戸羽れい

夫を自死で亡くして、ちょうど10年経ちました。悲しみや自責の念に暮れるなか、自分を支え…

戸羽れい

夫を自死で亡くして、ちょうど10年経ちました。悲しみや自責の念に暮れるなか、自分を支えてくれたのは15年以上研究してきた哲学とグリーフケアでした。悲しみは癒されるものではなく人を癒すもの。人に寄り添うやさしい哲学ーグリーフ哲学ーをお届けしたいと思います。

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  • グリーフ哲学

    大切な方を亡くした方に

最近の記事

風を感じる

皐月の風が、陽光射す若葉を煌めかせながら吹き抜ける。この時期の風は、1年のうちでとりわけ心地よくさわやかながら、ふわっと包み込むやさしさを感じる。 プネウマは哲学でも重要な意味をもつ。Wikipediaを見ると、プネウマには気息、風、空気、大いなるものの息という意味があるとされているが、ギリシア哲学では存在の原理、呼吸、生命、力、エネルギー、精神、聖霊等々の意味があるとされている。また、プネウマのラテン語はスピリトゥスで、スピリットの語源となっている。 創世記でも、神は土

    • 本を出版しました「大切な人を失くしたとき一番最初に読みたいグリーフケアの本」

      このたび、自分の体験と哲学を通して、グリーフケアについて書いた本を出版しました。 グリーフケアがテーマとなっていますが、喪失というのは、人間にとって、実は根源的な出来事であり、大切な人を亡くし悲しむことで、何か根っこにあるものに気づくということを書いた本です。 投稿で載せたことも、基にして書いている部分があります。 Kindle版(Unlimitedは無料なのですが)で、5日間無料キャンペーンをすることになりました。 3月30日(土)17時  〜  4月4日(木)17

      • グリーフ哲学をー死者との対話

        夫が亡くなった直後は、一連の喪の儀式のためのあれやこれやで、悲しみはあるのだろうけど、良くも悪くも、それにとらわれている自分がいました。 儀式的なものが落ち着き、周囲への対応も一段落つくと、一人取り残された感覚が襲ってきます。だからといって、人の多いところに行く気にはなれません。行ったとしても、夫の不在を思い知らされ、その人波とかけ離れた孤独がいや増すからです。 大切な人を亡くすというのは、「共に」を前提とした上で生きてきた自分の基盤そのものが崩れてしまうことを意味します

        • 涙とともに

          甦る思いに、ふと涙がこぼれる、、、 ふとこぼれる涙に、愛の深さを知る 自分はこんなにも、人を愛することができたんだと そして、愛することができるんだと 横たわる間の深みから、愛は、涙は、こぼれくるものなのだと

        風を感じる

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        • グリーフ哲学
          18本

        記事

          愛せるよ

          愛せるよ、誰もが寂しさを抱えて生きていることが分かれば 愛している人たちがいる、愛おしいと思えることが幸せ 切ないときもあるけれど それでもなお、だからこそ

          夜祭幻想

          先夜、市内の神社仏閣での屋外アートとライトアップの催事に行ってきました。 日中は来る人を浄め癒す神社仏閣も、夜は門を閉ざし、また閉ざさないまでも、立ち入るのを拒むような気に充たされる空間になります。 それはそうした場が、夜には、現世のものではないものにとっての空間となるからでしょうか。 ただ、祭りの日は、人間とカミが、そして生者と死者が行き交い、出会う場となるのでしょう。 私は、あの日から今まで、本当に悲しみ苦しんできたんだろうか。そして悲しみや苦しみに向き合ってきた

          グリーフ哲学をー身体と広さと

          ご無沙汰しています。暑い中にも、空の青さに秋を感じる季節になりました。 夫が亡くなって2年目で引っ越しをしたときのことを思い出します。残暑 厳しいこの季節のことでした。いろいろとあって、一人で住むのに十分な広さのところに引っ越すので、夫のものをほとんど処分しなければなりませんでした。しかも、短期間に。 書籍、服、書類や、訳の分からない数式やらを無茶苦茶丁寧に書き込んだ何十冊ものノートやら。その数は膨大で、特に書類などは㊙扱いのモノを家に持ち帰ってたりしてたので、捨てるのが

          グリーフ哲学をー身体と広さと

          グリーフ哲学をー他者という存在

          自分は自分だから。そういうときには余計、自分でないものが自分のなかに意識されている。でなければ、自分は自分だからなんて言えない。つまり、自己は他者があってこそ自己と言えるもの。自己とは他者がいなければ、自己が自己で在り続けることができないものなのです。 ただ、自己のなかで、自己を他者よりも優位に立てなければ、自己を他者にもっていかれ、他者に自己を乗っ取られることになります。優位と言っても、それはあくまでも自己のうちのことだけれども、他者との距離も重要。遠かったら自己は肥大す

          グリーフ哲学をー他者という存在

          グリーフ哲学をー死者との対話

          実家に落ち着いたと思ったら、次から次へと、心が泡立つようなことがいろいろと起きますが、習い始めた三味線の練習が、意外に心の落ち着きを得させてくれています。 夫が亡くなった直後は、一連の喪の儀式のためのあれやこれやで、悲しみはあるのだろうけど、良くも悪くも、それにとらわれている自分がいました。 儀式的なものが落ち着き、周囲への対応も一段落つくと、一人取り残された感覚が襲ってきます。だからといって、人の多いところに行く気にはなれません。行ったとしても、夫の不在を思い知らされ、

          グリーフ哲学をー死者との対話

          グリーフ哲学をーうつろうということ

          夫が逝ってしまってから10年近くになりますが、夫への感情が変わったかと言えば、変わったとか変わらないとかいう言い方では表現することはできません。感情は量的なもので言い表すことはできないし、それを一つの感情で言い表すことはできないから。 感情そのものは、自己を展開し、したがって絶えず変化する一つの生き物である。そうでないとしたら、感情が私たちを少しずつ一つの決心へと導くことは理解できなくなるだろうし、つまり私たちの決心は即座になされるということになるだろう。しかし、感情が生き

          グリーフ哲学をーうつろうということ

          グリーフ哲学をーそれでも輝く

          実家に帰ったら、お勤めも辞めたわけだから、時間は結構空くのかと思いきや、毎日何やかにややることがあり、また、管理するものが多くなり、必然的にルーティンも増えて、あっという間に時間は過ぎてゆく。そういう時間から、やっとゆったりとした流れとして時間を感じるようになりました。 私が実家にいた頃に三味線を習い始めたお隣さんが、10年前から三味線のお師匠さんになっていて、ご近所のお友達に教え始めていました。 ごく近所の方ばかりだから、私も顔見知りなのですが、誘われて、あまり気乗りは

          グリーフ哲学をーそれでも輝く

          グリーフ哲学をー不安にこそ

          天災というのは脅威であり、だからこそ、まだ起こってもいない地震にも恐れを抱きます。けれども、恐れよりも根本的な情状性は、不安 です。 不安はそれ自身としては恐れをはじめて可能ならしめる。(M.ハイデガー『存在と時間』、原佑・渡邊二郎訳、中公バックス) 恐れとは、何か脅かすものがあるからこそ恐れる。確かに地震は予測不可能ですが、日本が四つのプレートの境界線上にあって、だからこそ地震が起こるというのはわかります。台風もその威力は予測しがたいけれども、進路を追うことはある程度で

          グリーフ哲学をー不安にこそ

          グリーフ哲学をー悲しみと生

          彼が突然逝ってしまったあとしばらくは、何を食べても味気なく、まさに砂をかんでいるようでした。 それでも、当時は仕事をしていたこともあって気を張っていたけれども、一周忌を過ぎたころから、反動なのか、原因不明の目眩に襲われるようになりました。 張り詰めていたその頃の生活は、自責の念から自分を追い詰めていたのだろうと思います。彼の苦しみに気づかなかった自分を痛めつけたかったのかもしれません。 そういうときは、頭よりも身体の方が正直なんですね。身体の方が耐えられなくなって、もう

          グリーフ哲学をー悲しみと生

          グリーフ哲学をー受けいれるということ

           自分の想像を絶する出来事。それに対して、理性なんて果たして働くだろうか。ただ、受け入れられない事実を、うつりゆく日々のなかで、なんらかのかたちで、少しずつ受け入れていったようにも思います。  われわれは、自然が計り知れないことについて、・・・われわれ自身の制限を見出したのであるが、それにもかかわらず、われわれは、同時に理性能力について非感性的な別の尺度を見出したのであり、この尺度は、あの無限性そのものを単位として含み、この尺度と比べれば自然におけるすべてのものは小さいよう

          グリーフ哲学をー受けいれるということ

          グリーフ哲学をー間(あいだ)にあるといふのは

          親と子、妻と夫、あなたとわたし・・・・、この二つのものを結ぶのは、「と」という間(あいだ)です。間があるからこそ、この二つのものが存在するといってもよいでしょう。 「愛は私にあるのではなく、相手にあるのでもなく、いわばその間にある。間にあるといふのは、二人のいづれよりもまたその関係よりも根源的なものであるといふことである。」(三木清著『人生論ノート』、新潮社) 愛は間に在って異なる二つのものを結ぶものであり、それを媒介といいます。媒介は、二つのものの両方の性質を備えるもの

          グリーフ哲学をー間(あいだ)にあるといふのは

          春爛漫のこの時期、素でいられるところが、なんだか刺さったのでした。というか、無理してみんなと一緒に芽吹かなくてもいいよ、って。

          春爛漫のこの時期、素でいられるところが、なんだか刺さったのでした。というか、無理してみんなと一緒に芽吹かなくてもいいよ、って。