「先生失格」


(動画を拝借します。)




自分も過去に

「先生」と呼ばれ、生徒がいた時期がある。

10代前後の学生~60代の年配者まで幅広く

レクリエーションレベル ~ セミプロレベルまで

中には障害者もいた。

しかし、自分には「先生」は悉く不向きであった。




理由はいくつかあって

①「自分がなにも出来ないという経験をしていないから」

先の記事に書いたように

飛び抜けて教えるのが上手な人間というのは

自分自身が下手でなにも出来ずに苦労してきた人間が圧倒的に多い。

ところが、自分の場合は

その「なにも出来ない」という感覚が一切分からない。

だから「なぜこれが出来ないのか」が分からないのである。

ちなみに自分自身が生徒だった時

「音楽が最優先」なので

その時にかかった音楽に合うように自己アレンジを加え

先生以上のクオリティーで踊る「嫌な顔をされる」生徒だった。

「音楽に合わない振付はダサいし踊りたくない」という

強い自分のこだわりが昔からあった。

なので特に「ダンスの型」に拘り過ぎる先生からは

露骨に嫌な顔をされていた。

これは自分が先生になって生徒に言われた言葉だけど

一般的な生徒というのは

「なにも出来ない」というのが大多数でそれが当たり前だから

先生みたいなタイプのほうが珍しいと。

すごく当たり前のことだけど

自分にとってそれは、当たり前ではなかった。

生徒の言葉で初めて「当たり前ではない」ことに気が付けたのである。


②「教えのセオリーのズレ」

自分の場合

なにかしらのダンススクールで学んだ年数は3年しかない。

ほぼ独学になる。

普通、ダンスの先生になる人間というのは

5年~10年ぐらいはなにかしらのレッスンを継続して受けている。

その中で

教えてもらった先生の「教えのセオリー」を嫌でも学ぶので

自分が教える立場に立った時、

すでに教えのセオリーを持っていることになるが

自分の場合はそうではない。

正直

「一般的な教えのセオリー」だけなら頭を使えば叩き込むことは出来る。

しかし、自分の場合は

上に書いたように「一般的な生徒ではなかった」ため

頭を使ってセオリーを組み立てたところで

その基準が大幅にズレていることが多々あった。

所謂「難しすぎる」というやつである。


例えば、

ある一つの基礎と言われるステップを教える際

・そのステップをつま先で踏むのか、べた足か、ヒールか
・足のスタンス(足の幅)をどの距離で保つのか
・上半身はどういうリズムを刻むのか
・両手はどの音色を表現し、どういう動きをするのか
・首の角度はどの向きか
・ステップの移動方向を前後左右どの向きで行うか

ざっと挙げただけでこの項目がある。

一般的なレッスンだと

「ダンスの型においての定形」だと言われるものしか教えないらしいが

自分の場合は、この項目を複数の組み合わせでやるので

それが「難しい」んだそうだ。

1レッスンでひとつのステップしか教えなかったこともザラにある。

本当はこれが基礎中の基礎で

基礎ほど難しいモノはないと言われる所以だけど

一般的な生徒というのは

「浅く広く沢山の技が出来るようになること」を非常に好むらしい。

そしてそれを以って「上手になった気分」になるらしく

「上手になった気分」が「楽しい」と思うことに繋がるらしい。

また生徒の全員が「上達」を望んでいるとは限らず

「楽しく身体が動かせさえすればいい」という人もいる。

なので、セオリーを組み立てる際

「生徒の望む平均値」まで計算に入れる必要が出てくるが

自分の場合は

「ギャラを貰い人に何かを教えるのであれば上達させないと意味がない」

という価値観を持っていた為

「教えのセオリー」は「上達セオリー」に等しかった。

なので上達させる腕はあったけど

楽しさを提供することは、自分には出来なかった。

過去の生徒の中にセミプロのような人間もいたが

その生徒でさえ「難しいし面白くない」と言っていた。

なので、自分の「教えのセオリー」というのは

一般的なものとはやはり、かけ離れているらしい。



③「超個性派の踊りと独自のダンス観」

自分が先生として教える仕事を頂いていた経緯として

半分は、自分が先生を募集しているスタジオに問い合わせたこと

もう半分は

「自分のダンスを実際に観た人間からのオファー」だった。

先の記事にもちらっと書いたとおり

自分自身はダンサーとして「超個性派」かつ「技巧派」であった。

なので、観る分には非常に面白くエキサイトするダンサーではあると思う。

しかし、それが「人に教える」となると一転して不利に働く。

理由は「イレギュラー部分が多すぎるから」である。

自分の場合

重心の置き方自体がイレギュラーであり、

手足のさばき方が独特で

上半身と下半身が連動しないダンスをする。

これは、自分の身体を徹底的に研究し、自分にしか合わないものを

確立したためである。

その「自分にしか合わないもの」を他人に教えるということは出来ない。

よく一般的な生徒は先生のシルエットや立ち姿から真似をしたがるが

自分はシルエットの真似が出来ない先生であった。

なので生徒が「これで大丈夫なのか?」と思ってしまうらしい。

本当はそれでいいのだけれども、

生徒としては「どうして真似ができないのか?」という

どうでもいい不安に駆られるんだとか。

また

何度も書いている通り

自分のダンスの型は「音楽が最優先」である。

なのでよく少人数のレッスンでは

「自分の踊りたい曲を持ってきて」と生徒に言い

生徒が持ってきた音楽でレッスンをやったり

生徒に自分で音楽を選ばせて自分で振付けをしてもらったりしていた。

しかし、これもまた「難しい」んだそうだ。

自分が先生という立場になってよくわかったことだが

この「音楽が最優先」型というのは日本人には不向きなようで

「踊りたいという欲求があってレッスンに来ているのに
 いざ好きなように踊っていいと言われるとそれが出来ない」

人間が非常に多い。

表現欲はあるのに、表現することに対しては消極的である。

自分のダンスというのは自分で音楽をセレクトすることからスタートする。

その音楽すら、自分で選べない。

音楽表現としてのダンスでどう表現したらいいのかわからない

という話はまだわかる。

しかし音楽がセレクト出来ないというのはそれ以前の話である。

この事実が自分にとってあまりにも衝撃的だった。

「踊りの善し悪しは別として、音楽は自分で選ぶもの」

が当たり前だった自分にとっては

到底理解のできないことだった。





以上の理由から、自分は先生としては不向きであり「先生失格」であった。





(動画を拝借します。)



「先生」の仕事をやらせてもらった数年間

とある年上の女性に、しょっちゅう教えることについて相談をしていたが

「アンタが天才肌だから仕方がない」と決まって言われて笑われていた。

これは先生としては誉め言葉ではなく

寧ろ「失格」の烙印を押されていることになる。

本当にいい先生というのは

天才肌ではいけないのである。

色々なことを熟考した結果

「自分は先生失格だ」と認め

自らすべてのレッスンを辞めたのである。




自分が「ダンサーとしてやっていきたい」と親に言ったときに

「芸術家になるなら学校なんか行くんじゃない」と

ダンスの専門学校に行かせてもらえなかった過去がある。

あのとき親が言った言葉は間違いではなかった。

しかし

リアルアーティストになった時に

世間一般からいかにかけ離れたものかを、痛感するのである。

リアルアーティストは、先生にはなれない。

それが自分が「先生」だったときに一番勉強になったことだった。








拙い文章お読みいただきありがとうございました。





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