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グリーフ哲学をー見えないもの

わたしたちが、自己というとき、その定義は大体において、デカルトの「われ思う、ゆえにわれ在り(cogito ergo sum コギト エルゴ スム)」を前提としています。

この「思う」とは、フランス人であったデカルトの言葉を借りるならば、penserで、日本語では「考える」という意味になります。

それは、デカルトが感覚も知性も想像力も、夢か幻かもしれないと疑ってみても、疑う「私」が在らねばならないことに気がついたことから、哲学の第一原理として導出した定義です。

近代的自己とはデカルトのコギトを指します。コギトを起点として、そこから、カントやヘーゲルが自己意識を展開し、現代に至ってもなお、さまざまに解釈がされ続けています。脱中心化という概念も、デカルトのコギトと基に構築された自己意識という枠組みをいかに外すのかが問われているのです。つまり、それくらい、私たちは、コギトにとらわれているわけです。

私たちが、対象というとき、それは、自己意識のなかで立てられた―措定された―ものをそう言いいます。

「わたしは考える(cogito)」という意識が、あらゆるわたくしの表象に伴わなければならない。」(E.カント『純粋理性批判』高峯一愚訳、河出書房)

表象を受け取る能力は感性でその形式は時間と空間。感性によって対象は与えられます。そして悟性を通して認識されます。悟性とは、概念を構成する自発性であり、悟性があるから、例えば、三角形という形も、三角形として認識できるわけです。

概念はカテゴリとも言います。カテゴリによって対象は一つのものとして認識されるわけですが、それを一つのものとして認識するには、考えている私が存在していなければなりません。

たとえば、バラの花を見ているとき、それがバラだという概念を構成している私があって、はじめてバラが認識されるわけです。

けれども、対象とは、認識の範囲内の現象であり、物自体ではないとカントは言います。言うなれば、わたしたちは、バラ自体を見ていないことになります。でもバラ自体って何だろう?物自体って、私と対象(主観と客観)に分たれる以前のもの?

これには、いろいろな解釈や考え方があります。カントにとって、物自体は神を意味するときもあります。

物自体が適用されるのは、神や魂などを考えるときの理性―実践理性―の部分。感性から悟性を経て、認識されたものを推理する理性の部分―純粋理性(理論理性)―では、物自体について考えることはできません。

批判する(kritik)ということばには、「分ける」「区別する」という本来の意味があります。カントは、理性の使い方を実践理性と純粋理性に分け、分けることで、自然科学の世界に神学が入り込むのを死守したわけです。

ただ、言えるのは、わたしたちたちが目の当たりにしている世界は、認識しているものだけで、ほんの一部にすぎず、全体が見えていないのということなのです。

夫を亡くして今思うのは、あの頃の自分は見えるものにとらわれて生きていたということ。見えないところで、何か感じることをしなくなっていた。いや、感じていたのだろうけれども、それに蓋をしていた自分がいました。

認識にとらわれ過ぎると、何か大切なものを、かえって見失ってしまう。

今、彼は目に見えないけど、生きていたときには気づかなかったことに気づくようになりました。

、、、見えないところで、彼に気づかされているのかな。

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