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個人的な栞(しおり)として皆さまの作品をピン留めしております。ヒマなときに見てもらうと、ひょっとしておもしろいかも。
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#短編小説

マリー・セレスト号のしつらえ

マリー・セレスト号のしつらえ

短編小説

◇◇◇

 妻が今日から三日間、里帰りで家を留守にする。

 おれは仕事の都合もあり、家に一人で残ることにしたが、これを束の間の自由と捉えて、独身時代のように夜の町に繰り出して羽を伸ばそうなどとは思っていなかった。会社帰りにデパートの地下食品売り場を覗いて、惣菜や晩酌のつまみを何品か買ったら、どこにも寄らずに真っ直ぐ帰宅するつもりだった。

 退勤後に夕暮れの目抜き通りを歩いて、大きな

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13 雑然の命│随想詩

13 雑然の命│随想詩

ぼくの命は雑然としている。

何もかもが中途半端であり、とっ散らかっている。

おそらく一生このままだろう。

と思ったが、そう思うのはやめる。

この野放図にばらけていくぼくの関心が、ある日、美しく白き雪の結晶へと向けて、空気中の微塵の埃のひと粒から、軽々と成長を始めないとも限らないからな。

けれど一生このままでもいいのだ。この現状肯定こそがすべての基礎なのだ。今ここでの現実を認識しないことに

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一番最初に言い出した人がいる

一番最初に言い出した人がいる

5月○日 晴れ時々くもり
誰が一番最初に言い出したのだろうか。何を思ってそんなことを。

誠一郎はかく語りき

 軽籠坂を上りきった先にこの辺りではひと際大きな家がある。二階建ての立派な家屋に広い庭、北原さんの家だ。
 配達の帰りに坂を上ると、北原さんの家の庭で葉を茂らせている背の高い木が目に入った。うっそうと生えている葉の隙間にくすんだ黄色の丸い実がいくつかなっている。
 びわの木だ。
 もうそ

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小説|北風と体温

小説|北風と体温

 北風は道ゆく彼女に話しかけます。風の声は、彼女の凍える紅い耳へ届きました。上着ではなく、ただ彼女の涙を吹き飛ばしたくて、日も雲に隠れる寒空の下、北風は彼女にこう語ります。

「より暖かい上着を着るのもよいでしょう。マフラーを巻き、手袋をつけるのもよいでしょう。カイロを懐へ忍ばせるのもよいでしょう。風の届かない建物で暖をとってもよいですし、暖かい地へ引っ越してもよいでしょう。

 去った夏を思い出

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鼓膜

鼓膜

 自分の鼓膜を見るのは初めてだった。思いもよらない事だったが、彼は自分の一部に見惚れた。
 自覚症状はないのだが、聴力が落ちていると、定期健診で言われた。彼は事務担当で、職業的には耳に負担はかからない仕事のはずだ。元々、静かなオフィスでひたすらキーボードを打っていたが。最近はすっかりテレワークが定着したので、彼もその波に乗り、オフィスよりもさらに静かな自宅でひたすらキーボードを打っている。いまや耳

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小説|コーヒーが冷めるとき

小説|コーヒーが冷めるとき

 おばあさんは眠るまえにコーヒーを飲みます。「眠れなくなるからやめなさい」とおじいさんは毎日のように言いましたが、おばあさんはやめません。「うまいんだから仕方ない」

 近所の人に会ってもあいさつをしないことも、お医者さんに止められているのにお酒を呑むことも、めんどうでお風呂に入らない日があることも、おじいさんは何度も注意しましたが、おばあさんは聞きません。

 おじいさんはとつぜん亡くなりました

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邪悪な龍の子ども

邪悪な龍の子ども

 子どもの龍を拾った。たぶん、子どもなのだと思う。ひざに乗せられるくらいの大きさだし、目は大きくてつぶらで、全体的に丸っこくて愛らしい。龍と言えば見上げるくらい大きなものなのだと思うから、たぶんこれは子どもだ。もちろん、それがわたしの龍を見た最初だから、正確なところはわからない。その大きさで大人だという種類の龍の可能性だってある。
 雨の降る夜だった。わたしはアルバイト帰りで、クタクタで、コンビニ

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