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マチネの終わりに

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#ギター

『マチネの終わりに』第七章(47)

『マチネの終わりに』第七章(47)

「パンでも焼くよ。」

 蒔野はそう言って、食パンを二枚、トースターに入れて、冷蔵庫のペリエを飲んだ。

 明け方、《アポロ13》を見ながら眠りに落ちてしまったのだったが、その中で、テレビのニュース解説者が語っていた一つの台詞が、目覚めのあとも、しつこく頭に残っていた。

「……大気圏に無事突入するには、2・5度の幅の回廊を通らなくてはなりません。角度が急だと摩擦熱で炎上しますし、浅すぎると、池に

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『マチネの終わりに』第七章(46)

『マチネの終わりに』第七章(46)

 自分はこれまでの生真面目な人生の中で、それほどの罪は犯していないはずだった。今後も犯すことはないだろう。自分の罪が飽和するには、まだ随分と余裕があるに違いない。長い人生の中で、ほんの一瞬の出来事だった。ただの出来心。それが果たして、自分という人間の本質だろうか? この先ずっと、人並み以上に善良に生き続けるのであるならば、あのたった一つの罪にも、目を瞑ってもらえるのではあるまいか? そういう自分は

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『マチネの終わりに』第七章(44)

『マチネの終わりに』第七章(44)

 洋子の存在が彼にとって良い作用を齎さないということは、誰かが冷静に見極めなければならなかったのではないか。そんな苦し紛れの理屈を捻り出して、仕舞いには、こう自分に言い聞かせるのだった。――自分がその役目を果たした以上、何があっても、蒔野の復帰を実現しなければならない、と。……

 早苗がひたすら待つことに徹していた半年を経て、蒔野はさすがに、彼女の自分に対する肩入れの意味をもう疑わなかった。最初

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『マチネの終わりに』第七章(42)

『マチネの終わりに』第七章(42)

 一度だけ、蒔野から電話があって、こちらの携帯に洋子から連絡はなかったかと確認を求められていたが、彼女はそれに対しては、嘘を吐く必要もなく、ただ「ありません。」と答えただけだった。そして、信じ難いことに、彼女の犯したこの哀れな罪は、どうやら露見しないまま、現実をすべて彼女の思惑通りに変えてしまったらしかった。その経緯は今以て謎だったが、つまり、蒔野と洋子とは、あの夜を機に、恋人同士ではなくなったの

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『マチネの終わりに』第七章(41)

『マチネの終わりに』第七章(41)

 蒔野は、会えば会うほど武知を好漢だと感じ、その「きちんとした」という言葉がピッタリの演奏も信頼していたが、それがまた、彼の音楽活動を行き詰まらせていることもわかるだけに、折々、やるせない気分になった。

 遠慮すべきことでもないので、蒔野は気を遣いながらも三曲のうち二曲はリハーサル中に話し合って楽譜に手を入れ、もう一曲のラヴェルのピアノ協奏曲のアダージョは、一旦引き取って全面的に書き直すことにし

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『マチネの終わりに』第七章(40)

『マチネの終わりに』第七章(40)

 蒔野はそれを、自分の演奏に対する、最も鋭利な批評であるように感じていた。祖父江が言っていた、「もっと自由でいいんですよ。」という一言とも呼応し合っているようだったが、実感としてよくわかる割に、言葉で考えようとすると、雲を掴むようだった。

 どうして洋子といつもスカイプで会話していた頃に、この本を読んでおかなかったのだろうかと、彼は後悔した。彼女と話がしたかった。そういう話題を、あまりに多く抱え

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『マチネの終わりに』第七章(39)

『マチネの終わりに』第七章(39)

 勿論、一本調子で状態が改善されてゆくわけではなかった。技術的にはまだ不安定で、上機嫌で練習を終えた翌日には、それに懐疑的になるほどすっかり落胆してしまうこともあった。それでも、最初に比べれば比較にならない進歩で、悪いなりに満たしている水準も確実に上がってきていた。

 客観的に、蒔野は自分がどういうギタリストなのかを再認識した。

 自分は演奏技術の特に運動能力の部分に関しては、ほとんど苦労知ら

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『マチネの終わりに』第七章(38)

『マチネの終わりに』第七章(38)

 医師は、祖父江のことも蒔野のことも知らなかったが、担当になってから興味を持ったらしく、CDにサインを求められ、以来、リハビリの説明も、楽器の演奏を例に出す機会が増えた。

 蒔野は演奏家として、そんなことを一々気にしながらギターを弾くわけではなかった。

 神経科学についても、定説とされている話を、漠然とイメージするに過ぎなかったが、演奏に関して、芸術表現がその陳述的記憶に、運動能力が非陳述的記

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『マチネの終わりに』第七章(37)

『マチネの終わりに』第七章(37)

 酷い有様だった。しかしとにかく、目の前の楽器を弾けないというあの耐え難い苦しみは、終わったのだった。それを実感し、安堵すると、彼は、自分がつい今し方まで捕らわれていた恐ろしい場所を振り返った。そして、もう二度と戻りたくないと心底思った。

 皮が薄くなってしまった指先には、弦の摩擦の初々しい痛みと熱が残っていた。どこか照れ臭いような喜びが、全身に染み渡っていった。

 ――なぜ一年半もかかってし

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『マチネの終わりに』第七章(36)

『マチネの終わりに』第七章(36)

 蒔野は、まるで先ほど、洋子のことを考えていたのを見透かされたかのようなその忠言に動揺した。そして、唇を固く結んで頷くと、自分に言い聞かせるように、「……ええ。」と言った。

 練習を再開した日、蒔野は、長年、演奏の前に自らに課してきた独自の柔軟体操を、最後のためらいを説き伏せるようにして入念に行った。

 腕だけでなく、呼吸を意識しながら全身を隈なく解してゆく。手足口病に罹って両手の爪が剥がれて

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『マチネの終わりに』第七章(35)

『マチネの終わりに』第七章(35)

 そういう世界が、こことは違った、どこか別の場所に存在していて、その幸福に浸っている自分というのも、いるのかもしれない。何の不思議もなく、まさか、あのまま彼女と別れてしまった世界を生きている自分が存在していることなど、夢にも考えたことがなく。自分はなぜか、貧乏クジを引いてしまって、そっちの世界ではなく、この物寂しい世界の方を割り振られてしまった。――蒔野は、池の水面に、陽画のように映し撮られた青空

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『マチネの終わりに』第七章(33)

『マチネの終わりに』第七章(33)

 蒔野は、ようやく老人介護施設への入居が決まった祖父江が、旧朝香宮邸の庭園美術館で催されているアール・デコ展を見に行きたいというので、介添えをしながら、その話をすることにした。

 祖父江はまだ会話が不自由で、展示を見終わったあとは、美術館の名前の由来にもなっている広々とした庭園を散歩しながら、蒔野が一人で喋り続けた。

「しかし、アール・デコっていうのは、パリで見るとあんなに豪華で色気があるのに

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『マチネの終わりに』第七章(32)

『マチネの終わりに』第七章(32)

 一年半もギターに指一本触れていなかった蒔野は、復帰までには、最低でも一年は必要だろうと慎重に考えていた。早苗と結婚した後、木下音楽事務所の担当は、五十嵐という若い男性社員に変わっていたが、蒔野の復帰に関しては、社長も直接に関与していた。勿論、グローブの野田もミーティングには必ず出席した。

 準備期間が短すぎるという不満を、蒔野は、日程が提示された直後から訴えていたが、現実を語っているつもりでも

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