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グリーフ哲学

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大切な方を亡くした方に
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#哲学

グリーフ哲学をー身体と広さと

グリーフ哲学をー身体と広さと

ご無沙汰しています。暑い中にも、空の青さに秋を感じる季節になりました。

夫が亡くなって2年目で引っ越しをしたときのことを思い出します。残暑
厳しいこの季節のことでした。いろいろとあって、一人で住むのに十分な広さのところに引っ越すので、夫のものをほとんど処分しなければなりませんでした。しかも、短期間に。

書籍、服、書類や、訳の分からない数式やらを無茶苦茶丁寧に書き込んだ何十冊ものノートやら。その

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グリーフ哲学をー死者との対話

グリーフ哲学をー死者との対話

実家に落ち着いたと思ったら、次から次へと、心が泡立つようなことがいろいろと起きますが、習い始めた三味線の練習が、意外に心の落ち着きを得させてくれています。

夫が亡くなった直後は、一連の喪の儀式のためのあれやこれやで、悲しみはあるのだろうけど、良くも悪くも、それにとらわれている自分がいました。

儀式的なものが落ち着き、周囲への対応も一段落つくと、一人取り残された感覚が襲ってきます。だからといって

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グリーフ哲学をー悲しみと生

グリーフ哲学をー悲しみと生

彼が突然逝ってしまったあとしばらくは、何を食べても味気なく、まさに砂をかんでいるようでした。

それでも、当時は仕事をしていたこともあって気を張っていたけれども、一周忌を過ぎたころから、反動なのか、原因不明の目眩に襲われるようになりました。

張り詰めていたその頃の生活は、自責の念から自分を追い詰めていたのだろうと思います。彼の苦しみに気づかなかった自分を痛めつけたかったのかもしれません。

そう

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グリーフ哲学をーそれでも輝く

グリーフ哲学をーそれでも輝く

実家に帰ったら、お勤めも辞めたわけだから、時間は結構空くのかと思いきや、毎日何やかにややることがあり、また、管理するものが多くなり、必然的にルーティンも増えて、あっという間に時間は過ぎてゆく。そういう時間から、やっとゆったりとした流れとして時間を感じるようになりました。

私が実家にいた頃に三味線を習い始めたお隣さんが、10年前から三味線のお師匠さんになっていて、ご近所のお友達に教え始めていました

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グリーフ哲学をーうつろうということ

グリーフ哲学をーうつろうということ

夫が逝ってしまってから10年近くになりますが、夫への感情が変わったかと言えば、変わったとか変わらないとかいう言い方では表現することはできません。感情は量的なもので言い表すことはできないし、それを一つの感情で言い表すことはできないから。

感情そのものは、自己を展開し、したがって絶えず変化する一つの生き物である。そうでないとしたら、感情が私たちを少しずつ一つの決心へと導くことは理解できなくなるだろう

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グリーフ哲学をー不安にこそ

グリーフ哲学をー不安にこそ

天災というのは脅威であり、だからこそ、まだ起こってもいない地震にも恐れを抱きます。けれども、恐れよりも根本的な情状性は、不安 です。

不安はそれ自身としては恐れをはじめて可能ならしめる。(M.ハイデガー『存在と時間』、原佑・渡邊二郎訳、中公バックス)

恐れとは、何か脅かすものがあるからこそ恐れる。確かに地震は予測不可能ですが、日本が四つのプレートの境界線上にあって、だからこそ地震が起こるという

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グリーフ哲学をー間(あいだ)にあるといふのは

グリーフ哲学をー間(あいだ)にあるといふのは

親と子、妻と夫、あなたとわたし・・・・、この二つのものを結ぶのは、「と」という間(あいだ)です。間があるからこそ、この二つのものが存在するといってもよいでしょう。

「愛は私にあるのではなく、相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるといふのは、二人のいづれよりもまたその関係よりも根源的なものであるといふことである。」(三木清著『人生論ノート』、新潮社)

愛は間に在って異なる二つのものを

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グリーフ哲学をー「現」

グリーフ哲学をー「現」

昨年末、一人暮らしの母がホームに入居したので、結婚してからこのかた30年住んでいた横浜を去って、実家のある福岡に帰ってきました。自分がこれまで生きてきたなかで、一番時を過ごしてきた横浜。私の大好きな横浜。自分の出身地にもかかわらず、語尾もアクセントも福岡弁に戻ってきつつあり
(帰省した時には、しばらくいると戻ってはいましたが)、食べ物の安さ、
おいしさ、魚介類の安さ、新鮮さに幸せ~と思いながらも、

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グリーフ哲学をー見えないもの

グリーフ哲学をー見えないもの

わたしたちが、自己というとき、その定義は大体において、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り(cogito ergo sum コギト エルゴ スム)」を前提としています。

この「思う」とは、フランス人であったデカルトの言葉を借りるならば、penserで、日本語では「考える」という意味になります。

それは、デカルトが感覚も知性も想像力も、夢か幻かもしれないと疑ってみても、疑う「私」が在らねばならな

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やさしい哲学ーカントの世界観

やさしい哲学ーカントの世界観

 

「止まれ」の標識。自動車に乗っているとき、この標識を見たら、最初に頭によぎるのは、停止線の直前で車を一旦停止させなければいけない、ということ。「~ねばならない」というのは、私たちが世の中で生きていくのに欠かすことのできない、車と人とが共存していくための倫理に基づいたルール。

 だが、その前に、この「止まれ」の標識を、停止線の直前で一旦停止する標識として認識しなければならない。つまり、車道に

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中原中也ー「一つのメルヘン」と世界の開け

中原中也ー「一つのメルヘン」と世界の開け

中原中也「一つのメルヘン」
小林秀雄が最も美しい遺品だと賞賛し、大岡昇平が異教的な天地創造神話だと評した、美しくも優しい永訣歌。この作品は、一つの哲学である。それを「一つのメルヘン」で語ってしまうところに中原中也のすごさがある。

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと 射してゐるのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのやうで、

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