見出し画像

「魂」にも寿命がある、という話。

※自死についての話題を含みます。ご注意ください。

スピリチュアル的なことについて勉強したことはないのだが、私は個人的に、人間には「肉体の寿命」の他に「魂の寿命」がある、と思っている。

「魂」というとどうしても「そっち」方面に寄ってしまうが、今回私が言っている「魂」は死後の世界の話ではなく、生きている人間の魂の方で、つまり「精神」と言い換えても問題ない。要は、PCで言うハードウェア・ソフトウェアの「ソフトウェア」の部分だ。
ハードウェアの寿命が先に来れば「病死」、ソフトウェアの寿命が先に来れば「自死」に至る――そういう概念が自分の中にある、という話である。

もちろん、肉体と魂の健康度合いは連動するはずだ。「健全な魂は健全な肉体に宿る」し、逆もまた然りであることは、自分の身を持って体験した。

数年前の私の精神は風前の灯火だった。毎日毎日、「自分が死んでも大した問題にならなくなる日」がいつか考え、その日が来るのを指折り数えて待っていた。そして2度の流産と、それに対する夫のリアクションが一切なかったことにブチ切れた私は、ネットゲームという飛び道具の導入によって、魂の残りゲージのV字回復を果たした。
そして元々健全と言い難かった私ではあるが、精神の健康がガクッと損なわれたのは、息子を生んでから8か月ほど経った後――産後はじめて再開した生理が止まらず、少量ながらも出血が1か月以上にわたって続いたために、重度の貧血を起こしたタイミングだった。肉体の疾患が伝播する形で、負荷のかかっていた精神も閾値を超え、はっきりと疾患にかかった。そういう状況だったのだろうと思う。

ネトゲのお陰でうつ状態から復活後、毒親への下克上イベントまでこなした私は、アラフォーの今がこれまでの人生で最高に「健全な精神状態」である。このまま行けば今後はもっと健康な精神を手に入れられるだろう。
だが、経年劣化や突発的なハード障害で肉体の健康が保てなくなれば、恐らくまた精神的にも落ちる。肉体の死の間際には、「一日でも早く死にたい」と願っているはずだ。実際、死を目前にした父や、中学生の頃に亡くなった母方の祖父、小学生の頃亡くなった父方の祖父もそういった状態になっているように見えた。特にガンのような苦痛の大きい病気で死に至るならなおさら、そうなるのが自然でもある。魂にも、生老病死は訪れる。それは死ぬ本人にとっては救いにもなり得ると、そう思っている。周囲から見てどうかはともかくとして。

小学生の頃、大好きで大好きで大嫌いだった本、ミヒャエル・エンデの名作「はてしない物語」。当時の私はバスチアンへの共感性羞恥が発動してしまって、後半を全く受け入れられなかったが、大好きだった前半部分に「憂いの沼」の話がある。
その憂いの沼には「太古の媼」モーラがいて、長く生き過ぎたために「どうでもいい」というスタンスで辛うじて生きている。が、「どうでもいい」と無関心を装いながら、実際には自覚も薄いまま「終わり」を望んでしまっている。
当時の私はこの描写を、「魂の寿命」だと感じた。悠久とも呼べる時間を生きられる亀を死なせるのは、絶望ではなく「憂い」なのだと。

人間の精神には寿命がある。「憂い」がある以上は。
「憂い」を持たない、あるいは知らない、もしくは「憂い」を自らの意思で手放すことが出来る人の魂は、きっと無限に近い寿命を持つことが出来るのだろう。100歳を超えてもまだ「長生きしたい」と笑顔で話すお年寄りや、人生を熱血に語りまくる前向き一辺倒なシニア層などをメディアで見ると、そういう感想を持つ。
だが私のように毒親育ちだったり、そうでなくても傷を負ったりして、物心ついたころには既に憂いがあり、憂いを遠ざける方法すら知らないまま生きていく人間の魂には、寿命がある。
そしてあえて言う。あえて言うが、そのまま憂いを溜め込み続けた魂の寿命は恐らく、足掻いても30歳から35歳あたりで尽きる。
精神疾患はその寿命を短くするだろう。だがそこまで至らなくても、憂いを遠ざけることも出来ず、ひたすらにやり過ごそうと耐え続け、もがき続ける人間はきっと、そのあたりで限界に達し、自死に至ってしまう――そんな風に、私は思っている。

大した根拠とは言えないが、私自身の魂の寿命は32歳か33歳か、そのあたりで尽きかかっていた。ちょうどその頃、従兄弟が自死した。彼についての話を書こうとしたが、筆が重すぎていつ書きあげられるか分からない上に、読み物として面白くなる気が全くしないので、先に切り離して書くことにしたのがこの「魂の寿命」の話だ。
私は自分が産んでしまった息子に対する義務感だけでその時期をギリギリ生き残り、さらにその後「ゲームに没頭し、そこで希望を見つける」という、我ながらどうなんだ?と思うような方法で、それでもとにかく魂の寿命を延ばすことに成功した。
魂の便利なところは、体と違って、尽きかけた所からでもガガッと寿命を延ばすことが可能だということである。

魂の寿命は無限にはならないが、尽きる前ならば特効薬はある。
「希望」だ。

「希望」がなくても、生きてはいける。だが、生き続けることは出来ない。息継ぎせずに泳ぎ続けるようなものだ。
そして、「楽しみ」や「喜び」は「希望」に極めて近いが、それが「今」のものでしかない限り、明日を生きる力にはならない。今日を生きる力にはなるのだけれど。

希望は、期待と言ってもいい。未来に向けたそういう何かがなければ、魂の寿命を肉体の寿命よりも長くしておくことは、できないと思うのだ。
明日、来週、来月、来年。10年後。30年後。
今よりももっと楽しいことがある。きっと素敵なこと、面白いことがある。大した根拠もなくそれを信じることが出来なければ、日々積み重なる「憂い」がやがて致死量に達し、人の魂は死んでしまう、そう思っている。

「希望」は、難しい。
希望を見せようとする人は古今東西、大量にいる。分かりやすいのは宗教だろうし、具体的なのは自己啓発だ。娯楽に類するコンテンツは、あらゆる種類の「楽しみ」「喜び」を提供し、それらの未来を思い描くことで、私のように「希望」を持てる人間もいる。50年後のゲームとか、絶対ヤバいぐらい面白いでしょ。やりたい。90歳になってもゲームできるのか私。いや、やれるようになりたい。そう思ってダイエットをし、煙草を加熱式に変え、最近の私は人生で初めて、「長生きしたい人」として生きている。

だが、別にゲームを好きでない人に、私と同じ希望を持てとは言えないし、言ったところで響くわけがない。いや、例えゲーム好きでも同じように思えるかどうかは分からない。

かつて抱いた期待を裏切られ続けたから、「憂い」を持ってしまったはずだ。
今も期待しては裏切られ続けているから、「憂い」をひたすらに溜め込んで、魂の寿命を日々削りながら、生き続けているはずだ。
そんな傷を負って、今も負い続けている人が、他人の「長生きすれば良いことあるよ」なんて無責任な言葉で「そうだね!」なんてお気楽に信じられるわけがない。

「救い=希望が必要だ」と自覚し、それを求めて宗教に駆け込める人はまだいい。希望が必要だということを知っている。つまり、希望を持っていた時期があり、希望が何かを覚えている。
問題なのは私のように、生まれてこの方、希望なんてものをロクに抱いたことがない人。あるいは、ずっと昔に失くしてしまって、希望がどんなものだったかさえ忘れてしまった人。
つまり、「人間が生きるのには希望が必要だ」なんて全く意識できていない、6,7年前の私のような人だ。

ずっとずっと、水の底でなるべく酸素を消費しないように生きてきて、「息継ぎをする」必要性を知らない、そんな人は、間違いなく過去の私以外にもいると思う。期待して期待して裏切られ続けて、もう期待などしたくないしする気もない、そんなものは自分には必要ない、自分が希望を持つようになど一生ならないだろうと、そんな風に思っている人が。
でも、期待しなくてはいけない。絶対に裏切らないと思える何かを見つけて、「希望」を見出さなくてはいけない。そうでなくては、やがて生き続けられなくなってしまう。「憂い」の沼の中で、息が続かなくなって。

少し、心配している人がいる。私なんかにそう言われるのは、その人自身は心外だろうけれども。
分かったような口をきくな、俺の何を知っているんだ。そう言われたらぐうの音も出ない程度の関係だけれど。
別に私より若いイケメンだからといって心配しているわけではない。いや、ちょっとそうかもしれない。っていうか単純に若い人には生きて欲しい。税金ガーとか年金ガーとかでもなくて、もっとこう、何となく。何だろなこの気持ち。これがオバチャン精神?

とにかく、何となくこう……「魂の寿命」を感じさせる人が、見える所にいるのだ。他にも危うい人はいるけれど、特にその人は危うい。そう思ってしまう。
勝手に重ねられるのは双方にとって迷惑千万なのはわかっているけれど、亡くなった従兄弟に、どこか似ているように見える人が。人の目を気にしてカッコつけすぎている所とか。自分自身の矛盾を忘れられないでいて、自分でそれを許すことも出来ずにいる所とか。漠然とした、こう……ちょっとイキった感じの雰囲気とか。実際にカッコいい外見をお持ちの所とか。結局顔かよ。はいすみません顔です。

私の面食いは置いておくとして、そういう「魂の寿命」を削りすぎてしまっているような人が、「希望」を見出すには何が必要なのだろう。
それを思いつけるようになったら、私も新興宗教の教祖的なすんごい何かになれるのかもしれない。別になりたくもないけども。

でも、そうだな。私は人類の文化や科学が発展し続ける、とは漠然と信じている。それはつまり、「娯楽」が発展し続けることを期待できる素養だった。だから実際、「ゲーム」が進化し続けることを無条件に信じられたし、それが希望になり得た。作る立場には回れそうにないから、受動的な希望ではあるけれど。
だから彼のような人も、一生をかけられると思えるほどの「好きなもの」を見つけられるなら、それは希望になるかもしれない。
一生とまでは呼べなくても、ひとまず明日、来週、来月、来年ぐらいまで好きでいられるものがあれば、「来年のアレ」を想像することで、魂の寿命がきっと一年延びる。もしも家庭や子供を持って、「大きくなった我が子」を想像して楽しみにできるなら、20年か30年延ばせる。「孫の成長」「ひ孫を見る」までいけるようなら、相当に長寿の家系でも、肉体の寿命を全うするに足りるだろう。

「はてしない物語」、私の嫌いだった後半パートを貫くテーマは、アウリン(お守り)の裏側に書かれた「汝の 欲する ことを なせ」だ。
この言葉の方でググると、「汝の意志することを行え」という「セレマ」なる哲学のwikipediaが出てきた。うげ、めんどくせ。
ミヒャエル・エンデがここから取ったのかどうかよく分からないが、「欲することを為せ」だなんて、どこが児童文学なのか。これより難しいこともないだろう。「欲することを知る」だけだって、難しすぎるのに。

ただ、それが出来れば生きていけることは間違いない。魂の寿命的に。
遥か昔に「憂い」を知り、魂に寿命を持ってしまった我々としては、少しでも、一つでも、「欲すること」を探し当て、それを何とかして為しながら、あるいは為すために悪戦苦闘しながら、それを希望として、「憂い」を遠ざけていくしかないのだと思う。

たとえそれが「ゲーム」だろうと何だろうと、希望になるなら、それでいいのだ。とさりげなく自己正当化をしておいて。

「希望」を持てないでいる(ように見える)その人が。
そして他にもきっと沢山いる、同じように希望を持てない人が。
魂の寿命を延ばせるぐらいの、「憂い」を遠ざけられるような何かを、来年の、再来年の、10年後の楽しみになるような何かを、どこかで見つけられますように。

魂の寿命とそれを伸ばす方法、偉い人たちがサクッと研究してくれたりしないかなぁ、ダメかなぁ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?