春を言祝ぐ重み
それはヘビー級チャンピオン
人の春を寿げる者、それはヘビー級チャンピオン以外の何者でもない。アラサー独身女たちは素直に人の幸せを祝福することができないcreatureなのだ。それは好き嫌い関係なく、親しい友人にさえそうなのである。20代後半に差し掛かると恋愛や仕事に転機が訪れ、結婚や昇格というように着実に成功への階段を登って行く者が多い。その中で自分が取り残される立場になると、やはり心から春を寿ぐことはできないのだ。特に恋愛と結婚。いつか自分も春を迎える立場になれば、そんな不純な寿ぎに目もくれないくらい、幸せになれるのだろうか。ふと、そう考える時もある。周囲の人が春を迎える度に、自分はまるで緯度が正反対の冬の鎖国にいるような気分になるのだ。
Sex and the Cityのシーズン1エピソード3でこんな言葉がある。とある既婚女性が「独身女は青春を引きずっている。」と言い、サラ・ジェシカ・パーカー演じるキャリー・ブラッドショーは「独身女と既婚者の戦争は、北アイルランドのそれと同じ。基本的には同じタイプだけど、敵と味方に別れてしまう。」と言っている。
独身女は青春を謳歌するボーダーラインを超えてしまうと、あとは引きずるだけになってしまうのだ。そして、人の春を妬むボーダーラインに片脚を入れてしまうと独身女と既婚者の「暗黙の戦争」が始まる。既婚者もかつては独身だったはずなのに、永遠とも言えるmarried womenという勲章を手に入れると、価値観も人生観もまるで変わってしまう。そこにはお互いを思いやる気持ちはあるのだが、表面上の寿ぎのマジックに過ぎないのかもしれない。unmarried womenのレッテルを貼られた独身女は心の奥底では複雑な気持ちと愛憎で渦巻いている。勲章とレッテルの違いの差を改めて突き付けられる瞬間でもあるのだ。本当に泣きたくてやるせない気持ちでいっぱいになる。
そんな気持ちになるのは致し方ない。そして、相手の幸せを妬むことが必ずしも悪いというわけではない。なぜなら、人の春を傍から拝んでいる時は、素直に羨む気持ちもあるからだ。しかし、傍から拝んでいるからと言って完全に寿げているというわけではない。羨む気持ちと妬む気持ちの愛憎が交差しているのだ。妬む気持ちが少しでも羨む気持ちのボーダーラインを超えてしまえば、そこだけをトリミングされ、妬んでいる独身女が然も惨めかのように映ってしまう。逆に、羨む気持ちが妬む気持ちのボーダーラインを超えると、他人の春を寿げる素直で思いやりのある女性に映る。そのボーダーラインを超えたり、超えなかったり、独身女の感情はウォール街のトレードのように忙しない。また、その変化の振り幅は正にトレードのそれのように季節や時間毎に大きく変わるのだ。
私にも心から相手の春を寿ぎ、ヘビー級チャンピオンの王座を獲得できる時は来るのだろうか。そのチャンピオンベルトを得た暁には、今よりもっと素敵な女性になり、身も心も耀いているのかもしれない。でも、そんな不純物が一切ない春風がそよいでるような綺麗な心になれるのか、想像ができない。私は、もう少し青春を謳歌したいな。それもそれで、本当の春なのかもしれない。結局は、春の概念なんて各々で違うのだ。自分にとっての春が相手にとっての冬であり、自分にとっての夏が相手にとっての秋にもなるからだ。皆、各々の鎖国に囚われ、そして楽しみ、人生のシーズンを謳歌している。人の春を寿げることは素晴らしいが、自分の心のシーズンの変化を素直に受け止められる女性が1番魅力的なのかもしれない。