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憧れは尊敬に変換し、上を目指せ。

憧れる人を羅列してばかりの人は、頂点を目指せない。

無意識にその「憧れの人」を模倣し、自分で天井を作ってしまうからだ。模倣した上にその天井を突き破っても、あまり得るものはない。それは、自分で作り上げたものではないから。

言いたいことをうまく言語化できる人間は、昔から憧れの感情を持たれやすい。現在の著名人、歴史をさかのぼると哲学者などがそうだ。しかしその人たちを崇拝してばかりの人間になってしまうと、ただの信者となりイエスマンでしかなくなるから、あまり公言しないほうがいいのではないかと私は考える。

私にも言語化がうまい著名人で好きな方はいるが、「自分とは意見が違うな」と思うものに関しては批判的な感情が起こる。本人にはわざわざ言わない。不快にさせるだけで何も生まれないし、そもそも人の考えなんて十人十色なのだから。

noteにもたびたび書いてきたかもしれないが、「憧れ」という感情を昔からあまりわからず、フォロワーの方にアンケートを取ったこともあるほど憧れの人を持ったことがほとんどない私は、最近になってやっとその感情が沸き起こる気持ちを知った。

しかし「人に憧れる」という感情は先に述べたような反論という思考を停止させ、「その人が言っていることだから正しい」という崇拝的思考を生み出してしまうので危険だな、と感じた。

憧れる人が違和感のあることを言っていたら、賛同しなくてもいいし、考えを貫き通せばいい。言った内容を反芻し本当にそうなのか自分自身でも考えてみないと、ただの復唱しかできなくなってしまう。そうすると何物にもなれないまま終わる。

憧れは思考を蝕むから、持たなくてもいいほどだ。

しかし全く憧れる感情を知らなかった私から、少し理解できるようになった今、「憧れは尊敬に変換できる」ということも知った。

尊敬に変換することで、自分との意見と切り離すことができるのだ。

憧れは、崇拝。神を崇めるように思うその気持ちは、自分の心の言語化がまだうまくできていないからではないだろうか。

心の言語化をするにはとにかく書くことだ。メモ帳でもなんでもいい。思いついたものを取りこぼさずにすぐに書いておく。この作業が自分の心の言語化に繋がる。

私は憧れだと言われることが多かったのは、その言語化が得意だからただそれだけだと推測する。

憧れと言われると嬉しいが、私の意見にすべて同意しなくていいのだと、きちんと自分の思考で反論があればそれでいいのだと言いたい。(ただしいちいち言ってこなくてもいい。そこからは何も生まれないから。)

私はそのような感情を他者にはこれからも持たず、素敵だと感じる人への感情は尊敬とし自分の言葉を生み出していくことに集中したい。

憧れは尊敬に変換し、上を目指せ。

山口葵

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