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ハードボイルド書店員日記【90】

「芥川賞候補のニュース、見た?」

休みを取れた猛暑の土曜日。都内某所の書店へ足が向く。ビジネス街ゆえ、週末は閑散としている。ジャズのスタンダード・ナンバーが脳に心地良い。

ブックトラックを傍らに置き、補充分を棚に出す昔の先輩に遭遇した。尊敬する同業者のひとり。ずっと文芸書を担当している。特に国内の現代文学に造詣が深く、一緒に働いていた頃は山下澄人「しんせかい」や今村夏子「むらさきのスカートの女」などの芥川賞受賞を的中させていた。

申し訳なさを好奇心で押し流し、立ち話を続けた。やがて話題が7月に発表される芥川賞・直木賞へ転じる。

「見ました。候補者が全員女性ですね。直木賞もノミネートされた5人中4人が」「どう思う?」「たまたまでしょう」「ぼくも同意見。ただ昨日常連さんに言われたんだ。『前回の受賞者が全員男だからバランスを取ったんでしょ』って」「大河ドラマみたいに?」一時期、男性と女性が交互に主役を務めるパターンが続いたのだ。

「ぼくはそういうことじゃないですよ。彼女たちの実力です』と返した。でも彼は納得してなかったね」「味方になってほしかったのでは?」「何の味方?」「つまり」昨年炎上した某政治家の名を出しかけてやめた。

「まあ枠のあり方自体から変えることも必要だと思うよ。政治もそうだけど、特に芸術や創作は前例を破ってナンボだからね。でも何というか」慎重に言葉を選んでいる。BGMが”Someone to Watch Over Me”に変わった。

実力で選ばれたのに違う見方をされてしまうのはフェアじゃない。そういうことですよね?」まだ沈黙。「……君は宇佐見りん『推し、燃ゆ』読んだ?」「ええ」「どうだった?」「百年後まで残ると」「ぼくも感服した。あれはある時代の真実を十代の女の子の目線で切り取った鮮烈なスケッチだよね。著者と語り手が共に若い女性であることが、あの作品においては重要な要素だった」「わかります」「一方で年齢と性別ばかりがマスコミに取り上げられるのは違うとも感じた。言葉にすると難しいんだけど」マスクの下の丸顔に苦笑いが浮かぶ。鬢に白いものが目立つ。目尻の皺も以前会った時より深くなった。

「小説、書いてる?」「書いてます」「もし君のルックスがあの人とそっくりだとして」ドラマや映画で活躍し、歌手としても大人気を誇る某芸能人の名が出てきた。「少しも似てません」「たとえ話だよ。書いたものが評価され、君の顔写真がメディアに紹介され、本がヒットしたらどう思う?」「実に面白い」「真面目に」「……作品が認められたのなら嬉しいです」「売れたことは?」「嬉しくなくはない、としか」「作品が認められたから売れたのに、そうは受け取れない?」「あるいは」

ほぼ同時に足元へ視線を落とした。散歩中に互いの落とし物を拾い合う老夫婦のように。「ぼくは彼の作る曲と歌声が好きなんだ。朴訥な演技も。まだ人気のなかった頃からね」「ええ」「だから正当に、彼の実力に相応しい形で賞賛されてほしい」「容貌やスター性の評価を歌唱力や演技力を含む作品へのそれとは分けるべき?」「厳密にしなくてもいい。でも記事の論調や写真の選び方。それだけでも印象は変わるよね」「確かに」「その上で、己の秀でた容姿を卑下しないようにしてほしい。作品が認められたから売れた。でもルックスがいくらか寄与していたとしても悪いことはない。だよね?」「はい」その通りだ。何も悪くない。

本人がどう考えようと、その人を形作るすべてが作品の構成要素なのは事実なんだ。見た目や年齢や性別も含めてね」頷いて見せた。「だからといって『顔がいいから売れた』『若いから賞を獲れた』という話ではないよ。軽視しないことと主な理由にすることは違う。言いたいこと、わかる?」「何となく」「世の中の多くの人はわかってない。というか、わかろうとしない。コンプライアンスとか炎上回避とか、要は上辺の敬意を重んじ、安直な言葉で体裁だけを整える。問題は外面じゃなくて本心なのに。つまり」ひと呼吸置き、空気の気配を測るように首を巡らした。

「つまり変わるべきは彼女たちや彼や君じゃない。世界なんだ」

咄嗟にあるフレーズが口を突く。「自分じゃなく、世界を変えたい。自分の目のレンズを濁して世界を修正するのはもういやだ」彼が予想を的中させた芥川賞受賞作のひとつ、町屋良平「1R1分34秒」の一節だ。考え過ぎるボクサーと不器用なトレーナーの物語。「大丈夫。少しずつ変わってきているから。彼女たちや君が正しく評価される日は必ず来る」低気圧を切り裂く陽射しのイメージが脳裏を掠めた。「その時までぼくはここで働く。君の著作を棚に並べる日を楽しみにしているよ」

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