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「チュニジアより愛をこめて」 第2話

 部屋に戻り、びろうど、、、、の高級感あふれるソファに身を沈めて、私はひとり物想いにふけった。地元産の赤ワインを部屋に持って来てくれるよう頼んでいた。パリを発つ直前に、チュニジアではしばらくの間ミントティーで過ごすなどと言ったことを思い出して、苦笑いした。とはいえ、今私はどうしようもなくワインを欲していた。飲まずにはいられなかった。
 ……パリで過ごした時のことが思い出された。あの人達は、今頃どうしているのだろう。遠く離れてしまった人のことを想う癖が私にはあった。今目の前にあるものよりも、遠くの、想像の中にあるものの方が価値があるかのように。……パリにいた時もそうだったけれど、いつも私は、時間的空間的に遠くにある人や物ごとに心を奪われてしまう。

 コン、コンと遠慮がちにドアがノックされ、ホテルの従業員が注文したワインを運んで来た。高級リゾートのボーイだけあって、やはり優雅な物腰と表情に品格も備えている。年齢がまだとても若いようで、浅黒い肌をしていて、背は低かった。彼は黙ったまま、伏し目がちにすました仕草で、チーズやなつめやしなどが可愛らしく盛りつけられた小皿と一緒に、ワインボトルと大きく膨らんだ形のワイングラスをテーブルの上に置いた。
「ご苦労様」
 微笑んでチップを渡すと、高級リゾートのボーイのプライドそのままに、チップの額の分だけ彼は微笑みを返した。
 
 Magonマゴン Majusマジュスと書かれたボトルは、びを感じさせないしっかりとしたたたずまいでテーブルの上に立っていた。ラベルには、華美を取り払い実直さを強調するかのように、横倒しにして並べられた沢山の醸造樽のイラストが配してある。そのボトルはなぜか、黒い民族衣装をまとった遊牧民の男の姿を連想させた。
 チュニジアのワインのことはよくわからないから、これと言ってリクエストはないのだけれど、この地方で作られたチュニジアらしいワインをお願い、と茶館を出る時に給仕係の男性に頼んでおいたのだった。ホテルはその曖昧なリクエストに応えて、このボトルを選んでくれたのだ。
 部屋を出て行く前に、ボーイがほんの少しの音も立てずに栓を抜き、下から上へ向かって大きく丸く膨らんで、徐々にまた小さくなって飲み口ですぼまっている柄の長いグラスにゆっくりと時間をかけてワインを注いでくれた。私はもうそれを味わうだけである。
 グラスを手に取って、大きく回しながら空気を含ませ、薫りを立たせてみる。あ、違う、と思った。コクのある芳香が、鼻先を包み込むように立ち上ってきた。それは、意外にも馴染みやすい、好ましい香りだった。
 薫りが鼻腔の奥の方まで届いて頭の中に落ち着くのを待ってから、私はグラスに口をつけ、ひと口飲んだ。果実の甘い芳香と少しスパイスのようなアクセントが小気味よかった。
「美味しい」
 私は一人つぶやいた。
 どこがどう、ということははっきり言えないのだが、これまで飲んできた世界各地で産出されるどのワインとも違うような気がするこのワインに心惹かれて、私はスマートフォンを取り出し、検索をかけてみた。
 Magonという銘柄のワインは日本にも輸出されていて、なかなか高い評価を得ているようだった。さらに、インターネットの情報は、このマゴンというのが人名で、カルタゴにいた古代のもっとも有名な農学者・醸造学者だったということを伝えていた。マゴンは、葡萄栽培の技術や複雑な仕込み方を『マゴンの農業書』という農業専門書の中にまとめ、それはラテン語やギリシャ語に翻訳されてヨーロッパに広まり、ワインがローマに伝えられたのだという。
 言わばワインのルーツというようなものを、私は今飲んでいるのだった。チュニジアが観光立国という華やかな顔の裏に、古代ローマにまでさかのぼる古い歴史を持っているということを思い出した。
 私は香りと味を交互に何度も試しながら、一杯目を飲み終えた。一杯と言っても、慇懃無礼いんぎんぶれいなボーイが上品にテイスティングの程度の量しか注いでいなかったので、すぐに飲み終わってしまったのだけれど。
 二杯目は、もっと自分らしく豪快に注いだ。小皿のチーズをつまんで一緒に味わうと、味は格別になった。このコク深いワインに合わせて、クセのある匂いの強いチーズを選んでくれているのだった。
 チュニジア人の、驚くほど繊細なセンスに私は感心した。
 二杯目を空けてしまう頃、段々心地良くなってきた。さっきの昼食のクスクスとこの芳醇なワインが、チーズを仲介者として臓腑の中で仲良く手を繋いでいるような気がした。
 ……感覚が開かれていくような感じがして、ソファに寝転がった私は、そのまま天井を見上げた。黄色を地色にして、水色や紫色の菱形を組み合わせて描かれた幾何学模様がとても美しかった。
 午後の遅い時間のまばゆい光が開け放った窓から射し込んで、ベッドボードの後ろの壁の上に、きらきらと黄金色の網目模様を描いていた。
 ワインの酔いのせいだけではない――。私は自分でもあきれるほど楽しんでいた。このような高級リゾートホテルに泊まったことは、もしかして誤りだったろうか? 目的に似つかわしくもなく、私は今、この部屋に、このワインに、この時間に満足しそうになっている。高い天井から下がる大きなシャンデリアに、私はしばらくの間うっとりと見とれていた。
 
 
 
 ――少しの間、眠ったようだった。寒気を感じて、目が覚めた。辺りを見ると、午後の光に満ちた魔術的な時間は消え去り、すっかり夜のとばりが降りていた。開け放った窓からは、そろそろ目をませと警告するような冷たい夜気が入り込んできていた。私は慌てて立って行って鎧戸よろいどを閉め、窓のロックをしっかりと閉じた。
 トイレに行きたくなって、バスルームに入った。そこは総大理石の空間で、大きなバスタブがしつらえてあり、その片側の中ほどの位置に、土台に載せるようにして電話機のような形をしたステンレス製のシャワーヘッドが横たわっていた。一八〇cm~二mほどはある、大きなバスタブだった。今夜、私はこの中にゆったりと浸かるだろう。旅の疲れを取るために、長く、リラックスして……。
 そして、明日にはこのバスタブは、別の用途で使われることになる。

 私の暗い計画は陰鬱な雲を呼んで、次第に結晶化しようとしていた。

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