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決意

名古屋市営地下鉄、東山線に乗って東に向かうと、藤が丘駅という終点に辿りつく。

この駅の周辺は、毎年、それは見事な桜が咲き誇る。タイトルの写真は、私が28日の朝撮影したものである。範囲もかなり広く、この道は何百メートルもずっと桜並木が続く、実に楽しいパレードなのである。

当たり前のことだが、満開の桜というのは、儚い。1年365日の中で、マジでちょこっとだけしか桃色の美しい花弁はなびらは見られない。

それでも、桜の木はいつだって力強く生きている。雨が降っても、台風が襲っても、極寒の冬が訪れても。必死に根を張り、幹に栄養を蓄え、自らの命を繋いでいる。文字通り「根強く」、自らの “せい” という挑戦を全うするその姿は、まさしく生命力権化ごんげと名づけるに相応しい。

実際、桜の太くて丈夫な幹の中は、あの優しいピンクの源となる、鮮やかな色素で満ち満ちているそう。それで、日本の染め物職人たちは、桜の表面の茶色い皮を採取して原料とし、自然で、素朴で、人間の科学では絶対に作り出せない桃色を表現しているんだとか。
植物って、見かけは1ミリも動かないのに、内に秘めたエネルギーは凄まじく、それなのに、その命がけの努力の過程を外の者に知られることはないのだ。自分の頑張りを、周りに全く自慢しないのだ。まるで、北極海の氷山がほんの一部分だけ海上に出ていて、残りの大部分は水中に沈んで見えないような状態、といった具合に。

平日の午前、自動車がせわしく行き交うそばの歩道をゆっくり歩きながら、そんなことを考えていた。その時、ふと、ある考えが浮かんだ。

僕、この桜の木のような人間になりたい。

仮に、1年のうちで10日間しか咲けない、すなわち晴れ舞台に出られないとすると、365日中たった2.7%の期間しか主役にはなれない。ほとんどの時間は準備。それでも、いざ満開になると、見た人は誰もが “確実に” 幸せになる。楽しくなる。感動する。生きてるっていいな、と思える。

儚いからこその良さがある。
量産とか、効率とか、スピード感とか、…そういった評価基準だけが、世の中の価値観の全てとして収束するはずがないのだ。


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2018年5月。僕が20歳のとき、人生で初めて精神科にかかった。
自制心だけでは解決できない寝坊癖に、毎日頭を抱えていた。「もしかしたら、“睡眠相後退症候群すいみんそうこうたいしょうこうぐん” ってやつに該当するんじゃない…?」という母親の提案もあって、医療の力に頼りたくなったのだ。
毎晩決まった時刻に眠剤(ルネスタ, デジレル)を服用するという試みで、翌日の昼過ぎまで口の中に独特の苦味が残った。結果、効きすぎて睡眠時間が長くなったので、一回やめた。
状況は次第に厄介なものとなり、翌年2月には軽めの抗うつ剤(ジプレキサ)を処方されるまでに深刻化。朝起きられるとか夜寝られるとかに関わらず、外出不精ぶしょうがどんどん加速し、大切な期末試験に行く気力すら出なかった。大学の先生にも心配され、校内常任の心理士さんのカウンセリングを受けた。


もともとは、自宅浪人のために1年間、室内に閉じこもって楽譜を書く生活をしていたため、出かけたい欲求が膨らんでいた。だから、2017年春に晴れて大学生になったばかりの当時は、それまでと比べ全てが対照的で、素敵なものに感じた。新しい環境の中で、毎日の外出がとても楽しかった。何も予定がなくても、散歩がてらホームセンターに寄って、食器や文房具を眺めている ── かつての僕は、そんな人だった。
成績も順調で、1年の前期は “しゅう” の科目が6つあった。あの時は誰よりも真面目だった自信があるし、他の専攻や上の学年の人たちにも名前を知られ、同期からは「あの人の近くにいれば、自ずと友達が増える」と言わんばかりに頼られることが多かった。
自分1人の意志でクラシックのコンサートに行くことも覚えた。ネットでチケットを買って、電車で見知らぬ駅に降り立った。終演後は、近くのカフェに入って、演奏会パンフレットの寄稿に目を通しながら曲目を復習していた。


── 希望が詰まったスタートから2年。独り暮らしとの絶望的な相性の悪さ、慣れない飲食系アルバイトでの深刻な気苦労。そして、期限までになかなか作曲を完了できない自分の悪い噂も、学内でたちまち広がった。
もともと学生の定員が非常に少ない芸術大学の中で「集合時間を守ることすらできない無能な奴」としての位置付けが強くなり、周囲からの信用が時間と共に薄くなっていくのを、嫌というほど肌で感じた。

2019年5月。世間では新時代『令和』の発表で盛り上がる中、僕はついに2週間もの間ずっと大学に行けない、という事態になってしまった。心配して家を訪ねてくれた大親友(以下「Sくん」)のすすめで恐る恐る母親に電話し、心の異常を1時間半に渡って白状した。あの時の母親の驚いた声を忘れることはない。
この期間に師事していた海外の客員教授のレッスンにもなかなか行けず、初対面ながらご心配をおかけした。本当に、なんとお詫びすれば良いのかも分からなかった。

久々に通学できた日、廊下で、また別の仲良い友達と会った。「とりあえず、学食行こうや。話きくで!」という誘いに対し、『ごめん、ちょっと今は他人が怖くて、それはできない。』と言って、断ってしまった。友達は、僕の変貌ぶりに対して本当にびっくりしていたし、僕だって、こんなにも後向きな台詞を吐いてしまうまでに社交性を失っていたのか、と、自分の異常を改めて実感するとともに、ひどく幻滅した。

自分が受かる見込みなんてないと思っていた、憧れの公立志望校だったのに。一浪の末にやっと合格できたのに。まさかこんなにも大きな挫折が待っているとは、誰が予想できたであろうか。

同年7月に入ってから2ヶ月ほど、思いきって実家に戻った。その時に処方された抗うつ剤(アモキサン)はよく効いたので、9月の終わりまで含めた3ヶ月間で、新曲2つ、編曲2つ、採譜1つを仕上げるという、自分の中では前例を見ないスピードで楽譜を書いた。
実際、10月に後期が始まってすぐの期間、大学院にも進学したいという当時の自分の意志を、周りの友達に胸を張って、次々と宣言していたし。

しかしながら、12月に入ってあっけなく再発。薬は次第に効き目を失い、2020年2月には、さらに強めの抗うつ剤(アナフラニール)に変わった。まぁ、察しの通り、これもすぐに効かなくなったけどね。
そして、この頃から次第に世間がコロナ禍と化したのも相まって、Twitterでの見知らぬ人たちとの交流が増えた。見方を変えればただの現実逃避である。

5月の途中から始まった前期、ポータルサイトを介したオンライン課題提出が性に合わず、タスクを迅速にこなすことが苦手な自分は、再び挫折を味わってしまった。「外出しなくてもよい」という学習環境であっても、結局できねぇのかよ ── 大好きだったはずのゼミも、この時には出席意欲をすっかり失っており、門下のグループLINEの通知を見るたび、暗い気持ちになった。

同年9月末より1回目の休学をして、翌月再び実家に滞在した。


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その時の親との同居が、なぜかとってもストレスだった。状況としては絶対に実家で療養すべきで、客観的にも「うつっぽい人が単独で生活しているのはおかしい」と思われることは理解できていた、…はずなんだが。

それまで22年間生きてきて、親の存在を鬱陶しいと感じたことなんて微塵もなかった。うちは仲の良い家族なんだ、と堂々と他言できるくらいだったのに。


特に、母親との関係については、今でもずっと悩み続けている。
なぜなら、僕のことを心配するあまり、どこまでも神経質で、どこまでも過干渉だからだ。『息子を復学から遠ざける要素を1つ残らず排除したい…!』という考えから、まず、iPhoneとパソコンはリビングだけでしか使用を許されず、それも長時間になると取り上げられた。もちろん、寝る前のベッドへの持ち込みもできず。「誰かのツイートを見る時間と余裕があるのなら、本を読んでほしい」と、定期的に忠告を受けた。母親は、インドア生活の中で染みついてしまった僕のネット依存症をなくすのに必死で、ネット上で知り合った人のLINE連絡先は全削除、Twitterで知り合った人とのZoomも許してもらえず。僕がSNSでの交流に対して積極的なスタンスであることが、家族の関係を悪くしている最大の理由だと感じたようだ。かなり疑い深くて慎重な性格もあり、顔の見えない匿名相手のことは総じて敵に見えるらしい。「新しいつながりを増やすのは一旦やめて、今の時点で知り合えている現実の友達とだけ関わってほしい」と、繰り返し、繰り返しお願いされた。大学関係および、高校までの対面を伴うつながり以外は一切禁止、というレベルでの徹底した制限であった。

というのも、母親は僕の小学校入学から高校卒業するまでの12年間、息子のクラスメイトの名前を、クラス替えの度に全員バッチリと記憶していた。大学に入ってからも、同じ学部の同期男子20人を、楽器名もセットで完璧に把握していた。
昔から、『知っておきたい』という欲求が、誰よりも、本当に誰よりも強い人だった。
僕のほうも、「自分に関する全てのプライベート情報は母親に報告する義務があるんだ」という考え方が家庭環境の中で備わり、振り返ると、夕食の際の会話は毎日長時間だった。母親は「気遣いの1つとして、本音を隠す」という思考が存在しないらしく、自分の思ったことは全て、それもしばしば感情的になりながら口に出し、相手に対しても本当に心で思っていることを聞き出すまでは気が済まない、どうしても言わないのならSNSで追跡する、という非常に厄介な性分であった。あくまでも、母親にとってのそれは “正しいこと” で、生涯曲がることのない自分なりの正義として貫こうと考えているようだ。逆に、お互い本音を隠し持っている中での関係は、「表面上の建前だけを武装した、形だけの薄っぺらいものなんだ」という価値観でガッチリと確定しているらしい。


過剰な心配や保護は、
時として「不自由」を相手にもたらす。

放任には放任のメリットがある。


そんな、「知らない」「分からない」という状態に対しての耐性や受容力や我慢強さが全くない母親にとって、僕が、実際に会ったこともない人と声同士で交流しているという状況は理解できないものだった。世代の違いによる齟齬そごもあると思うが、母親の中で認識していないコミュニティに息子が属していることが、きっと許せなかったのだろう。親だって1人の人間だし、人間はいつでも不完全。心の器の広さには、誰だって限界がある。「家族なら、きっと全てを受け入れてくれる」という考えで、あまり期待しすぎてはいけないと思った。ある意味、アイデンティティ自己同一性を確立するための良い機会なのだ、くらいに考えるべきなのかも。

このようにして、僕は人生22年目にしてやっと、「自分と親は血縁関係にあるが、結局は別個の人間で、それぞれの価値観の中で生きている」という、至極当たり前の客観的事実を初めて学ぶことができたのである。19年間同居してきた中で、これといった反抗期もなく、「親と子は同じ考え方であるのが普通で、社会人として経済的に自立するまでの扶養期間は、その絶対的な主従関係を維持しなければならない」と、何の疑いもなく思い込んでいた。実家を離れ、全国からやってきた朋友といろんな価値観を照らし合わせていくうちに、僕の中で少しずつマクロ巨視的メタ高次認知が進んだ。

実家のソファーでじっとしていると、「お願いだから、なんか動いて。何でもいいから活動して。ピアノでも弾きなさい」といった要領の指示を出された。普通の人間の生活に戻れるように、ある程度の強制的なリハビリは確かに必要だとは思う。けれども、やはり現状の気力と母親の理想との差はとても大きかった。
リビングで楽譜を書いていても、それが大学の課題とは関係ない遊びの作曲だと分かると、嫌な顔をされた。『全ては復学のため』。そこに結びつかないと思われる行動に対し、全部がムダな時間に見えたらしい。
結果として、実家での滞在期間は、復学に向けた準備というより、短気な母親の機嫌を損ねないように毎日毎日気を遣うことで精一杯だった。

1人ではできない、規則正しい睡眠と、食事や入浴の習慣化という面においては勿論メリットと言えるのだが、肝心の精神的な疲労回復に関しては断じて逆効果でしかなかったのである。
そのことを、愛知に戻ったあとに電話で、母親に正直に伝えた。
「その 早起き・着替え・1日3食・お風呂・ネット離れ っていう健康的な生活ができるっていうのが目的の帰省だったんだから、そこが十分達成できたのは良かったじゃないの。普段は独りで何の規則にも縛られない、ぐうたら好き放題な生活で慣れているんだから、家族と同居っていう対照的な暮らしの中で、ある程度のストレスを伴うのは当然でしょ」
という一言が返ってきた。

さすがに呆れた
この人は、形としての対策しか気にしない。目に見える結果や数字しか認識しない。僕が思っていたよりも、想像力が貧しいのかもしれない。
もう、全くアテにできなくなった。


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2020年11月、地元で通院した精神科にて、医師から言われた。
『あなたの場合、通常のうつ状態ではなく、“無気力” という捉え方が適しているかもしれません。これは、薬物投与にとって寛解かんかいできるものではないため、引き続き健康的な食事・睡眠・運動習慣といった日常的な生活を整えることによって、長期的にじっくり様子を見るのが良いです。』
…これを聞いて、僕としてはやはり、治療法が極めて抽象的である点に対しては残念に思った。それでも、これまでに何度も味わった「薬が効かない」という体験から、すっかり薬剤に対して信用できなくなっていた。そもそも別種の疾患である可能性を告げられたことで、少しほっとした部分もあった。

元の状態まで『治す』のは難しくても、『自分の性質とうまく付き合っていく』方法は見つかるかもしれないな、と考え出したのは、この頃からである。完治への諦めではない。何か少しでも、ピンチをチャンスに変えたいと思った、ただそれだけのこと。

また、この期間、同学年の美術学部の友達に、「卒業制作で短いアニメを作るから、BGMを提供してほしい」とお願いされ、何回かZoomで会議しながら2曲を納品した。ムービーの再生時間を計算して小節数やテンポを調整していくという経験は初めてだったが、依頼者はすごく明るい人だったので、実家の中で大学生気分を少しだけ補充できた。楽しかったし、大切な時間だった。
ちなみにその後、完成品を公式のコンペティションに応募したらしい。全国の最終選考にノミネートされたと聞いた時は驚いた。

翌年3月の途中、愛知県に住む知り合いと一緒に、金山駅のストリートピアノを演奏してみた。ピアノの技術は全く拙いものだが、作曲活動を続けていく中で身につけた音楽理論の知識(和声わせい対位法たいいほうなど)を活用しながら、僕なりに集中した。たった2分しか弾かなかったけれど、近くで聴いていた2名の方が「とっても感動したので、ぜひ曲名を教えてください!」と、声をかけてくださった。いつもいつも、誰かの世話になってばかりだったけれど、今だけは周りの人に対して、少しだけ “貢献する側” になれた気がして、なんだか使命感に燃えた。
音楽は、言葉が通じなくても、目が不自由な方でも、みんなが楽しめる。聴くことで、笑うことができる。生きる意味を見出すことができる。赤の他人と新しく出会ってつながる機会をもたらしてくれる。
こんな素敵な “魔法” 、やっぱり他にはないんだよ…!


2021年4月に一旦復学し、前期の3週目からは、必修の水曜日の授業に備えて、毎週火曜日の夜から、内部進学したSくんが泊まってくれることになった。
ここまで無価値で、深くちてしまった僕という人間に対し、それでも友であり続けてくれる、純粋な善意だけで寄り添ってくれる大切な味方の存在を改めて実感できたことが、本当に嬉しくて、ありがたくて、幸せを噛みしめることができた。

周りの人に迷惑をかけてしまうこと、助けを借りること。
それは、醜くて恥ずかしいことだと思っていた。それだけに、世の中の標準から逸れている僕の生活事情に耳を傾け、その人なりに全力で理解を示し、過去の1つ1つの重い失敗を肯定してくれる大学の仲間たちが、半年間の休学中に途絶えることなく残ってくれていたんだ、という、この上なく心強い事実。
かなり久々に、生きた心地がした。

(書きながら、涙が出てきたよ…)

「同期が卒業しちゃったのなら、他の学年の人たちと仲良くなろう」と思って、外部進学でやって来た人たちに話しかけたり、後輩を家に誘って勉強会をやってみたりした。


…しかし、それもうまくはいかず、せっかくキャンパスにたどり着いても引き返してしまうことが数回。僕にとって、単純に外出するということに加え、その「長時間にわたって自宅から出ている」状態を独りでキープすることも、同じくらい難しいと感じるからである。
作曲の課題も思うように進まず、時間だけが疾風のごとく過ぎていった。

また、4月の終わり頃から少しずつ、LINEの返信がひどく苦手になった。要因があるとすれば…、
・現実から逃げたい気持ちが大きかったこと。
・そもそもの「誰か特定の1人に宛てて文字を書く」のに必要な気力が出なかったこと。
・他人と関わることに対して消極的になり、「さみしい」という感情が正常に持てなくなったこと。
誰かと約束しても、結局僕が時間を守れなくて迷惑をかけるので、もう何も予定を作りたくなくなった。空白だらけのスケジュール帳。朝起きる理由がなくなって、さらに生活の乱れが進行するという負のスパイラル。どんなに大事な用事でも、どんなに楽しみなイベントでも、「家の中にいたい」という欲求を上回ることは到底できなかった。
アプリのアイコンに表示される通知の数字がどんどん増えていって、気持ちの限界を感じてしまったため、11月の途中でLINEのアカウント自体を1回リセットした。

2021年9月。自分はもしかしたら発達障害のような、先天性の何かによって、二次障害として心の不健康につながっているのかもしれない、という予想から、また別の精神科にかかった。予備調査として『発達障害の特性別評価法(MSPAエムスパ)』の本人記入分を提出し、心理士さんの問診を受けた。結果は「コミュニケーション」「共感性」「こだわり」の3項目が3.5ポイントでやや要配慮とのことであったが、他の11項目とも併せて概ね臨界点に収まっていたため正常範囲とされ、その後の通院では心理士さんのカウンセリングを2, 3回受けていた。…まぁ、それも10月末を最後に、病院に行くモチベーションが尽きてしまったのだが。そして、郵送によって、せっかく母親記入分を入手できているのに、まだ提出できていない

大学のほうは、後期から再び休学した。単位取得状況や在籍可能年数の関係で、休学しなければ自動的に卒業不可になるという、…背水の陣。

ただ、ちょっと嬉しいことがあって、内部進学した数名の同期が「編曲の仕方をコーチしてほしい」「楽譜の分析で分からないところを教えてほしい」と言って、家を訪ねてくれた。マトモに通学できず、半分失踪しているような自分を、それでも頼ってくれたこと。未熟ながら、僕の音楽に関する知識や技量に対して一目置いてくれたこと。
引きこもる生活の中で『自分は何もできないんだ』と思い続けていた毎日。僕のような御粗末極まりない人を、必要としてくれる仲間がいる。その感覚は、自分という人間を、そして今の落ちこぼれ底辺人生を、ちょっぴり肯定してくれる気がした。なかなか外出はできなくても、せめて『たった1人で生きてはダメなんだ』という気持ちは維持しなければいけない、と再認識した。

結局、年末年始にも帰省する気にはなれず、1人でクリスマスと正月を過ごした。23歳にして初めてのことだった。母親と再び和楽わらくできる日は、もう少し後になりそうである。

そして、2022年2月、休学をさらにもう1年延長してしまった。その際に大学に提出した『理由書』には、このように綴った。

 昨年度後期の分も合わせて1年間の休学期間をいただきましたが、結局、任意の時間に自分だけの力で外出できるまでに回復することができませんでした。残された在学可能期間のことを考えると、卒業のための必修単位はもう1回も落とせない状況ですが、現在の状態で4月から再び授業に出席することは到底難しいと判断いたしました。退学も検討しましたが、それを決意できるだけの正当な、後悔の余地がない、自分で心から納得できるだけの理由が全く見つからなかったんです。
 どうか、もう1年だけ時間をください。消去法と言われればそれまでですが、しっかりと考えた上での結論です。決断がつらくて、本当につらくて、食事を摂れない日もありましたが、とりあえず今回はこれでいきます。
 最後になりましたが、この書類の提出期限を過ぎてしまったことをお詫び申し上げます。

必修の単位をかなり積み残しているので、あと2年間、前期と後期の2セットで通わなければならない。まだまだ先は長いな…。

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さて、ここまでを振り返り、改めて「なぜ自分は心が不安定になったのか」を、もう一度じっくり考える。

そうするとね、結局、次の4点に収束するんじゃないかと思った。

Ⅰ. 自分が周りの人たちからどのように思われているのか、を過度に気にしていた(世間体優先+自己犠牲)
Ⅱ. ありのままの「自分らしさ」を受け入れられなかった
Ⅲ. 自己肯定感と主体性が、とても希薄であった
Ⅳ. 自分と他人の「長所を見つける」力が弱かった

殊に、に関して、
個人的な話になるが、2021年2月はじめ、ちょっとした失恋を経験した。その時もやはり、自分が相手に対して本当に思っていることをうまく打ち明けられなかった、というのが大きな原因だったのだ。

この失敗がきっかけで、僕は人付き合いについて、本当に本当に深く考えるようになった。それも極端で、直感を淘汰し、かなり理屈っぽくなってしまった。
建前と本音の乖離かいり』は、いつでも人間関係トラブルの真髄だと思う。何かの組織の一員として、波風立てないように振る舞おうとするあまり、ついつい八方美人の仮面を被ってしまう。誰からも嫌われたくないと、心の底から思ってしまう。
しかし、案外、人というものは、適度に雑味のある本音を出したほうが人間らしく、“この人は誠実なんだ” という好印象になり、結果として信頼されるのだ。むしろ、“あの人はいつもニコニコしているけれど、本当のところは何を考えているんだろう?” と、周囲の人から不思議に思われてしまうことで、気づけば距離を置かれていた、なんてこともしばしば。

思い返せば、2013年。
高校1年生の時、友達ができなくてひどく悩んだ。
「自分が他のクラスメイトと比べて変わっているからダメなんだ」「何か共通する要素がなければ、人は仲間になれないんだ」
そして、高2、高3のクラスでは、『自分らしさ』『持って生まれた個性』をとにかく殺すことに対して全力であった。自分という人間を、より普通に、より平均に、より標準に合わせて矯正すること、周りと異なる特徴を削り取ることが、協調性を高めるために最も必要な努力なのだと、本気で信じこんでいた。…まぁ、結局もとのキャラが強すぎて、意味なかったのだけれども。

そして、そこに追い討ちをかけたのが、15歳の時から4年間通い続けた、作曲の先生のとても厳しいレッスンだった。地元の先生の指導スタイルは昭和っぽくて、とにかく『悪いところ』をたくさん指摘され、僕が知らない・できない・分からないということに対して、1つずつ叱られた。
これは、完全に相性の問題だった。負けず嫌いで、強い意地を持っている人であれば、どこまでも実力が付くと思う。しかし、当時の僕は今よりもずっと純粋で、周りの大人が言うことを120%真に受けてしまっていたのだ。
「もっと普通に良いものを書きなさい」「これが本当に必要な音だと思ったの?」「自分で聴いて “変だ” と思えないのはおかしい」
先生の一言一言が、まるで自分の友達付き合いの未熟さに対してまで、間接的にダメ出しされているような気がして、精神的なダメージは大きかった。静かで、貫禄があって、それでいて核心をつくような怒り方。心の最深部からじわじわと、確実に自信を吸いとられた。

この経験と併せて考えたいのが、2018年3月から翌年5月までのアルバイト。できるだけ素早く、効率よく、心を機械にして動きまくる。それは資本主義社会の悪い部分をかき集めてコラージュ画像に仕立て上げたような環境だった。細かいことを気にする性格の人間が気軽に働いてはいけない場所だった。

そして、このことを裏付けてくれるのが、前述のMSPAにて、担当した心理士さんが書いてくれたコメントだ。

周りのペースに合わせて数をたくさんこなしていくような作業よりも、こだわりをもって自分のペースで目標をこなしていく作業のほうが得意であるかもしれません。

結論。
1人の人間が、自分らしく輝ける条件というものは、かなり限られていると思うのだ。
どんな相手でも、どんな環境でも適応できるほど、人間はオールマイティではない。なぜなら、1人1人の価値観、興味関心、向き不向きは、それぞれ違うからだ。だからこそ、自分の良いところも悪いところも、怖がらずに全部見つめて、たとえ、ある1つの評価基準において絶対的に不利であっても、それも含めて、自らの個性として全て受け入れて、最終的に自分という人間の生き方を丸ごと好きになっていけるような。
そういう考え方を身につけるためにはどうすれば良いか、という、その方向に力を注がなければいけなかったのだ。

正直、僕はこれまで、将来に対して不安を感じるたびに、
『この世で生き延びるためには、僕のように精神を負傷するか、利己的で図々しい性格になるかの2択しかないんだろ』という、とっても投げやりな気持ちになっていた。ちょっと冷静さを欠くと、世の中の健常に生活している多くの人が思慮浅いものだと錯覚し、見下してしまっていたのだ。

しかし、それは “主体性がない場合” という前提があってのこと。
前述のが克服できれば、もっと抜群に幸せな第3の選択肢が見えてくる。

それは、
お互いがお互いの幸せを望み合い、尊重し合い、ともに人格を高め合っていけるような仲間たちと人生を歩む
というもの。

残念なことに日本人は、他人の粗探しをして生きている人が多すぎるのだ。誰かの過失を見つけては、「私はこの人よりはマシな人間だ」と自分に継続的に言い聞かせなければやっていけないほど、自信と余裕がない状態。
「自分の短所は、他の人に指摘されるまで気付かない」のと全く同じように、「自分の長所は、仲間にほめられるまで認識できない」んだよ。
そして、他人の良いところを見つけ出して、面と向かって伝えてあげられるような生き方をしたほうが、絶対に平和。嫉妬なんか必要ない。それとはまた別に、その人にはない自分だけの長所というものは存在していて、まだ見つかっていないというだけのこと。一長一短、みんな均等に持ち合わせている、って思いながら生活したほうが、とりあえず絶対に楽しいでしょ。

私たちは、『ありがとう』という言葉の素晴らしさを、もっと信じるべきだ。言う側も、言われる側も、両者が同時に心のエネルギーを補給することができる。まっすぐな感謝の気持ちを伝えれば、相手は笑顔になってくれるし、それを見てこちらも笑うことができる。人間の感情って、そのへんうまくできてるんだから。

心の疾患によって悩む中、得られたこともある。
当たり前の日常が、いつもそばにあること。普通に健康に生きていられるということが、どれほど難しく、奇跡の選択の連続であることか』に、人生の挫折を通して、深く気付けた。

僕に必要だったのは、科学治療ではなく、根本的な思考転換なのかもしれない。

2020年3月。筆者とSくんの2人で、愛知県の知多半島にある内海(うつみ)にドライブで出かけた際の写真。

この青く美しい空の下で、今日も1人の人間として、無事に命を授かることができている。そして、自分が生きていることを心から喜んでくれる人たちがいて、自分もまた、『元気に生きていてほしい』と願える人たちが、この世界に存在してくれている。

それだけで、十分に人間らしいんだ。十分に素敵なことなんだ。

僕が大好きな卒業式ソングである『この星に生まれて』の途中、このような歌詞が含まれている。

谷間の小さな  白百合しらゆりでも
冬を耐えぬき  花を咲かす
何かを探して  この星に生まれた
強く  強く  愛 抱きしめて

作詞:  杉本 竜一

ちょっと雑な言い方になるけれど、生きていくにあたって面倒なことは、そりゃたくさんある。でも、どうせ苦労するんだったら、楽しまないともったいないじゃん。せっかく「未来」が予測できないんだから、良いほうの可能性を信じたほうが、結果に関わらず幸せなんだし。不幸せの前借りは、できるだけ避けなきゃいけない。実現するまでも、実現する瞬間も、実現したあとも、全てにおいて心を充実させてくれる、それが『』や『目標』だと思っている。生きる目的は、多く、そして具体的なほうがワクワクする。


あとはやっぱり…、いつかはまた、母親と心から笑い合えるようになりたい。

5歳からピアノを習わせてくれた。
小中学校の時の部活動の中で、保護者の一員として力いっぱい協力してくれた。
左足を骨折したときに、24時間ずっと気にかけてくれた。
中学の内容の数学を、夜遅くまで教えてくれた。
音楽大学に進むにあたって、僕よりも情報を集めてくれた。
県外のオープンキャンパスに付き添ってくれた。
見知らぬ愛知での物件探しに同席してくれた。
大学のイベントでの、たった5分の本番のために熊本から飛行機で来てくれた。

我が子のために、ここまでしっかりと心を砕いてくれた母親が、絶対に悪い人なわけないのだ。

きっと、僕の精神不調による不安要素を、感染させてしまっているだけなのだ。目の前の人があくびするのを見て、ついつい自分もあくびしてしまうのと似ている。
息子を気にかけていなければ、こんなことにはならない。
僕のことを心配しすぎて、「仕事をしている時が一番楽しい。現実を忘れられるから」と静かにつぶやく母親は、やっぱり1人の強い親だし、尊敬しなければいけない。
心を負傷した自分の子供に対して、どのように接すればいいのか、誰だって分からないよね、本当にそうだよね、お母さん…。

だからこそ、僕が成長することで、苦しみを乗り越えることで、母親にも良い方向に変わってほしい
おそらく、母親の中では時間が止まっていて、僕のことを1人の24歳男性として見ることができていないんだと思う。社会進出してないし。偉そうに『子離れ』という単語はあまり使いたくないけれど、家族というまとまりから独立した “自分の意志” と “決断力” と “責任感” を、僕は持っているんだぞ、ということを、なんとか行動で示さなければならない。他人に決めてもらわなければ何も始められない、という昔の僕の性質を、今、少しずつ変えていっている途中段階だから、もうちょっと待っててね。必ず『これなら安心だね』って、思わせるよ。
母親が丸くなれば、父親も喜んでくれる。

(ここを書いて再び、目の前が滲んできた)


✳︎


僕、この桜の木のような人間になりたい。

世の中には、太陽のように明るい人がいるが、果たして、そこまで無尽蔵むじんぞうのエネルギーを持っている人間はいるのか…?
もしかしたら、太陽のように明るい “ように見える” だけなのかも。周りの人に疲れや悲しみを見せないように、気付かれないようにしているのかもしれない。

結局、僕たちは人間なのだから
かつては、起きてから寝るまで、どんなときも元気で、優しくて、器の広い人を目指すべきだと思っていた。『完璧』を目指すことに越したことない、という考えだった。
でも、たまに充電切れになるんだよ。ガス欠にもなっちゃうモンなんだよ。それは、仕方ないとかじゃなくて、必要なことなんだ。

不完全 “だから素敵” なんだよ。

それを僕なりに言葉にすると…、いくら電子音楽が発達しても、生の人間が楽器を演奏するという活動が全く廃れないのと同じ理由、かな。
「パーフェクト」そのものにはなれなくとも、ゆっくり、人生の時間を使って「パーフェクトに限りなく近づいていく」という、その頑張り自体が、結局は、精一杯生きていくということの、1つの換言となっているんじゃないかと。それが、今の時点での所感。
そして、そのために必要なのは、『他人の幸せこそ自分の幸せだと思える』という、とても高尚な気持ちの共有だと思う。

まぁ…、今の時点での僕なんて、太陽でも桜でもなく、かたつむり級だと思う。作業がなんでも遅くて、すぐに背中のお家に入っちゃう。
でも、かたつむりなりに、前向きなかたつむりでありたい。止まらずに、どんなことがあっても、とりあえず動き続ける。前日よりも、1センチでも長く進もうと踏ん張るんだよ。まだまだ周りの人たちのように生活できなくても、まずは引きこもりを脱却できれば大成功。

ひとつの目標がクリアできれば、自ずと次の目標が見えてくる。
小学校の跳び箱のように、1段ずつ、1段ずつレベルアップしていかなければならない。いきなり難しくすると、簡単に「自分には無理だ」と思ってしまうから、じっくり、自分の成長を自分が待つことができるという余裕が、きっと大切なんだね。

最後に、2人の偉人の言葉を紹介して結びとする。

あなたが転んでしまったことに関心はない。
そこから立ち上がることに関心があるのだ。

── エイブラハム・リンカーン

吟味されない人生は、人間にとって生きるに値しない。

── ソクラテス

いいじゃない。桜の木のように、生涯の97%を枝だけで過ごしたとしても、自分の内側に強くて大事なものがあれば、それはもうしっかりと一流の人生と言えそうだ。


季節の変わり目を告げる、春の優しい風が吹いている。

僕はここに、3つの決意を記す。

・「自分ができることを、1つずつ確実に増やし、認識する。

・「身の回りのたくさんの人に感謝と尊敬の気持ちを抱き、これまでに助けてもらった分の恩返しとして、自身の音楽の力によって、苦しんでいる人たちを勇気づけられる人になる。

・「自分が自分らしく生きるための、誰にも負けない強い矜持きょうじを確立する。

引きこもり男の、本気の人生目標。


今、僕は24歳。
なんだ、10000日も生きてねぇじゃんか。

まだまだ、人生はこれからなんだぜ…!!! (完)

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