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オーストラリアの思い出⑤最終回 ラストwwoofと今に繫がること

パーマカルチャーガーデニングデザインコースを終え、クィンーズランド州、デジャーデンゆかりさん宅でのwwoof生活が始まった。

スパイラルハーブガーデン、レイズドアップガーデン、チキントラクター、バナナサークル。
いろいろなパーマカルチャーのデザインが広い庭にて実践されている。

もりもりした庭が楽しそう♪♪

ゆかりさん宅でのwwooferはなかなか忙しい。
wwoofというのは、一応半日だけ働くことになっているのだが、ゆかりさん宅では家事や子どもの世話までするので、何気に全日(勿論ゆっくりする時間もある)。その分、たくさんのことを教えてくれて経験もさせてくれるし、あちこち連れて行ってもくれた。wwooferの間では勉強になるけど、ちと大変という評判も・・・

しかし、たかだか一ヶ月の滞在。
思いっきり楽しむのだ!

ジュジュとステファン
あれから20年、イケメンになっているに違いない。
彼らの相手は体力仕事。若い時で良かったあ。
草取りや耕耘の労力を軽減してくれるチキントラクター

青いドームはチキントラクター。鶏を飼い、生ゴミなどの餌をやる。草も食べるし糞は土にかえり大地を肥やす。手前の野菜などが取り終わったら、チキントラクターを移動させて、鶏に耕してもらう。

ぼくは若い時分、「欠けている」人間だったので(今もかな😉)、動物と心を通わせるのが得意だった。
有機農業研修生時代の畑の猫たちと犬、竹富島の水牛、そしてここの鶏。
ある日、鶏たちがギャーギャー騒ぐ日があった。
ベランダに出てぼくが口笛を吹くと不思議と鎮まる。
もうひとりいたwwooferは少しびっくりしていた。ぼくは人間より動物に近かったのかもしれない。
少し先の話になるが竹富島のぼくが世話した水牛は神奈川への里帰りからぼくが戻るとはね飛んで喜んでくれた。水牛のその姿にぼくは驚いたが。

ワラビーが出るところに連れて行ってくれたり
海辺のフィッシャーマンズレストランに
連れて行ってくれたり。
オーストラリアでぼくは初めて
フィッシュ&チップスを食べて大満足。
オーガニックショップにもよく連れて行ってくれて
マカデミアンナッツバターの味にもハマったなあ。


いろいろと農作業、ガーデニング作業をしつつ
料理や掃除洗濯まで。
庭で摘んだバジルを小麦粉と混ぜてビールを入れて発酵させてパンを作ったり、とても美味しく焼けた。
パン作りは大変だったが楽しい作業だった。
(日本に帰ってから同じようにビールで試したが上手く発酵せずカチコチのパンばかり出来た。その時買ったデロンギのオーブンは今では妻が焼き芋を焼くのに使っている。)

旦那さんのアーノーはモーリシャス出身。結婚式場の神父の仕事をしていた。

1か月の間、他のwwooferと重なったり、当時ぼくが付き合っていた彼女が日本からここまでやってきて数日一緒にwwoofしたりとしているうちにあっという間に一ヶ月は過ぎた。

ぼくは日本に帰国してから、一度だけゆかりさんと再会することが出来た。東京代官山の公民館でゆかりさんがパーマカルチャーの講演会をすることになり、そこで再会を果たした。

その後、ゆかりさんは日本でもさらに有名になり毎年のようにパーマカルチャーの公演、さらに趣味でやっていたアフリカンダンスのパフォーマンスで来日するようになっていた。
ぼくは竹富島という日本の端っこの離島に住んでいたので会うことは叶わなかったが、活躍ぶりに感心していた。

この旅から7年後の2009年8月の終わり、パーマカルチャー仲間から連絡が来た。
「ゆかりさんが来日中に亡くなったよ」
富士エコパークというところでパーマカルチャーの講演とアフリカンダンスのショーを行っていたゆかりさんは踊っている最中に心肺停止で亡くなった。
そのまま登り詰めて次元上昇してしまったのだろう。とてもパワーと情熱に溢れた人だった。

きっとまた、生まれ変わってそのエネルギーを
地球に注いでくれているに違いない。


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ゆかりさん宅でのwwoof生活を終え、最後のwwoof滞在をする家が決まった。
今度はゴールドコースト。
日本でも有名な観光地だ。

太陽燦燦、ゴールドコースト

ここでは写真のようなリゾート地ではなく、少し内陸に入ったところにあるジョンとソフィアの家に滞在し、彼らが働くパーマカルチャーや有機農業を子どもたちに教える学校で作業を手伝うことが、ぼくの仕事だった。

堆肥や土を運んだり、耕したり
藁でマルチをしたり。もちろん草取りも。

ジョンは見た目結構なおじさんで、ソフィアはハリウッドスターみたいな美人だった。何歳かは聴かなかったけどジョンとかなり差があるのではないかと思う見た目の若さだ。そして、ソフィアは話をする時、かなり近い。
かなり近くに顔を寄せて目をジッーと見つめてくる。とても近い。気恥ずかしくドキドキして、
きっとぼくは顔が赤らんでいたに違いない。


I'm  lucky!とジョンは言った。ソフィアと結婚できてluckyだということだ。
ぼくが日本語の感覚でluckyと言うときは、結構、軽い感じで使うが、ジョンのluckyはほんとに感情がこもり、重みがあった。
やはり、現地で会話しないとわからないものがある。このシリーズの②で登場したビッキーの家でぼくはジーザス・クライスト!と言ったことがある。ぼくは軽く使ったのだが、その時ビッキーとトムはテル、どうしたどうした!?と必死の形相で駆け寄ってきたことがあった。
軽々しく使っては行けない言葉だったのだ。

ジョンとソフィアは週に一度、ジョンはヨガの教室にソフィアはヴィパッサナー瞑想のコミュニティに通っていた。
ぼくは驚いた。オーストラリアに来る前にヴィパッサナー瞑想の十日間の京都の合宿に参加していたからだ。ぼくはそれが初めての瞑想体験でとてもきつく、辛く、これは無理だとトラウマになるほどだったがソフィアは毎朝早く起きてそれを一時間実践し、週一で必ずコミュニティに参加していた。
今なら、二人についていけば良かったと思うが、
その時はヨガに行くには言葉が・・・と思ったり、当時はそれ程ヨガには関心がなかった。
そしてヴィパッサナーはトラウマっぽくなっていて自分には無理だと思っていた。

しかし、オーストラリアにはヴィパッサナーのコミュニティがあちこちにあると聴き、ぼくは感心した。
オーストラリアの人々はパーマカルチャーや東洋の瞑想、ヨガを受け入れてるんだと。



ジョンはある時ぼくに聴いてきた。
「テル、なんで戦争が起きるんだと思う?」
「エコノミー」とぼくは答えた。
その通りだとジョンは答えてニッコリとした。
ソフィアはキョトンとしていた。
ジョンが本気の英語で説明するがソフィアはキョトンとしたままだった。
今なら更に深くこの世界の支配構造まで話せるけど、当時はアメリカ=悪くらいにしか思ってなかった。

今のユーラシア大陸の騒乱はぼくの立ち位置からは真実を見極めるのが難しいけど、色んな思惑が絡み合いまくってるんだろうなと思う。資本家、政治家、武器商人、国際団体、宗教、民族、スパイ、核、原発、石油、天然ガス。右往左往するのは、生活が困窮するのは庶民ばかり。
いい加減にしてほしいものだ。

ジョンとソフィアの家での滞在も終わり、ぼくは帰国の途に着いた。
その後オーガニックレストランでバイトをしたり南伊豆の奥地で居候をして田舎暮らし体験をしたりした。
この頃には沖縄に移り住むことに心にに決めていた。再び、ぼくは製薬会社でバイトをしお金を貯めた。仕事は一生懸命やったが心にぽっかりと大きな穴が空いていた。
とてもとても大きな穴だった。

その当時ノリッジという瞑想をならってやり始めたが、まだまだ理解も体験も足りなかった。

もう、行かなきゃだめだな。
オーストラリアから戻った4年後の29歳の秋にぼくは恋い焦がれる沖縄の島々へと旅立った。


オーストラリアの思い出(完)


あとがき🐨

ヨガをするジョンと瞑想をするソフィアの家が最後となったオーストラリアの旅。
この時、ぼくが今ほど熱心にヨガと瞑想に取り組むことになるとは、一つも思っていなかったですが、こうして振り返ると、とても示唆的な最後の家だったなと思います。

竹富島でも鹿児島に越してきてからも、庭やプランターで何かしら育てていましたが、ここ数年、今の家に住み、今の勤め先に勤め始めてから野菜を育てるということをしなくなってしまったけど、また、やりたいなあと思う氣持ちがどんどん高まってきています。noteの皆様の影響も大きいです。北海道でアートテン農法に取り組む「笑みな農園」さんの[ねじねじ]ファンタスティック過ぎます✨


今の家だとスペースがなくやる気も出ないので引っ越しも視野に入れつつ。(プランターでの栽培を出来る家になりそうです。)

最初から最後までお付き合い有難うございました!
パーマカルチャーを伝える場所は日本でも増えているようです。
前回記事のコースの講師、ジェードはスタート スモールと常々言っていました。
小さく始めて続けられるように。

ご一読、誠に誠にありがとうございました!


オーストラリアの想い出シリーズ➀〜④


はぁぁ 

旅したい!!


最後に大好きな曲、
ジョン・レノンの
War is overを。


それぞれの心の平和が実現されますように🙏

ナマステ✨

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