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ジマーマン
2024年10月2日 21:22
他者を理解すること、他者を認めること。理解、あるいは解釈や考察は、自己、ある視点、ある立場からの納得を目的とすることから逃れらないだろう。それは他者を自己、視点、立場の理解等に適用させようとすることでもある。それとは違い、見る、聞く、読むことは、どこまでもただそうである現実を認めることである。もちろん社会にはある程度納得は必要であるし、自分に訪れた運命を、ただそういう運命だったと受け入れるにも
2024年8月2日 22:12
僕は”踊り”はできないけど”踊る”ことはできる。音楽にノッては不器用に身体を動かし、至るところで踊っていることだろう。踊りと踊るは違うことだと思う。踊りは技術がいるが、踊ることは誰にでもできる。踊り/踊るをあえて二項対立的に分けるのであれば、文化/自然、行為/反応、能動/受動、意味/無意味、開/閉、外/内、目的的/非目的的というようになるだろう。踊りを表現行為と考えれば、それは文化であり行為
2024年7月9日 21:13
最近友達から親密な人との話を聞いた。僕はその人と友達の関係が「名前のない関係」という名前の関係のように思った。それは結局友達や恋人と同じで、一つの名前が付けられた関係なのではないだろうかと。そもそも名前がないということはどういうことだろう?名前とは人間が事物に対してつけるものであり、世界には名前の付けられていない事物もある。しかしそれらの事物は名前がなくても存在している。ただ存在している。そ
2024年1月12日 21:44
はじめに愛についての問いがあった。「愛する」とはどういうことだろう。人を愛するという行為はどういうことかという問い。しかし、この問いについて考えているうちに、いつのまにか行為の世界から言葉の世界に迷い込んでいた。行為の世界に戻るために、ひとまずこのテクストを書くことにした。迷い込んだきっかけは「I love you」という英語だ。ここでの「love」は状態動詞となる。つまり「私はあなたを愛して
2022年12月6日 22:18
作曲家、ピアニスト、アコーディオン奏者である、Leo Svirskyのアルバム、「River Without Banks」を聴いた時、僕は粒子的音像世界の中にいた。2台のピアノによる、密度の高いアルペジオで紡がれる音像世界。一つの音を構成する、一粒一粒の粒子を表現しているかのように感じる。この音像世界には、高解像度で見ることとは違う、別の見方があることを思わせてくれる。高解像度によって忘れ