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考えが止まらなくてしんどいのですが、止める事は出来ますか!?【すでに悟っている】

Q、
考えが止まらなくて
しんどいのですが、
止める事は出来ますか!?


A、
普段から目と呼ばれているものも知らずに、
目が目の前の視界を見えちゃっている
そのような働きがあります。

普段から耳と言うものも知らずに、
何もかもが聞こえちゃっている事実があります。

空の無常に移り変わる天気のように、
感情と呼ばれているものも、
身体の感覚と呼ばれているものも、
宇宙の発露として、生じては滅していて、
連続性はなく、常に新しい「今」が生じています。


思う、考えるも、
宇宙の一部の無為の働きです。

仏道で云うところの
「意」の働きです。


「意」は身体と呼ばれているものに
もともと備わっている機能なのですから、
止める必要はない、
意図して止まるものでもないのです。

思う、考えると云う機能は、
人間と呼ばれている
身体にとって、大事な機能です。


世間では思考を鎮めようと、
宇宙の無常の無為の働きを
どうにか理想的な状態・境地へと、


たとえば海において、
理想的な波の状態を望み欲し、
状態に固執するかの如く、

一定の状態・境地へ運ぼうと
奮闘する姿がありますが、

無常の宇宙の発露に抵抗して、
そのように
理想的な状態が得られるように
創意工夫して作為するものの方こそが、

仏道における
すでに実体のない
消滅すべき自己に他ならないのです。


作為して
そのような実践を行じているうちは、
ブッダが2600年前に指し示した、
真の悟り、解脱、
真の禅の見性の体現(体験・体感・気づきではない)
の道が塞がれてしまい、

真の悟りが
御自身の中で明確とならずに、
決着する事がなく、
違う道を歩み続けることが
一生続くだけになってしまいます。

「私」
とは概念であり、

「考えそのもの」

「観念そのもの」

実体のない
「考え上のアイデア・造り事」

であって、
すでに
物理的には実在してはいないのです。

自分が感じようとしなくとも、
感情や身体の感覚が
縁に触れて自然と働き、

自分が思おう、
自分が考えようとしなくとも、
思いや考えが
どこからともなく
自然と出ちゃっています。


ですから、
自分と言うものを認め立てて、
後追いのものに「心」と名付け、
心意識の運転を働かせて、

「感じよう」

「聞こう」

「思おう」

とせずして、
自分なく、
心と呼ばれているものを
働かせる事なく、
すでに自分なくやれてしまっている
六根の
実物事実自体の
今の実物事実自体の様子そのものがあり、

ですから、
すでに


「無我無心」


なのです。


ですから、

「すでに悟っている」
のです。


これから知識を身に付けて学んで、
頑張って、努力して、我慢して
難行、苦行の先に得られて
至るものではないのです。


「この心身が自分で、自分が存在している」

と言う、
ありとあらゆる無数の観念の中心に鎮座している
思い込み、錯覚がありながらも、

法としての「如来の見」の
法性としての在り様は、
すでに80億人やれてしまっていて、
その自他の対象のない、
生じては滅している無限の「今」からは、
決して離れることは出来ないのです。



すでに悟ってはいますが、
ですが、
何十年も身体と呼ばれているものを
自分だと認め立てて、
身体側に自分がいるとしか
思えなくなっちゃているので、


すでに自他の対象が無限にない
この無限に拡がる
宇宙の法としての在り様の中において、

錯覚の自己があたかも
固定的な実体があるかの如く、
差し挟まってしまっており、

その錯覚の自己が
自他の認識が完全に一度停止するともに、
すでに実体がないのですが、
完全に錯覚の自己を忘じ切る事によってでしか、

2600年前の釈尊が指し示した
真の悟り、解脱、禅の云わんとする事が
体現として決着がつかず、
ハッキリする事がないのです。

実感が湧かないとは思いますが、
誰しもが
開いてはいませんが、

「すでに悟っている」
と云うことが、
概念的に
ご理解頂けたかと思います。

ですから、
悟りと申しますと、
インドを連想される方が多いですが、
上記の通り、
開いてはいませんが
すでに悟っているので、
わざわざインドへ
難行・苦行に行かなくていいのです。

インドは
信じている方には申し訳ないですが、
今は完全に地に堕ちています。

何故なら、
非二元・ノンデュアリティの
「体験・体感・気づき」
が、
悟り、解脱であると、
世間一般でも思い込まれているからです。


当然日本でも、
お坊さん達も含め、
禅・悟りではないものが
禅・悟りだと思い込まれてしまっています。
禅師・老師の見性のお話しを伺えば、
その方達が話している禅の見性は、
甚だ勘違いなものがほとんどです。


日本でも1900年代に、
道元禅師などの書物が云わんとするものを
直接身体で直覚している者が、
2600年前のお釈迦さんが指し示した
真の悟りの灯が、
完全にハッキリして決着している者が
伝統が
途絶えかけました。


今でも正統なものを正しく指導できるものは
30名程度だと思われます。

日本では
ブッダが指し示した悟りと呼ばれているものの
真意をよく把握していないままに、
非二元・ノンデュアリティが悟りだと決めつけ、
世の中に違うものを悟りだと称して流布されております。

今のインドや日本の禅・悟りではないものを
「悟り」だと思い込まれてしまっている現状を
釈尊がタイムスリップしてきたら、
激しく憂うか、怒るかと、


そのように思うのです。

(時間は概念であり、
現実の事実は、
過去→現在→未来とは、現実の事実はそうなってはいない)


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