見出し画像

ただそうであること

他者を理解すること、他者を認めること。
理解、あるいは解釈や考察は、自己、ある視点、ある立場からの納得を目的とすることから逃れらないだろう。それは他者を自己、視点、立場の理解等に適用させようとすることでもある。それとは違い、見る、聞く、読むことは、どこまでもただそうである現実を認めることである。
もちろん社会にはある程度納得は必要であるし、自分に訪れた運命を、ただそういう運命だったと受け入れるにも納得は必要だろう。納得とは、広い意味で法=規範で、それは生に必要であり生を支える。
ただ、究極的にいえば法=規範だって、ただそうであるとしか言えない。法=規範は、ただそうであるということを抹消し、それを真理、自然であるかのようにする(異性愛やモノ恋愛が多い傾向にあるのは、ただそうであるだけであって、究極的な理由はなく、真理、自然ではない)。

ただそうであること、それは短命である。それはとてもとても儚い。ただそうであることは、最初の出会いにおいてしか生きられられないのではないか。ただそうであることは、慣れによって法=規範になる。「そういう人もいる」、「そういうこともある」というのは、慣れのはじまりであり、そして納得でもあるだろう。しかし、この納得は理解や解釈や考察における納得とは違う。そこには諦めがある。赦しがある。否定がある。
理解等の納得は否定なき肯定で、認めることの納得は否定がある肯定ではないだろうか。否定があるということは否定が抹消されずに存在しているということだ。否定がない納得には、他者はいない。否定がなければ、共に生きることにはならない。

ただそうであることをただそうである法=規範にしつつも(例えば誰でも理不尽に生を奪われるのはただ嫌なわけで)、それはただそうであるだけで真理や自然ではなく(そもそも生は、真理や自然ということは関係なく、理由はなく、ただ肯定されなねばならない)、そして法=規範に含まれないただそうであることがあることを認めながら(それを法=規範に含めることが必要な場合もあるだろう)、共に生きていく。ただそうである世界を。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?