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【短編小説】 淡紅色の夕空

「リコ、来て来て」
 リビングのほうでマルテンの声がした。
「何ー? ちょっと待ってよ……」
 台所にいる莉子は眉間みけんしわを寄せ、ふくれっ面で返事をした。調理中に邪魔されるのは大嫌いだ。いま彼女はコンロの前に立ち、野菜炒めを作っているところだった。

「いいからいいから、ちょっと来て」
 やけに昂揚こうようした声で、またマルテンが誘った。まったく、何なのか……。野菜の固い芯の部分を先に炒めておいて、これから柔らかい葉の部分を入れようとしているところだ。マルテンが教えてくれた、中華街でしか買えない〝チャイニーズ・ソーセージ〟もこれから切らなければならないのに。

 渋々調理の手を止めて、莉子はマルテンのいるリビングルームのほうへ移った。二人で住むのには少し狭い、リビングと寝室とダイニングだけの小さなアパート。そのダイニングを通って、莉子はリビングに行った。
「もっとこっちまで来て……。空がすごーく綺麗」
 リビングの、マルテンの仕事机の横にあるバルコニーに通じるドアが開いていて、小さなバルコニーの向こうには一面薄いピンク色に染まった空が広がっていた。
「あ……」
 思わず莉子から声が出た。その空は確かに、夕暮れの時間帯に特有の胸を突くような切なさとともに、誰が見ても目を奪われるだろう絶景の様相を呈していた。
「ねっ」
 その景色に芯から惚れ惚れしているといった顔で、マルテンは莉子の顔をのぞき込んだ。
「わー、ほんと」
 莉子も、同じように笑顔を見せて言った。勿論彼女も、その人の世ならぬ景色に感動していた。ただ、彼女はそのボルテージが、目の前にいる恋人のそれとは違うことに気づいていた。
 マルテンの感動が、人のいい顔をした彼の濃灰色の巻き毛で始まる頭の先からいつもかけている眼鏡を通って、高くて大きい鼻、薄く開いたほど良い厚さを持つ唇、首もと、つまり彼の上半身を通って体全体に深く浸透していくようであるのに対し、莉子の感動は、前面から彼女に迫ってきて、真っすぐにその体にぶち当たり、一瞬巨大なインパクトを残して通り抜けていくといった感じだったのだ。
 自然現象の織り成す美に心から素直に感動して、何のてらいも無く鏡で跳ね返すようにそれを表現している彼に、莉子は数秒間見入った。そんな純粋なマルテンを、正直羨|《うらや》ましいと思った。

 二人は、いっとき黙ってその夕暮れの空を見ていた。開け放ったバルコニーからは、秋口の冷涼な風が吹き込んでいた。
 うん、と、納得したようにうなづいた後、莉子はきびすを返して台所のほうに戻っていった。マルテンの民族・・の人達なら、この流れでハグしたりキスしたりし始めるのだろうな、と、心の端で思った。けれど今、彼女は作りかけの野菜炒めのほうが気になっていた。マルテンの着ている黒いセーターいっぱいについた、大きめの毛玉と同じくらいに。

 早く調理を再開しないと、先に炒めたほうの野菜は冷えてしまってもう一度火を通してもクタクタになってしまう。そうなると後から入れる野菜との釣り合いが取れない。せっかくの野菜炒めが不味まずくなってしまう。それは悲しいruin台無しの行為だ。
 マルテンのセーターの毛玉と一緒だと、莉子は思う。その黒いセーターを気に入っていて、秋冬の間いつも着ているからあんなに無様ぶざまな毛玉だらけになるのだ。莉子が日本に帰った時に買ってきた、小洒落た黄緑色のセーターに取って替わられるまで、その黒いセーターはマルテンのお気に入りの座を維持し続けた。

 何でも気に入ったら、飽きることなくずっと愛用し続けるというところが、彼にはあった。私もその中の一つなのかな、と莉子は思ったことがある。彼のお気に入りの一つ、ずっと愛されるお気に入りの一つ……。
 悪くない、とその時は思った。それは一見彼の従属物のようなものだとしても、そうである限り、彼は自分から離れてはいかない、つまり浮気などはしないという安心感を与えてくれた。そして、かと言って彼が実際自分を〝所有物〟のように扱うかといえば、そうでもないのだった。マルテンはいつも莉子の意見を尊重し、どう思うか、どうしたいかということを尋ねてくれた。時にそれはあまりにも先鋭な質問となって、答えあぐねることもあるほどだったのだが。

 莉子は無言で台所に戻り、中断されていた調理を始めた。背中を向けたあと、マルテンがどんな様子でいたのかは知らなかった。ただ莉子が作り上げたチャイニーズ・ソーセージの入った野菜炒めを、白いご飯と一緒においしいおいしいと言って二人で食べた。

 ――何年も後になってから、莉子はひとり考えたことがある。あの時、あの夕空を同じ気持ちで眺めていたら、今も彼と一緒にいたのかもしれないと。あの頃自分の心を占めていた、いらないこだわりや余計な自尊心、無駄に張りつめていた心。今やっと見えるようになったそれらは、彼のいない長い時間が教えてくれたものだとしても。

 今でも目を閉じると浮かぶバルコニー越しの夕空は、あの時確かに隣にいた人の記憶と、甘苦い後悔を莉子に運んでくる。

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