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グリーフ哲学をー受けいれるということ

 自分の想像を絶する出来事。それに対して、理性なんて果たして働くだろうか。ただ、受け入れられない事実を、うつりゆく日々のなかで、なんらかのかたちで、少しずつ受け入れていったようにも思います。

 われわれは、自然が計り知れないことについて、・・・われわれ自身の制限を見出したのであるが、それにもかかわらず、われわれは、同時に理性能力について非感性的な別の尺度を見出したのであり、この尺度は、あの無限性そのものを単位として含み、この尺度と比べれば自然におけるすべてのものは小さいような尺度である。
(E.カント『判断力批判 上』、カント全集8、岩波書店)

これを読むと、いかにも人間の理性が自然を凌駕しているようにも感じ、尺度とか単位という文言にも抵抗があるのですが、別の角度から眺めると、別の解釈もできるように思えます。

無限性そのものを含みこむことがなぜ可能になるのか。構想力(再生したり創造する力)が描出不可能に陥るからであり、即ち表象が不可能になるからです。それをカントは、自然の合目的性によって、構想力の自由が犠牲になり、剥奪され、心が動揺するけれども、理性によって、心の平静な状態と結合するとしています。

ちなみに、このときの理性とは、道徳的な理念を要請する実践理性のことです。判断力は、理論理性から実践理性への橋渡し的な役割をするものとされています。判断力は、構想力の働きが大きいから、構想力が働かないことで、実践理性への切り替えが果たされるわけです。

ただ、無限性を含みこむということが、西洋哲学のいわゆる自発的な理性の働きなのかどうかは疑問符です。なぜなら事態をそのまま受け入れるというのが、実は、最大の自発性なのではないかとも思うからです。

人生という波の翻弄もまた、自由を犠牲にし剥奪するような、不条理さに満ちています。理性の自発的な働きというよりも、構想力の受容性と無力さの方が、私にはすっと入ってくるのです。もちろん、構想力は、最初から白旗を掲げているわけではありません。力の限りを尽くしての不可能性です。

自然の合目的性としてしましたが、どんな状況であれ、死という不可避な事態の前では、人間など無力です。それは、生きとし生けるものの宿命です。そういう事態をなんからの形で受けいれることで、自分のなかに無限なものが芽生えてくるのではないでしょうか。もちろん、受け入れかたは、人それぞれだと思います。悲しみでも怒りでも、たとえそれ無関心であったとしても。(無関心も関心の一様態だから)

今、グリーフのための哲学を考えたいと思っています。そのきっかけとなった書物のひとつに、竹内整一氏の「花びらは散る 花は散らない」という著書があります。そのタイトルは、金子大栄の「花びらは散っても花は散らない。形は滅びても人は死なぬ。」 という言葉に基づいています。

夫が亡くなった直後、あまりにも青い空がまぶしくて、見上げることができませんでした。

亡くなって49日が過ぎて、ある曇天の日に、夢中で田園を歩き回っていたとき(横浜も郊外は田園が広がっている。当時住んでいたところがそうだった。)、ふと空を見上げたら、くぐもった日輪の周りを縁取るように、虹が二重に輪っかを作っていました。

そのときから、少しずつ、夫の死を受け入れようと思いました。

カントは、非感性的なものを含みこんだ理性の尺度からすると「自然におけるすべてのものは小さいような尺度である。」と言います。

けれども、あの日の空のまぶしさがあったからこそ、死という自然のはかなさや有限性を包み込むような無限を、曇天の空が教えてくれたようにも思うのです。

最近、ふと、思いがけず、またやり直したいね、と夫に話しかけている自分がいました。

花びらは散る、花は散らない。頭ではわかっているけれども、その言葉が実感として湧いてきませんでした。

でも、今は、散らない花が私には在る。

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