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聖書と信

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聖書はひとを生かすもの、という思いこみだけで、お薦めします。信仰というと引かれそうですが、信頼などの信として、ひとや世界を大切にする思いが、少しでも重なったらステキだな、と思いつ…
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2022年9月の記事一覧

告発者と罪

告発者と罪

「告発」とは、辞書的にいうならば、「悪事や不正を明らかにして、世間に知らせること」をいうものらしい。法的には、「犯罪とは関係のない者が捜査機関に犯罪を申告すること」という感じのようだ。
 
聖書で「告発」という言葉は、このような意味で使われているようには見えない。なんと、神がイスラエルを告発する、というような言い方がいくつもあるのだ。他に目立つのは、使徒言行録の終盤になって、パウロの取り扱いに関し

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説教批判

説教批判

「説教批判」という言葉がある。世の中には「批判」という言葉を聞くと、それだけでもう血が頭に上る人もいるが、ドイツ思想を少しでも知る人は、穏やかに応じるはずである。カントの「批判書」が物語っているように、「批判」とは、日常日本語で用いる「検討」または「吟味」という程度の内容を指す語と捉えているだろうからである。しかし、やはりただの「検討」とは違う。「検討」なら自分ひとりでもできるが、「批判」は恐らく

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いのち

いのち

教会での礼拝説教はいのちを与えるはずだ。これまでも幾度か繰り返してきた。ではその「いのち」とは何なのか。私は説明したことがない。実はこれは、難しい問題なのだ。単純な定義もできないし、聖書から拾い上げて示すこともできない。第一、私自身がそのすべてを理解しているわけではない。理解もしていないことを以て、平気で説教について言及していたのだから、ある意味で詐欺的であったことになる。それは否定しない。
 

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叫び (ルカ18:35-43)

叫び (ルカ18:35-43)

イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。(ルカ18:35)
 
盲人は、賑やかな様子について疑問に思うが、ナザレのイエスが来たのだと知る。芸能人がいるぞ、という程度のものではない。大変な騒ぎであっただろう。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください」と彼は叫ぶ。窘められても、さらに叫ぶ。「先に行く人々が叱りつけて黙らせようとした」というが、その中に私がいないかどうか

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エステル記に覚える憤り

エステル記に覚える憤り

いまの時代、いまの場所で見る風景が、世界の基準であるわけではない。まして、この自分の考え方が適切であるなどという保証は、どこにもないことも分かっている。だが、どうにも不快に感じる聖書の物語がある。
 
そもそも聖書という名前がよくない。そこに人間が描かれている限り、人間がいかに汚く愚かであるか、が伝わってくるようにしかできていないのかもしれない。
 
改めて開いた、エステル記。ユダヤ民族にとっては

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個性について

個性について

いわゆる「キラキラネーム」。誰がこのきらびやかな名称を考えたのかは知らないが、実際子どもを対象にした職務に就いていると、現代は、もはやよみがなが記載された欄がなければ、子どもの名を呼ぶことさえままならぬ社会となっていることを痛感する。
 
果たして、人に読めない文字が、名の役割を果たすのであろうか。古来、名を呼ぶことはその存在の本質を知るということと考えられていた。名を明かさないことで、秘密の力を

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ドラマや映画は虚構となった

ドラマや映画は虚構となった

新型コロナウイルス感染症が警戒された当初は、得体の知れない疫病に、人類は怯えるしかなかった。海外からの悲壮な映像がもたらされることで、日本は、学校を休校するという事態になり、さしあたり人々はそれを受け容れた。さながらあの時の風景は「沈黙の春」であった。
 
テレビや映画の撮影はストップした。連続ドラマも途中で止まり、NHKも最初のほうから再び巻き戻すように放映した。その他、収録が厳しくなった各テレ

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信仰とは何か

信仰とは何か

いったい時間とは何か。誰も私に尋ねないとき、私は分かっているつもりである。だが、尋ねられていざ説明しようと思うと、自分が全く分かっていないことに気づく。正確ではないが、アウグスティヌスは「時間」について、このような契機から、その論を始めている。
 
いったい信仰とは何か。キリスト教や聖書の中心のことのようであり、誰もが熟知しているような顔をしてそこにあるが、さてそれは何か、と問うと答えることがまず

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