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グリーフ哲学をー死者との対話

夫が亡くなった直後は、一連の喪の儀式のためのあれやこれやで、悲しみはあるのだろうけど、良くも悪くも、それにとらわれている自分がいました。

儀式的なものが落ち着き、周囲への対応も一段落つくと、一人取り残された感覚が襲ってきます。だからといって、人の多いところに行く気にはなれません。行ったとしても、夫の不在を思い知らされ、その人波とかけ離れた孤独がいや増すからです。

大切な人を亡くすというのは、「共に」を前提とした上で生きてきた自分の基盤そのものが崩れてしまうことを意味します。だから、大切な人を亡くした後、この「共に」を、死者と生者として、どう再構築していくかが問われるのです。

物言わぬと思われている死者に向けての自分の思い、そこから繰り出される死者への問いかけが、死者との対話の始まりです。問いかけがあるからこそ、生の側にいる自分と死者がつながっていくのだと思います。

死者からのことばがふと心によぎるときは、確かにあります。それは、自分の思いと死者の思いとが重なったときなのだと思います。ただ、自分が意図したときには、思いは重なりません。何か告げ知らせるようにして、気づきとともに、そのことばが下りてくるのだと思います。

死者によって、現在(いま)の自分が示されるわけです。

良心は「何ものか」を了解するようほのめかす。つまり、良心は開示するのである。(M.ハイデガー『存在と時間Ⅰ』、原佑・渡邊二郎訳、中公クラッシクス)

ここでいう良心とは、何か道徳的なものを表しているのでもないし、良心に訴えてとか、善悪を問われるものでもありません。良心とは呼び声であるとハイデガーはしています。

良心の呼び声は、現存在の最も固有な自己存在しうることをめがけて、現存在に呼びかけるという性格をもっているが、しかもそれは、最も固有な責めある存在へと呼びさますという仕方においてなのである。(M.ハイデガー『存在と時間Ⅰ』、原佑・渡邊二郎訳、中公クラッシクス)

「共に」の根源には、生者と死者の「間(あいだ)」が広がっています。「間(あいだ」は、死者と生者の区別がなく、問いかけとは呼びかけであり、その呼びかけによって、生者と死者という区別ができてくると言えます。

ですから、死者への問いかけは、そのまま自分自身への問いかけでもあり、その問いを引き受けるということが、最も固有な責めある存在へと呼びさますということなのです。なぜ彼は死に赴いたのか、という問いかけは、終生ベースにあり、解けぬものとして残り続けていくでしょう。問いを引き受けるということはそういうことなのだと思っています。そして、問いかけとともに死者との「共に」という生者の在り方が築きあげられていくのでしょう。

対話とは、その語りによってはじめて、自己と他者という分節化がなされることだと言えます。

7回忌の前後に、ふとかられた自責の念に、「そんなに自分のせいにされても、重たいよ」と言った主人のことば。

そして、先日の明け方、夢に現れた夫に、それがあやかしかどうかはわかりませんが、言いたいことがいっぱいあったはずなのに、とっさに「幸せにしているよ」と夫に向かって言った自分。

その折々に、私は私、あなたはあなた、でも、深いところではつながっているんだ、と思い直す自分がいます。




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