持たなかった結果,たしかにどれも空想に終わりはした。しかし,このころよりは地に足の着いた勉強・仕事ができているものの大きなことはほとんど考えなくなってしまっている今当時の随想録などを読み返すと,このころの (外面的には何もできていなかった) 自分から学ぶべきことがあるかもしれない,少なくともこのころの自分をすっかり忘れてしまうのはよくない,とも思うのである。
 とにかく,上記のような日々を生きることができたのは,特に駒場時代に時間がたいへん多くあったこと,また本郷でも文学部のカリキュラムがかなり自由度の高いものだったこと (専攻の単位は半分くらいで,残り半分は何で取得してもよかった) のおかげである (それからもう一つ,大学での空き時間のほとんどを過ごした図書館の蔵書が充実していたことも)。少なくともこれまでの経験では,暇の多さという点でもカリキュラムの自由度の高さという点でもドイツの大学だとこうはゆかず,それゆえ私の場合は最初の学生時代を日本で過ごして本当によかったと思う。

 なお今 (2024年4月,しかしけっこう前から) 考えると,ドイツ語ドイツ文学専修課程のほうが居心地がよく有益でもあったのではないかとか,西洋古典学を専攻しておけばよかったとか思うことがないでもないが (今文学部に入り直すとしたら実際このどちらかを選ぶだろう),それでも専攻を西洋史にしたのはなかなか悪くない選択だったと感じている。

7月 聖グレゴリオの家の教会音楽講習会を受講。橋本周子先生の講義で,グレゴリオ聖歌の重要性を初めて教えられる。

8月 某所を退職。

9月 聖グレゴリオの家教会音楽科本科に入学,本格的に留学準備に入る。

2011年

9月26日 渡独 (日本から出るのはこれが初めてだった)。

10月 HfKM Regensburg (レーゲンスブルク・カトリック教会音楽・音楽教育大学) 教会音楽科Bachelor課程に入学 (入試は直前に受けた)。オルガンとオルガン即興演奏をFranz Josef Stoiber氏に,ピアノをMichael Seewann氏に師事。個人レッスン以外のものも挙げると (私にとって重要な科目のみ),グレゴリオ聖歌とドイツ語典礼歌をRudolf Fischer氏に,音楽書法・音楽理論 (Tonsatz/Musiktheorie) をRichard Beyer氏に師事。音楽書法についてだが,いわば抽象的な和声法・対位法ではなく,16世紀から19世紀まで時代様式別に学んでゆくという形で,これは日本にいるころからやってみたいと思っていたことだった。

12月24日 初めてミサでオルガンを弾く。

2012年

8月 St. Ottilien大修道院 (ベネディクト会) に数日滞在する。ドイツでに限らず,修道院を訪れたのはこれが初めてだった。

 以後もときどき各地の修道院 (これまでのところいつもベネディクト会) を訪れているが,特に聖務日課に行くとふだん忘れている魂の故郷に帰ってきたような気持になる。

8月か9月~その後数年間 (春・夏のみ) この年,畏友Joseph Wasswa (ウガンダ出身でHfKM Regensburgの上級生,年齢は同じ) によるチャリティーコンサートを核とする学校建設プロジェクト "Himbisa Mukama" が始動する。ある日,その日行われる練習のピアノ伴奏を急に頼まれたのが始まりとなって,そのまま数年にわたり練習伴奏者および本番でのキーボーディスト/ピアニストとして参加する (本番に出たのは2013年からだったかもしれない)。
 これだけならばここにわざわざ書かなかったかもしれないが,自分の生き方・進路を考える上で意味のある経験にもなったと思うので記すことにした。どういう意味でそうなのかは,当時恩師に送ったメールにある次の言葉が示している。

 なお現時点で,自分の向き不向きについて,ひとつだけ思うことがあります。それは,トップとかリーダーとかには向かないだろう,ということです。よい参謀にはなれるだろうと自負していますが,将軍には向かないと思います。ウガンダのJosephが教会の聖歌隊+α相手に素晴らしい指導力を発揮しているのを(彼は今,自分で企画したアフリカとヨーロッパの音楽のコンサートの準備をしています),伴奏しながら見ていて思いました。

 教会音楽家というのは通常は指揮もする職業なのだが,このとき,自分は指揮者になる人間ではないという思いを強くしたのである。同時に,伴奏者という役割・位置 (自ら引っ張っていったり人を巻き込んだりしてゆくのではなく,持っている技術を生かして与えられた仕事をしっかりとこなすという) は心地よく感じている自分をはっきり認識することもできた。

2013年

7~8月 エッセンで行われていたグレゴリオ聖歌夏期講習に参加する (最初で最後の参加だったはず)。

2014年

1月 エッセン (Essen) で行われているグレゴリオ聖歌冬期講習 (実技ではなく学問的研究のためのもの。講師はStefan Klöckner,Franco Ackermansの両氏) を初めて受講。本来は3年で修了するものなのだが (古写本学・旋法論・セミオロジーの3科が各年に1つずつ扱われる),宿題を提出しなかったり (最初の年はそれ以前に授業にほとんどついてゆけなかった) 都合がつかず受講できない年があったりで,10年以上にわたって在籍することとなる (講習に「在籍」という語は違和感があると思うが,フォルクヴァング芸術大学に学籍を置く形となっているのでこう書いた)。
 ともかく,ここにも見られるようにグレゴリオ聖歌は学校の内外で比較的力を入れて勉強してきた。

9月 ミサ奏楽を毎週するようになる。

2015年

2月初め 卒業論文 (Bachelor-Arbeit) を提出,テーマは三十年戦争後の再建の仕事としてのJohann Crüger (1598–1662) の聖歌集。このテーマは,東大で2回めの4年生のとき (2008年度) に研究し始めたが挫折し,しかしいつか改めて取り組みたいと思っていたものであり,いわば一つ夢をかなえたことになる。

7月 HfKM Regensburg教会音楽科Bachelor課程を修了。成績はオルガン・オルガン即興・ピアノはよかったのに対し合唱指揮・声楽は普通の少し下くらいだった (なお合唱指揮のせいで教会音楽科Master課程の入試に不合格となった)。

 試験で演奏した曲は次の通り。オルガンとピアノでだいぶ無理をした (特にBeethoven,結局十分仕上がらなかった)。なお,ここに挙げた曲 (声楽曲含む) はBruhns以外 (さらに厳選するならBWV 526も除外する) 実によい曲なので是非お聴きいただきたい。
【オルガン】
● N. Bruhns (偽作?): 前奏曲とフーガ ト短調 (課題曲)
● J. S. Bach: トリオ・ソナタ第2番 ハ短調 BWV 526
● M. Reger: フーガ イ短調 op. 80,12
● D. Buxtehude: 前奏曲 嬰ヘ短調 BuxWV 146
● M. Duruflé: アランの名による前奏曲とフーガ op. 7
【ピアノ】
● J. S. Bach: 平均律クラヴィーア曲集第2巻よりフーガ第4番 嬰ハ短調 BWV 873,2
● L. v. Beethoven: ピアノ・ソナタ第28番 イ長調 op. 101より終楽章
● A. Berg: ピアノ・ソナタ op. 1
【合唱指揮】
● I. Pizzetti: レクイエムより第1楽章 (Requiem aeternam)
● E. Whitacre (たぶん) の何か (課題曲)
【声楽】
● G. Fauré: 9月の森で (Dans la forêt de septembre)
● あと何か2曲くらい (忘れた。一つはたしかH. Schütz)

8月~9月 ウィーンに1か月滞在,ラテン語集中講座 (4週間でLatinum合格を目指すもの) を受講。最高点 (1) で修了したがLatinum自体は受験せず (とはいえこのときの修了証書は,後にWWU Münsterの神学部に入ったときにラテン語能力証明として認めてもらうことができた)。

 ここには,当初は8月末に某オルガン・コンクールを受ける予定だった (課題曲がちょうど私がよく勉強してきたものばかりだったため先生から勧められた) のだがそれに向けて8月いっぱい練習することを考えたときはっきり「いやだ!」と思い,断然ラテン語の特訓に出かけるほうを選んだ,という経緯があった。音楽一筋にはなれない私の傾向がよく表れた一幕だったと思う。
 ウィーン滞在中はオルガンもピアノも全く弾かなかったが,5歳でピアノを始めて以来,これほど長いこと鍵盤に触れなかったのは初めてのことだった。しかし楽器が恋しくなることは一切なく,逆に,帰ってからも楽器の練習というものに再び意義を見出すまで時間がかかった。

9月 ウィーンから帰って2日後,スイス・ルガーノで行われた第10回AISCGre (国際グレゴリオ聖歌学会) 国際大会に急に思い立って参加,講演を聴くうちに神学への志が一気に高まり,急に神学部入学に向けて動き出す。

 なおこのころオルガン即興の非常勤講師の話が来ていたのだが,立ち消えとなった。この神学部入学の件と関係があったのだろうと思っている (音大と同時並行では学業だけで大変なことになるのは目に見えており,それが考慮されたのだろうということ)。

9月 神学部入学のためDSH (大学入学のためのドイツ語試験) を受験,DSH-2合格。これは後にほかのいろいろな場面でも役に立つことになる。

10月 HfKM Regensburg音楽教育科オルガン専攻と「音楽理論・教会音楽作曲」科 (いずれもMaster課程) とに入学し,同時にUniversität Regensburg (レーゲンスブルク大学) の神学部 (5年制のMagister課程) にも入学する (さらに以上いずれとも関係なく,グレゴリオ聖歌のゼミナールにも参加)。半年~1年過ごすうちに,音楽理論に集中することを決める。音楽書法・音楽理論を引き続き (ただし今度は個人レッスン) Richard Beyer氏に,オルガンをStefan Baier氏に,ピアノを引き続きMichael Seewann氏に師事 (オルガンは半年間のみ)。

2016年

1月 音楽書法・音楽理論 (Tonsatz/Musiktheorie) の授業の実習 (Bachelor課程の学生数人~10人程度を相手に90分の授業をするもの) を初めて行う。合唱指揮や口頭発表でのそれまでの経験から,私は集団の前で話すことには向いていないと思っていたのだが,意外なことに実にうまくゆき,気持も終始落ち着いており (私は緊張するとドイツ語がたどたどしくなるのだが,このときは調子がよかった),自分の新たな一面を発見する。

7月? エッセンのグレゴリオ聖歌冬期講習 (2014年1月のところで言及したもの) の旋法論 (Modologie) の部を修了。十分に消化できたとは言い難い (成績もよくなかった) ので,許されればもう一度聴講したいと思っている (→2023年1月に実現した)。

10月6日 断酒 (実際には5日から飲んでいない)。ある漫画を読み, 「アルコール摂取には何の益もない」ことを納得した結果である。

2017年

4月初め 修士論文 (Master-Arbeit) を提出,テーマはAnton Heiller (1923–1979) のオルガン作品。卒業論文 (2つ書いたが,いずれも) を提出したときにはすぐにも次の論文を書きたいような気分だったのに対し,このときは「もういいや」と思ってしまう。

 これは,テーマの選定がまずかった (苦手分野であり,特に好きなわけでもないものを選んでしまった) ことにより,おそらく通常よりはるかに苦労し疲れてしまったというのもあったろうと考えている。
 そしてそういうテーマを選んだことによるもう一つの悲劇は,かけた労力のわりには得るものがあまりにも少なかった (少なくともそう感じている) ということである。成績はよかったし,未出版の手稿譜を読んでゆくのはそれなりに面白かったし,Heillerの御子息とやりとりできたのも嬉しかったけれども,やはり「自分本来の強みや関心対象の体系」という木にうまく接ぎ木されず樹液の通わない枝のようになってしまったと思う。

4月 HfKM Regensburgの音楽書法・音楽理論 (Tonsatz/Musiktheorie)・聴音の非常勤講師にならないかと打診されるが,レーゲンスブルクでの生活に本当に飽きていたこと,音楽理論科での日々の中で「私は教会音楽のためにドイツに来たのだ」という内心の声を何度となく聞いていたこと,自分にとって魅力的な条件の教会音楽家募集広告を見ていたこと (これが結局今の職業となる),上記の通り修士論文を書き終えたとき「(この道は) もういいや」と思ってしまっていたこと,そして音楽理論の授業をすることを考えると「またこれを繰り返すのか (BachelorとMasterで1回ずつ,つまりもう2回やった話なのだ)」と感じてしまったことにより,いったん断る。

 あと,本当に聴音ができない人たちをそれまでに見たり教えたりしてきており,たくさん個人授業しても難しいものを週45分の集団授業でどうにかできるとは到底思えなかった,というのもあった。

 しかしさすがに大きなチャンスなのでもう一度検討することにし,その旨先方に伝えたものの,そうこうするうちに非常勤講師の空きそのものがなくなり (それまで務めていた人が継続することに決め),この話は終わった。
 最初から承諾していれば私に回ってきていたと後で聞いたため,本当にあれでよかったのだろうかと後々まで考えることになる。

9月 オルガン演奏を主とする教会音楽家 (契約上の労働時間は週24時間) としてドイツNRW州内の某小教区に就職。
 以下,学生になったり非常勤講師の募集に応じたりということがたくさん出てくるが,いずれも辞職してそうしたわけではなく,この仕事は現在に至るまで続けている。小さな仕事だが,内容・量とも自分に合っているし都合もよいと感じている。

10月 HfKM Regensburg「音楽理論・教会音楽作曲」科Master課程を "mit Auszeichnung" で修了 (書類上は7月修了となっているが,最後の1科目のみ10月に試験を受けた)。

 7月に受けたピアノの試験の曲目は次の通り。
● J. S. Bach: 平均律クラヴィーア曲集第2巻より前奏曲とフーガ 変イ長調 BWV 886
● D. Shostakovich:『10のアフォリズム』op. 13より第10曲「子守歌」(課題曲)
● L. v. Beethoven: ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 op. 110より終楽章
● D. Shostakovich:『10のアフォリズム』op. 13より第3曲「夜想曲」(課題曲)
● R. Wagner / F. Liszt: イゾルデの愛の死 (楽劇『トリスタンとイゾルデ』の最終場面)

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↑ 修了証書授与式 (11月22日) の翌朝,帰りの電車に乗る直前に撮ったドナウ川 (右に小さく写っている双塔はレーゲンスブルク大聖堂)。6年 (特に最初の4年) の間,この川のほとりを,ありとあらゆる感情を抱いて,数限りなく散歩した。

10月 UdK Berlin (ベルリン芸術大学) オルガン即興演奏科Bachelor課程に入学,Wolfgang Seifen氏に師事。週1回,オルガン即興レッスンのみの通学。自分の即興の上達だけでなく,即興演奏の教育・訓練法,さらに音楽教育全般のありかたについて考えることも目的だった (詳しくはこちら)。

2018年

6月 HfM Detmold (デトモルト音楽大学) の音楽理論・聴音の非常勤講師の募集に応じるも,書類審査で落とされる。

6月 UdK Berlinを中途退学 (書類上はたぶん9月30日付)。

9~10月 レーゲンスブルク時代の恩師に強く促され,HfMT Köln (ケルン音楽・舞踊大学) の音楽理論・聴音の非常勤講師の募集に応じる。実は全く気が進まなかったのだが,数年後数十年後に「もしもあのとき挑戦していたら?」と考えることになる可能性をつぶしておくのは悪くないことだと考えたのである。恩師が応募を強く促してきたのは,私のことを知っている教授が1人いたので有利だと考えられたためであり,事実今度は本試験 (模擬授業と面接) に進むことができた。気が進まなかったとはいえ,自分にとって最もやりやすいテーマを選び,できる限りよく準備し,つまりあくまで採用されに行く姿勢で試験に臨んだ。
 結果は不採用で,これで (有利な条件で十分に力を出して戦っても敗れたということで)「この道で自分の力と運を試す義務は果たした」と考えることができたので,やはり受験してよかったと思う。不採用通知の日付が自分の誕生日だったことにも意味を感じた。

11月 20年後のドイツでは教会音楽家のポストはだいぶ減り,Master持ちでないと仕事を続けるのは難しいだろう,と友人 (彼も教会音楽家で,そういう考えから仕事をしながらMaster課程に通っていた) が話すのを聞き,将来を考えて備える (教会音楽のMasterを取りに行く) べきかと少し考えるが,かえって「いつこの世を去ってもよいように,心残りをなくしてゆこう」という方向に考えが定まる。この流れで,noteにて「グレゴリオ聖歌逐語訳シリーズ」を開始。

2019年

6月 ドイツ・バウツェン (シュモホティツSchmochtitz地区) で行われた第11回AISCGre (国際グレゴリオ聖歌学会) 国際大会に参加。何人かの方たち (もともと知り合いだった方たち) とお話しする中で,学問をする (学位を取る,神学を学ぶなど) よう励まされる。もともと私自身の中にもそういう思いがあり,背中を押してもらいたいという気持をどこかに持っている中でのことだった。しばらくして実際に神学部への入学手続を進めるが,あと一歩で完了というところでこのときはやめる。

2020年

1月~7月 博士号取得を目指すことを考え,そのためには音楽学でゆくのが近道 (※) なのでFolkwang Universität der Künste (フォルクヴァング芸術大学 [エッセン]) の音楽学の修士課程に出願までするが,研究したいテーマ (グレゴリオ聖歌関係だが,ほとんど音楽以外の要素) が音楽学というより神学寄りのもので,音楽学を専攻するのは打算でしかないのではないか (それに,神学の素養がない状態で研究するのはあまりに困難なのではないか) と考え,結局出願を取り消す。

※ もっと近道なのは音楽理論科の博士課程に入ることだが,論文を書くならグレゴリオ聖歌関係でゆきたかったためそれは考えなかった。

7月 エッセンのグレゴリオ聖歌冬期講習 (2014年1月のところで言及したもの) のセミオロジーの部を好成績 (1,05) で修了。

10月末 早春以来のウィルス騒ぎでミサもミサ参列者も減ったため,教会音楽家の職を失う時期が早まったかと考え,サン・フレア アカデミーの翻訳実務検定 "TQE" を受検 (ドイツ語→日本語)。1点差で不合格となった (12月) ことに意味を感じ, 「当分,金のことはあまり気にせず自分本来の活動に集中しよう」と考える。

2021年

4月 WWU (ミュンスター大学) カトリック神学部 (5年制のMagister課程) に入学。Uni Regensburgでは1単位も取得していなかったので,事実上完全に1年生からのスタート。在学可能年数についての定めがない (いたければいつまででもいられる) ので,普通の学生よりはるかに遅いペースで勉強を進めるつもりである。

8~10月 WWUにて7週間の聖書ヘブライ語集中講座を受講し,Hebraicum (古典語型。聖書ヘブライ語を読むための基本的な能力を証明するための試験) に "sehr gut" で合格。

2022年

2~7月 WWUにて春休みの集中講座 (6週間) とそれに続く学期の授業 (週1回90分) で新約聖書ギリシャ語を学び,1,0 (満点) の成績で修了。上のヘブライ語のときと異なり,今回受けたのは神学部内でだけ通用する試験 (新約聖書ギリシャ語に特化,古典ギリシャ語よりずっと易しいらしい) であり,Graecumではない。

2023年

2月 エッセンのグレゴリオ聖歌冬期講習 (2014年1月のところで言及したもの) の古写本学 (Paläographie) の部を好成績 (1,3) で修了。

9月 ポーランド・クラクフ (ティニエツ地区) のベネディクト会修道院で行われた第12回AISCGre (国際グレゴリオ聖歌学会) 国際大会に参加。

10月 初めて一時帰国 (12年1か月ぶりに日本の地を踏んだ)。翌月まで3週間余り滞在してドイツに戻る。

2024年

3月 契約上の労働時間が週24時間から28時間に増える。

 なお,週24時間だったときからだが,実際に働いている時間がどれくらいなのかは自分でもよく分かっていない。いちいち記録していないというだけでなく,その時その時で仕事量がたいへん大きく変わるからでもあり,同じ課題に対しても自分次第でいくらでも時間をかけたりかけなかったりしうるからでもある。

 

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