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【長編小説】 チュニジアより愛をこめて 10

 ――性的な関係の現場では、時として隠しようのない残酷性が浮かび上がる。それは、愛し合う仕草の始まりの時には、情欲と夢うつつのとばりの下に隠れていて見えないのだが、行為が深まっていくにつれ、……特に、終わりが見えかけてきた頃……お互いにお互いの体を確かめ尽くし、興奮と快感から醒め始めて正気に戻りつつある頃には、おもむろに頭をもたげて、姿を現し始める。そしてそれは、その日私が知った最大の真実だった。
 私は、今も昔も、彼が全く私を愛していないことをはっきりと知った。……彼の視線の行く先、私の体をう手の動き、握る力、抱き寄せ、髪に絡みつく指先の表情まで……。それが、愛しているものを心を込めていつくしむ扱い方であるかないかということを、今私は知ることができた。視線を合わせていても、彼の瞳は私を通り抜けてその向こうにある別のものを見ているようだった。彼はただ、欲望のおもむくままに、動物的な本能に任せて私を抱いているに過ぎなかった。愛情のこもらない愛撫が、どれだけ女を陶酔から醒めさせるか、熱のこもった口づけのないセックスが、娼婦を抱く以上のものではないということを、彼は考えてみたことすらあるのだろうか。……あるいは、自分が愛した女に対しては、彼は優しさや愛情を見せたのかもしれない。その考えは私の胸を引き裂き、惨めさをいっそう決定づけた。そして、二人とも汗だくになってベッドの上にくずおれ、身動きもできなくなる頃には、彼の見せた残酷性は、冷たく強張った橋梁きょうりょうを渡ってしっかりと私の方に移ってきていたのだった。
 それは、私を次の行動に駆り立てるのに十分だった。
 
 ――顔を起こして額に垂れかかった髪の毛を払うと、私は浴室へ急いだ。彼はベッドの上に身を起こし、煙草に火を点けようとしていた。
 浴室のドアを後ろ手で締めて、私は自分の呼吸が荒くなっていくのを感じていた。
 ――秒読みが始まった――。いよいよここからが本番なのだ。私は何ひとつミスをせず、綿密に練り上げた計画に従って、正確に行動しなければならない。何年も何年も、心からどうしても追い出せなかった苦しみが、遂に解消するのだ……。
 〝あと少し〟〝もうひと息だ〟
 ……先ほどからまた顔をのぞかせ始めた私の中の修羅が、相変わらず抑揚のない声で囁いてくる。私は今、修羅とともにあった。
「やり遂げる」
 そう呟いて。 



 ――シャワーで素早く体を洗うと、私は水栓をひねってバスタブにお湯を張り始めた。浴室に備え付けの入浴剤を入れると、かぐわしい芳香が立ち上った。その香りが部屋の方にも届いたのだろう、彼がベッドの上で身動きする音が聞こえた。バスタブの中ほどまでお湯が溜まるのを待って、私は浴室の扉を開けた。目が合うと、彼は眉を高く上げて顎をしゃくり上げる、彼独特の会釈をした。
「一緒にお風呂に入りましょう」
 私は精一杯の優しさを込めた笑顔を浮かべてそう言った。その時、彼に疑うような気配は微塵みじんもなかった。
 彼は私の後について浴室に入り、私が蛇口の栓を閉めるのを眺めて、満足そうに微笑んだ。……その時私は全裸のままだった。彼の手がそろそろと後ろから伸びてくるのを感じて、私は振り返り、浴室の壁にしなだれかかりながらこう言った。
「お茶を入れてくるわね。先にお風呂に入って待ってて」
 ――浴槽に入ってから後のことを想像したのだろう、悪くないなという顔をして、「OK. 」と彼は言った。
 浴室を出ると、扉をぴったりと閉め、私は自分のハンドバッグの置いてあるところに走った。そしてバッグの中から、白い粉の入った小さなビニール袋を取り出した。
 私はそれを、彼の飲んでいたティーグラスに全部入れた。そしてその上からスプーン一杯の砂糖を入れて混ぜ合わせ、新たに沸かした濃厚なフレーバーティーを注いだ。
 私は自分のティーグラスにもお茶だけを注いで、それらを両手に持って浴室に入って行った。彼はもう浴槽の中に長くなっていた。完全に安心し切って、リラックスしている。
「はい」
 私は微笑みながら、ティーグラスを差し出した。
「ありがとう」
 そう言って、彼はそれを受け取った。
 
 
   ―――――※――――
 
 
 ……緩慢な眠りが次第に訪れてくるまで、彼はずっとご機嫌だった。彼はついさっき味わった快感をもう一度はじめからやり直そうとして、浴槽の中でぴったりと寄り添った私の体を愛撫していた。……薬のせいだろうか、彼の手の動きは前の時よりも優しかった。
 でも彼は知ることはないのだろう、この薬が、私が彼の為に幾度も過ごした眠れぬ夜のあかしだということを。不眠症におちいった私は、心療内科で何度も睡眠薬の処方を受けていた。私は数日分、それを飲まずに溜めておいた。そして今朝、皿の上でスプーンを使ってこれらの錠剤を丹念につぶし、完全に均等な細かい粉になったそれを、ビニールの小袋に入れ、バッグに忍ばせておいたのだった。
 
 ――今や彼の手の動きは止まった。彼は、簡単に目覚めることはない、深い眠りに落ちていった。
 私は彼の顔をじっと見つめた。もう二度と見ることはないその顔を長い時間をかけて見つめ、手を伸ばして丁寧に触った。折り目正しくきちんと畳んで、そのイメージを記憶のもう開かない抽斗ひきだしに、永久にしまい込んでしまえるように。
 
 ――さようなら――。
 
 私は、私の計画を完全に終わらせる為の道具に手を伸ばした。それは、浴室の鏡の前に備えつけてあるカミソリだった。私はそれを手に取り、彼の左の手首にあてた。
 
 ――それ。今が 〝その時 〟だ――。
 
 私の中の修羅が、現実世界に飛び出してきて、あざけるような大声で笑った。あとは軽くひと筋、カミソリを引くだけだった。

 湯舟の中で十分暖まっている彼の体は、盛大に血を噴き出すことだろう。最高にご機嫌な夢の中で彼は命を落とし、冷たくなっていくのだろう。その時もう私はここにはいない。入念に洗われた皿とスプーンからは薬は見つからない。薬が見つかるのは、彼の体内と、彼の飲んだティーグラスからだけだ。「ありがとう。さようなら」と書いた遺書、、を残しているので、彼は睡眠薬を飲んだ後、手首を切って自殺したということになるだろう。そして偽名でこのホテルに宿泊していた謎のアジア人女性も、どこへ行ったのか見つからない。探そうとしても、どこにも手がかりはない。そもそも彼女は誰だったのか、誰にもわからない。
 
 私の計画は、これで完了した。

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