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白でもない黒でもないセピア

あの時のセピアが蘇る。横断歩道で手を上げ、春爛漫の表情で歩く女児。その屈託のない笑顔が神々しく見えてくる。まるで切り取られたセピア色の写真の一部のように、20年前の自分の姿が思い起こされるのである。何の穢れもなく、何の不安もなく、目の前には光しかなかったあの頃に。仕事の成績に追われる不安もなく、恋愛におけるフラストレーションも何もなかった。ただ与えられた宿題というタスクをこなしていれば良かったのである。親や担任の先生という絶対的な指導者の元、物事の正解や生活の安らぎを得られたのだ。そんなセピアに染まった思い出を懐かしみ、横断歩道を渡る女児を羨ましく思いながら、今日も私は「結婚を前提に」という恋愛にフラストレーションを感じている。

小学生の頃の好きな異性のタイプと言えば、大体が「走るのが早い人」が1番に出ていたような気がする。何と言う平和な応えであろう。理想もへったくれもない。結婚を前提に考えるアラサーになると「少なくとも○○」というように言葉の最初に「少なくとも」が付くのだから。それは、年齢、身長、収入、中身、その他全てに当てはまることだ。理想・理想・理想のオンパレードである。その内容の濃さは歳を重ねるごとにシビアになっていく。そして、その逆もしかり。自分も同じように異性からジャッジされているのである。白黒つける、またはつけられる年頃ということだ。童心のセピアに彩られた朗らかな気持ちには完全には戻れないのかと思うと、心ばかり切なくなる。それもまた、身も心も成長した証でもあるのだろう。

しかし、20代前半までのように「ただ好きだから」「ただイケメンだから」という単純な理由だけで交際に発展しなくなったのも現実である。少なくとも私は、付き合う前の数回のデートのシーンで、その人との同棲生活や結婚生活を思い浮かべてしまうタチであるからだ。それが1ミリも思い浮かばなかったり、ちょっとばかり嫌な予感がすると交際しようとも思えなくなる。少し気が早すぎるのではないかと思われがちだが、この心の白黒をつける作業はとても大切なのではないだろうか。特に、1分1秒でも特別な時間にしたいと思うアラサー独身女子にとっては。それとも、少しはセピアな心を持ちつつ大人な女性である部分を全面に出していけば、もっと恋愛が上手くいくのだろうか?それをある意味妥協とでも言うのだろうか?考えれば考える程に思考がループしてしまうのが、アラサー独身女子の恋愛の醍醐味なのである。

そして、恋愛とは各々や相手のカラーで彩られていくものである。それは白黒つける、またはつけられる前提であるのだが、そのベースの色がなければ上手くカラーリングさえできない。人生経験や感情の引き出しが多ければ多い程、そのカラーバリエーションは豊富になっていくのだ。そして、そのカラーバリエーションが増えていく毎に、また結婚に1歩近付いていくのではないだろうか。セピアな気持ちを振り返ったとしても、その道が真っ直ぐで鮮やかであれば、無駄なことなど1つもないのである。