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清潔感に関する価値観は、愛を超えられるのか?

先日中国語のレッスンで、異なる考え方や生活様式の差をどこまで許容できるか?という話になった。

私達の授業は台湾人の先生と私も含めた生徒2人、合計3人で展開するグループレッスン。授業は大学のゼミのような感じで、一つのテーマに沿ったラジオドラマを通してそれぞれの考え方を話し、討論する。今回のテーマは「国際結婚」

✳︎ 国際結婚、「あり」か「なし」か✳︎

一つ目のテーマは「国際結婚、『あり』か『なし』か。」これについて、私は『あり』。
理由は、日本人同士でも価値観の違いや生活習慣の違いの差は必ずある物で、程度の問題だと思うから。だから国籍が同じかどうかより、お互いに違いがあることを認め妥協点を探したり、目をつぶる事が出来るか出来ないかという柔軟性の度合いの方が鍵なんじゃないかなぁ、と思った。

✳︎価値観が全く一緒じゃないと付き合えない?✳︎

実はこう思い至ったのには背景があって、以前親しくしていた男性(日本人)が「俺達、価値観全く同じだよな。てか、同じじゃ無くなったらもうお終いだよな」を連発する人で、結果的には細かい部分での価値観が違うことが段々浮き彫りになるうち、疎まれ憎まれ最終的には散々なことになったのだけど、その過程で「一人一人バックグラウンドが違う以上、価値観が全く同じという事はありえない。」と私自身強く実感したこと。

またそう思いながらも実際は、嫌われたくなくて相手に合わせ続けているうち、どんどん本来の自分からかけ離れてしまい、今冷静になってその男性と親しかった頃を思い返すと、その時期は自分史上一番自分らしさや自主性を失ってたし、何よりその見捨てられることへの不安が相手に伝わった事が、結果的には相手から軽く扱われたり泥沼化した原因になったのだと感じるからだ。

✳︎クラスメートの意見と先生の反論✳︎

一方、クラスメートは国際結婚には消極的。そこで「じゃあ理由は?」と先生はツッコむ。

それに対してクラスメートが言ったのは「言葉の壁」。すると先生は更に続けて「えー、それは大丈夫でしょう。後は?」。すると「うーん・・」としばらく考えてクラスメートは言ったのは「本人同士は良いとしても両家の親はコミュニケーションが取れないから」。すると今度は先生が言葉に詰まる。「うわぁ、それを言われると心に刺さる・・・。だけど言葉と物理的な距離があるおかげで逆に嫁姑問題は避けられそうだとも言えないですか?(笑)」

そんな苦しまぎれの反論に、思わず私も笑ってしまう。

✳︎私の意見と先生の反論✳︎

次は私の番。
前述の自分の意見を言ってみる。すると先生は「でもやっぱり育った国が違うとそのあたりの差は大きいんじゃないかな。例えば僕がフィリピンにいた時にルームメイトだった欧米人は、『ベッドはもともと汚いもの』という認識だったから、夜家に帰った時に自分が汚れていても、汚れているベッドは汚れている自分に相応しい、という感覚。だから汚れたまま寝て、シャワーを浴びるのはいつも朝でしたよ。しかも日によっては靴を履いたままベッドに乗ってた。どう?これ、許せますか?」

マジか。これは思いのほか手強い。フィリピンだと暑くて湿度も高いので、汗もかく分、臭そうだしベタついてそう。何よりベッドの中に砂や土やほこりが入り込むのもキツい。そしてシーツも毎日換えないのなら、それらの汚れは数日分積み重なるわけで、そんな状態ならきっと菌も増えたりするだろう。うえぇーーー。

とは言え、そのフィリピンのエピソードは兵役中の話なので、環境も登場人物も清潔感のレベルが全体的に低め設定なのかもしれない。(と言うか、そうだと信じたい)

一方私は実は少し潔癖気味なところがあって、海外旅行に行くとき、行先によってはシーツ替わりになるパレオを持っていく。そして汚かったり臭かったりダニや虫がいそうな時にはベッドの上にパレオを広げてその上で寝るし、お風呂上がりに昼間履いた靴を履くのが嫌で、海外には必ずビーチサンダルを持って行く。更にもしホテルに置いてあるタオルが汚かったり臭い時の為に、必ず手ぬぐいを持参する。これだけ揃ったら、正直「潔癖」を否定するのはなかなか苦しい。

もちろんベッドを共有しない関係性なら、相手が多少汚くても相手のベッドが汚くても、自分が使うベッドさえ清潔であれば全く問題ない。でもそれが結婚相手となるとそうもいかないだろう。ましてその場合、場合によってはその汚いベッドで服さえ無・・(以下略)。けど、実際もしそうなったら翌朝一体どれだけダニに噛まれているか・・・想像しようとするだけで鳥肌が立つ。

授業でそこまで具体的に考える私が変なのかもしれないけれど、改めて考えると清潔感は無意識的に感じる命の危険にも繋がっているからなのか、意外と妥協しようと思ってもなかなか出来ないものだ。

それで私が言ったのは「えー、やだ。そんな欧米人はやめときます!笑(←反射的に出たホンネ)」だった。ぐぬぬ。くやしい。・・・1ラウンドであっけなく完敗。

✳︎自分が思った以上に私って潔癖なのかも?!✳︎

私は自分があちこち海外に行く中で、トイレで拭いた紙をゴミ箱に捨てるのも平気だし、パクチーや香辛料も好きだし、辛すぎなければ甘すぎる料理も未知の味もグロテスクな物も割と平気。

だから日本人の平均よりはほんの少し上程度の異文化への許容量はあると内心自負してきた。でも実際は日本国内なら大前提として靴を脱ぐ習慣があるし、スリッパもある。ある程度の清潔さは大抵どこでもそれなりに担保されている。今まで自分の清潔感をそこまで大きく妥協する事など具体的に考えもしてこなかったけど、こうやって「共有」という観点で改めて考えると、清潔感というジャンルの価値観についての私のハードルは、日本で生まれ育った時点で自分の認識以上にデフォルトから高め設定なのかもしれない。もっとも、異国の多少受け入れ難い環境も、もししばらく居れば段々慣れるものなのかもしれないけれど。

✳︎弟の清潔感の感覚は?✳︎

そして「清潔感」と言えば、少し前に弟とネパールの山間部のトイレの話でやたら盛り上がったことがある。ちなみに弟は以前国際的な企業に勤めていてアメリカにいた時期もあるので、汚れたベッドに関しては多分許容出来る人だと思う。(実際、帰省したときでも友達と飲んで遅く帰った日はそのまま寝て朝にシャワーを浴びている)

その弟が「ネパールのトイレはマジでヤバイ!」と言うのだ。

弟が言うには、ネパールの山間部のトイレは単なる溝で、かろうじてちょろちょろ水が流れているけどブツを押し流す程の水量はなく、結果、日本の清潔さの中で育った自分から見ると、仮に自分が「大」をしようとする場合、しゃがむ時点でどうしてもこれまでの使用者の溜まりに溜まって異臭を放つブツが丸見えな上、出した直後も溝が浅い上になまじ水分があるために、跳ね返ってくる汚物をとても避けらるとは思えず、跳ね返りを浴びることで何かしらの病気に罹患するリスクを考えると恐ろしくて結局滞在中は用をたせなかったと言う。

そして「あんな溝なら、寧ろ何もない草むらに野糞の方が全然ハードル低いのに・・」とも言っていた。

✳︎下手な水洗より野糞の方がハードルが低いという謎の感覚✳︎

うんうん。それ、めっちゃ分かる。
野糞ならある意味トイレは常に新品だし無駄な水分が無いから跳ね返りの心配も無いし、他人の汚物を見る事もないし、通気性も良いので匂いも篭ってない。更に自分が用をたした後も、上に土なり草なり何かを被せたら隠すこともできるし、隣の人との間の壁はなくても草という仕切りがあって、たとえ草の背丈がしゃがんだ自分を隠すほど高くなかったとしても、自分との間に物体があると言う心理的安全がある。そしてなんなら万が一持ち歩いている芯を抜いたトイレットペーパーをきらしたとしても、野糞なら手近な草で拭くことも出来るかもしれない。

凄いやん。何も無くても環境完璧やん。野糞最強!野糞ばんざい!まぁ大体こんな感じで、弟との野糞礼讃トークは終わった。

✳︎日本人の清潔感が異文化と接触したとき、何が起こるのか✳︎

日本人の清潔感に関する価値観が異文化と接触した時、日本人はそれぞれ何を考え、何を感じるのか。またそれは長期と短期で変わるのか。

私には未体験の事、未知の事がまだまだ沢山ありすぎる。そしてその時、私は一体、どんな反応を示すのか。改めて考えると、とても興味深い。もっともっと、色んなものに触れてみたい。

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