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#ワプニック博士
バイロンケイティと癌患者パムとの対話
一元論のスピリチュアリティとは、純粋な非二元のスピリチュアリティのことコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)とはどのようなスピリチュアリティなのか?
というなら、
純粋な非二元のスピリチュアリティであると言うことができます。
もしくは、一元論のスピリチュアリティと言い換えることもできます。
では、そのスピリチュアリティを学んでいくことによって私たちはどうなっていくのか?
というなら
神聖になろうとするのではなく、神聖さはそこにただ在るものです
コースをスピリチュアライズすることについてコース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)を学んでいこうとしたとしても、なにせ、コースが教えている内容がとても難解なわけです。
それゆえに、コースの学びのプロセスにおいて、何のためにコースを学んでいるのか?その目的を見失って迷走しまうことはよくあることだといえましょう。
特に、自分は真面目なコース学習者であり、神聖なコース学習者だと思っているコース学習
形而上学は、所詮、形而上学でしかなく、形而上学があなたを目覚めさせるわけではない
コースが教えている内容のシンプルさが見えてくるときコース(奇跡のコース/奇跡講座)の形而上学を理解することはコースを実践していく上で必要不可欠であるということは言うまでもありません。
ただし、私たちがわきまえておかなければならないのは、形而上学は、所詮、形而上学でしかないということです。
形而上学をいくら理解していったとしても、それが自分の人生のすべてに適用されていないならば、もしくは体現され
ワプニック博士のインタビュー記事より
しっかり地に着いた覚者ワプニック博士のとあるインタビュー記事がとても印象的です。
インタビュアーがワプニック博士に、
「日常の実践で、普段、ワプニック博士が心掛けていることは何ですか?」
と質問した際に、ワプニック博士はこう答えたのです。
「自我と同一化しないようにすることです」と。
ここで、ワプニック博士は、「聖霊と共にいることです」というふうには回答しなかったということに注目すべきだ
「自我を咎めずに見る」という訓練について
親切でいなさい「親切でいなさい」とワプニック博士は云います。
ちなみに、これは行動レベルでのことを云っているのではないということを覚えておかなければなりません。
もちろん、行動レベルでそうあることに越したことはありません。
コース(ACIM/奇跡のコース/奇跡講座)は、あくまでも心のレベルにおける訓練なのだということを忘れてはなりません。
というのも、もしコースの教えを行動レベルのものと
本当に目覚めたいのか?それとも夢を見続けたいのか?
何のためにコースを学ぶのか?その目的は?コース(ACIM/奇跡講座/奇跡のコース)を学ぶ目的は何か?
何の目的でコースを学んでいるのか?
それを明確にしておくことは、コースを学んでいく上ではとても重要です。
なぜなら、その目的がちがったものであるなら、その学びもその実践もまったくちがったものになってしまうからです。
コースを道を歩んでいく途上において、ときに退屈さだとか、つまらなさ、虚無感、
『ア・コース・イン・ミラクルズ』のイエス、聖霊について
コースの教えを通して言葉を超えていくコース(奇跡のコース/奇跡講座)の学びが深まっていくと、つまり、コースが教えていることの内容を真に理解するようになると、コースそのものがすべて比喩で書かれてあるということが分かってきます。
コースはキリスト教用語や心理学用語を使って書かれてあるわけですが、その内容は純粋な非二元の教えであり、つまりは、この世を超えたもの、言葉を超えたものであるということです。
「兄弟の中に愛を見る、兄弟の中のキリストを見る」ということについて
自我/幻想を看過して見るコース(奇跡のコース/奇跡講座)では、「兄弟の中に愛を見なさい、兄弟の中のキリストを見みなさい」というふうに述べられています。
なので、私たちはついその言葉通りに、「相手の中に愛を見る、相手の中のキリストを見る」というような実践をしてしまうことになります。
ここで私たちがよくよく理解しておかなければならないことは、相手を自分とは異なる他者として知覚しているなら、他者の中
自我そして自我がしていることに対して「イッツ・ノット・OK」と言いなさい!
真理を否定していることをOKとはしないコース(奇跡のコース/奇跡講座)の実践で私たちは何をしていくのか?
というと、「赦し」の実践を通して自我を咎めずに見るということをしていくということです。
その自我とは、まさに私たちのことです。
それというのも、私たちは、今や自我と同一化してしまって、もはや自我となってしまっているからです。
その自分(自我)は、毎瞬のように、攻撃、裁き(ジャッジメント