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年金1級からの社会復帰①うつ・退職・離婚にいたるまで


自分より幸せな人間がいて、自分より不幸な人間がいる。

それは誰しも同じですが、
僕はきわめて平凡な人間だと思ってますので、少なからず共感を覚える人がいることを信じつつ書いていきます。

最悪から今にいたった

 にも書きましたが、30代半ばの僕の体調・精神状態は人生最悪でした。

発達障害の特性か分かりませんが、中学校までの僕は「やや落ち着きのない変わった子」でした。

とはいえ友達がいて、部活を楽しみ、さしたる問題なく成長していきました。

普通人の範囲かと思います。

が、10代半ばから少しずつうつが忍び寄り、楽しみが減り、感情の動きが鈍っていきました。

趣味や遊びや好きなマンガ、いろんなことが楽しめなくなりました。

彼女を作っても、その子のためにカッコつけるどころかセックスをせがむだけでした。
(そんな男はフラれて当然です。)

大学在学中にうつ病・統合失調症の診断を受けてを2回留年し、社会に出てからは、ストレスに耐え切れず休職・復職をくりかえしました。

そしてまったく仕事に行けなくなり、退職や離婚を経験します。

なぜそんな人生になったのか?

すねに傷のない人間ではありませんが、理由は全く不明でした。

そこから現状(クローズド就労・生活に支障なし)にこぎつけた、その経緯を書いていきます。

孤独に慣れてしまった

退職後は格安シェアハウスに住むことになりました。

そこには貧乏なだけの人もいましたが、自分と似たような人も多く、共用の郵便受けには病院や年金機構からの郵便物があふれかえっていました。

共有スペースも汚く、冷蔵庫からは変なにおいがしました。

部屋は四畳半より狭かったです。

ほぼ寝たきり状態だった僕は再就職もできず、親からもらった「手切れ金」のようなお金を食いつぶしていく毎日でした。

その頃はSNSもやっておらず、リアルの友人との関わりもほとんど断っていたので、日本語すら忘れてしまいそうでした。

僕の関わってきた人たちはほとんど健常者でした。
 はその経緯から学んだことです。)

精神的に多少の問題を抱える人はいましたが、ともかくみんな普通に働き、普通に生活をしています。

なので、障害者の自助グループに参加しようという発想もありませんでした。

むしろ、うつのどん底にいるとき、僕は障害者を(自分を含めて)毛嫌いしていました。

自分の弱さを認めたくない感情が強すぎたからです。

僕の生まれ育った環境は、実力がモノをいう世界でした。
学力(学歴)です。

戦績が良かったので、僕は好きでそういう場所にいました。

知的好奇心が旺盛な人間ではありませんが、努力・根性・勝利が好きで、十代はずっと机にかじりつき、点数ではっきり勝負が決まる定期テストや受験にずっとやりがいを感じていました。

(※ちなみに  は健康体になってから編み出したテクニックです。)

得意不得意の違いで他者の気持ちが分からない典型例として、僕は「教育虐待」という概念があまり理解できないタイプです。

点数で負けることが悔しく、「勉強しろ」と言われることが腹立たしく、自発的に机に向かっていたクチだからです。

そんな僕に両親はほぼ無関心でした。

しかし、そうやって国立大の修士まで出た人間が、周囲に期待されることは当然「有名企業に就職・エリートコース邁進」です。

社会に出てしまった

「有名企業に就職」までは何とかいったのですが、僕はたった半年で休職してしまいました。

原因は極端なストレス耐性のなさ。

そしてじわじわと濃くなっていったうつがとどめを刺しました。

大学・大学院で一年ずつ留年し、ようやく社会に出たものの、組織で要求されたものは、受験勉強とは正反対、大量のマルチタスクという、身に着けようとしたこともない能力でした。

そして、仕事でミスを犯した時に試されるのはお客や上司との対話能力、そして勉強とは違った意味での学習能力です。

僕はそれらをカケラも持ち合わせてませんでした。

結果、平日のストレスが積み重なり、家に帰ってはそれを思い出して何もする気がなくなり、友達や彼女には自虐的な話ばかりしていました。

大学の半ばから通っていた心療内科に「そろそろ休んでもいいと思います」と言われ、僕は休職しました

福利厚生が厚いのをいいことに、一年以上休んでいました。
毎日布団に寝そべっていました。

当時は会社を辞めてワーキングホリデーにでも行こうかと妄想していました。

これは母親の影響で、昔のインテリのトレンドである高学歴バックパッカーだった母は、ちょっとヒッピーぽい考え方です。

20代だったので、遠く離れた場所へ行けばストレスのない世界があると、僕は夢を見ていました。

とはいえ、日々の仕事すらこなせない自分がそんなこと実現できるはずもありません。

結局、復職し、休職し、をくりかえし、退職にいたりました。

それを機に、大学院時代から付き合い籍を入れていた相手とも離婚しました

その時、僕の自己肯定感は人生で一番下がっていました。

自身の実力でもって人にものを申す、そういう事を生きる糧にしてきた人間がこれ以上ないくらい明らかな形で落ちこぼれたのです。

…はい。
たいへんに陰々鬱々としたストーリーですが、大抵のドラマの出だしなんてこんなもんだと思ってください。

次章は、それからどういう生活を送っていたのかの話です。

以上です。

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