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グリーフ哲学をー「現」

昨年末、一人暮らしの母がホームに入居したので、結婚してからこのかた30年住んでいた横浜を去って、実家のある福岡に帰ってきました。自分がこれまで生きてきたなかで、一番時を過ごしてきた横浜。私の大好きな横浜。自分の出身地にもかかわらず、語尾もアクセントも福岡弁に戻ってきつつあり
(帰省した時には、しばらくいると戻ってはいましたが)、食べ物の安さ、
おいしさ、魚介類の安さ、新鮮さに幸せ~と思いながらも、横浜ロスは、
当分は続きそう、、、

横浜市は海のイメージがあるでしょうけど、住宅地になると、丘や森林や田園風景が広がっているところが多いのです。30年前、結婚してこちらに移り住んで、自分の持っていた横浜のイメージが限局的であることをはじめて知らされたのですが、住んでいた頃は、この予想外の恩恵を、十二分に享受していました。

主人が亡くなってから引っ越ししましたが、引っ越し前も後も、家の近くには、歩くのにやさしい木道が、あちこちに広がっていて、里山もある程度以上は開発せずに保存されていました。 

本格的に山野を歩きたいのならば、いざ鎌倉へ、も有りで、なんとも歩きがいのある環境に住んでいたと思います。             

面倒くさいと思っていても、緑の中を歩き始めると気もちがいいのは分かりきっているから、息苦しくなると、重い腰をあげて外に出て歩きます。森も深くなると、鳥の啼き声が聞こえ始めます。春になると、ほんの近くで鶯の啼き声が聞こえてきます。

鶯が啼く声を聞くと、あの日のことがふと甦ります。単身赴任先で逝ってしまった夫の下に、車を飛ばして義妹の家族と共に駆けつけたあの日。夫と対面したのは、午前3時過ぎくらいだっただでしょうか。

夫を自宅に帰らせてあげたかったので、葬儀社に依頼して手続してもらい、移送する車を待っていると、外のベランダから鶯の「ホーホケキョ」という声が、はっきりと何度も聴こえてきました。3月下旬に差し掛かる時期に、まるでお経を高らかと唱えているような澄んだ清らかな声でした。

その声を聴いて、夫は苦しみの果てに逝ってしまったんだろうけど、きっと心安らかに成仏するだろうと、夫の未来が開けてきたような実感がありました。そして、その想いは、わたしの行く末にもわずかながらの希望を抱かせてくれました。

到来、既在性、現在は、「おのれへと向かって」「のほうへともどって」「を出会わせる」というそれぞれの現象的性格を示している。この何かへと向かって、何かのほうへと、何かのもとでという諸現象は、時間性を、エクスタティコン、すなわち、脱自そのものとしてあらわにする。時間性は、根源的な「おのれの外へと脱け出ている脱自」それ自体なのである。だからわれわれは、到来、既在性、現在という、すでに性格づけられた諸現象を、時間性の脱自態と名づける。時間性は最初から一つの存在者であってその存在者がようやくおのれの内から外へと踏み出るというのではなく、時間性の本質は、諸脱自態の統一における時熟なのである。(M.ハイデガー『存在と時間』、原佑・渡邊二郎訳)

夫は亡くなってしまったけど、そのとき不思議と、鶯の声によって時熟した夫の「現」に居合わせたような気がするのです。夫の生は閉じられてしまったのですが、死という有限性を超えたところから、これまでの生の苦しみを振り返りつつ、鶯の声を聴いている現在。夫もその鶯の声をきっと聴いたと思います。その夫の「現」に、私もまた自責の念も入り混じりながらも自分を振り返り、そして、いずれまた死後に夫に会うまではしっかり生きねばと、自分の「現」が重なりました。鶯の声は、夫と私の「現」そのものなのです。

私たちが過去・現在・未来と呼んでいるものが、時間の流れとして元からあるのではありません。また、過去はこうだとか現在はこうですとか将来はこうだろうとか取り出して言えるものでもありません。現在とは、到来するものと戻るもののあいだに拓く「開け」です。わたしとは、向かうべく先取りし、戻るべく遡りながら、「今ここ」に居合わせているものなのです。

三好達治の詩に「湯沸かし」というのがあります。

たぎり初めた湯沸かし・・・・・・ 
それはお昼休みの 
小学校の校庭だ
藤棚がある 池がある 
僕らはそこでじゃんけんする
僕は走る・・・・・・ 
かうして肱をついたままの中に
たぎり初めた湯沸かし・・・・・・

「現」に在るわたしとは、たぎり初めた湯沸かしのようなものなのかな。

先日、実家の雨戸を開けたとき、鶯が「ホーッ」と鳴く声に、思わず
心がほどけて、温かくなるのを感じました。あれから、10年経ちました。

今、こうしているうちにも、祖国を追われ、故郷を失った人々がいます。
横浜ロスなんて騒いでいる自分は、なんと幸せなおバカさんでしょう。

私にはだいそれたことはできません。祖国を追われ、故郷を失った方々に、そこが起点となるような闇の中のひとつの灯となるような、そんな「現」が現れて、少しでも心がほどくことがあればと祈るばかりです。





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