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グリーフ哲学をー不安にこそ

天災というのは脅威であり、だからこそ、まだ起こってもいない地震にも恐れを抱きます。けれども、恐れよりも根本的な情状性は、不安 です。

不安はそれ自身としては恐れをはじめて可能ならしめる。(M.ハイデガー『存在と時間』、原佑・渡邊二郎訳、中公バックス)

恐れとは、何か脅かすものがあるからこそ恐れる。確かに地震は予測不可能ですが、日本が四つのプレートの境界線上にあって、だからこそ地震が起こるというのはわかります。台風もその威力は予測しがたいけれども、進路を追うことはある程度できます。でも、脅かすものが何かわからないというのは不安なのです。

 だから不安は、脅かすものがそのほうから近づいてくる特定の「ここ」や「あそこ」を「見てること」もない。脅かしをおよぼすものがどこにもないということが、不安の対象を性格づける。不安は、おのれがそれに対して不安がるものが何であるのかを「知らない」のである。・・・不安の対象において、「それは無であって、どこにもない」ということがあらわになる。・・・このことが手向かってくるとは、不安の対象は世界そのものであるということを現象的には意味している。(M.ハイデガー、同)

悪天候のときに飛行機に乗ると、飛行機は厚い雲の層を上昇し、雲の上と抜けます。そして着陸態勢に入るとき、また厚い雲の層を通るのですが、なかなか雲のなかを抜けないと、自分がどこにいるのかわからず、時間さえ止まったような感覚に陥るときがあります。雲が抜けぬまま、異次元に突入して永遠の雲の中を飛び続けるのではないか。車で夫とドライブに行ったとき、闇夜に深い霧に覆われたときもそうでした。

一様な世界というのは不安なのです。変化がないということは時間がないということで、一様だと場所も規定することができません。自己とは、時間と場所によって規定されるものです。「不安の対象は完全に無規定的なのである。」とハイデガーとしますが、だから、飛行機の翼の一部が着陸のためにちょっと作動したり、霧のなか、少し灯りが見えただけでも、救われたような気持ちになり、ほっとします。

今生きているこの世界で不安を感じるというのは、世界が自分にとって無意義になっているということです。いや、世界とはそもそも無意義なものだということが、不安によって暴露されたということなんです。

普段わたしたちが不安がらないのは、世人(das Mann)のうちへと自分を喪失しているからとハイデッガーは言います。だからこそ、不安は人間をその頽落から連れ戻すものだと。

不安は、最も固有な存在しうることへとかかわる存在を、言いかえれば、おのれ自身を選択し把捉する自由に向かって自由であることを、現存在においてあらわにする。(M.ハイデッガー、同)

自由というのは無規定だから、不安の裏返しでもあります。ある日突然、今日は自由だから何をしてもよいと言われたら、戸惑うでしょう。でも決めるのは自分。自分が自分はどうするかを決めるわけです。それは自分が自分を規定することであり、自分を規定するためには、自分が自分から出なければ規定できません。自分が自分から出るためには、まず自由―不安―な自分を自分が受け入れることです。

自分が自分を規定するとは、自分が一旦無に投げ出されて、無に自分で切れ込みを入れること。それは、生きる意味を問い存在している意味を問うということであり、それこそが実存するということなのです。

グリーフケアの場でよく耳にするのは、大切な人を失って生きる意味も失ったという言葉です。でも、それは生きる意味を問うている時点で、すでに自分が自分を脱しかけているからこそ出てくる言葉だと思うのです。めげないで、どうか生きる意味を問い続けてほしい。問い続けることにこそ意味があるのだから。



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