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ドラマや映画は虚構となった

新型コロナウイルス感染症が警戒された当初は、得体の知れない疫病に、人類は怯えるしかなかった。海外からの悲壮な映像がもたらされることで、日本は、学校を休校するという事態になり、さしあたり人々はそれを受け容れた。さながらあの時の風景は「沈黙の春」であった。
 
テレビや映画の撮影はストップした。連続ドラマも途中で止まり、NHKも最初のほうから再び巻き戻すように放映した。その他、収録が厳しくなった各テレビ局は、急遽再放送を手配し、やたら昔懐かしいドラマやアニメが、当たり前に放送されるようになった。
 
あれから2年半、感染者数は比較にならないくらい多くなった。但し、ウイルスの性質自体、あの頃よりは認識できてきたし、ワクチン接種も進んだ。経済を回すために、移動の制限もしない夏とし、祭りや催しも「強制自粛」はさせなかった。そのため、8月の中旬から下旬は過去に例を見ない新規感染者を数えた。尤も、あれは検査数の範囲内だけの数字であって、検査も受けられなかった、あるいは受けなかった人を考慮すると、感染者数はあんなものではなかった、というのが冷静な見方であるという。
 
ドラマや映画の撮影も、殆ど止める必要がない状態が続いている。アニメ制作サイドで感染者が出て、特別編を挟む形で遅れながら放映するということもあったが、概ね大きな影響は出ていない、と見るべきであろう。
 
さて、そこで本題である。こうして制作されたドラマや映画の場面を見るに、悉く「マスクなし」である。現実の街は、マスクなしの人をちらほら見るようにもなったが、それでも殆どはマスク姿である。それなのに、映像の中のドラマには、マスクがない。そしてそのことに対してクレームのようなものが挙がっているのを、私は聞いたことがない。
 
私たちはいま、テレビドラマを、完全に「虚構」として見ているに違いない。もとよりドラマはフィクションである。しかし、そこに自分を投影したり、現実を重ねたりできるからこそ、「きゅん」とした気持ちも起こったのであるし、自分の明日の勇気の糧にもなりえたのである。それが、いまは完全に、マスクなしの映像を見て、私たちは無意識のうちにも、それを現実ではないもの、つまり「虚構」として受け止めてしまう事態になってしまっているのではないか、と私は思ったのである。現実とは違う、窓の向こうにあるものだとしか、私たちはそれを感じることができない状態にあるのではないか、と。
 
思い返すのが、NHKのいわゆる朝ドラ、「おかえりモネ」(2021)である。最終場面で、百音と結婚寸前まできた菅波が、呼吸器専門の医師の派遣要請に応えて姿を消す。2020年1月の設定である。ドラマでは説明しないが、現実の新型コロナウイルス感染症のパンデミックを描いていることは明らかである。
 
そしてドラマは、一瞬にして2年半が過ぎる。砂浜にいた百音の前に、菅波が現れる。「2年半会ってない」と菅波が言い、「やっと会えた……」と百音を抱きしめる。視聴者たちの間では感動の拍手が溢れたが、いまこのドラマを思い起こそう。海岸にいた百音たちはマスクをしていない。もちろん菅波もしていない。設定上、これは2022年の夏だったのだ。
 
2021年10月の放送時、流石に1年後にはパンデミックは治まり、マスクなしの生活に戻っているだろうという予想があったのか、希望があったのか知らないが、現実は「おかえりモネ」の見通しとは、違うようになっている。もちろん、2年半も会えないという情況も現実的ではないわけだが、マスクの有無が、現実と虚構との間に、明確な線引きをしてしまった印象は拭えない。
 
それに対して、同じテレビでも、バラエティ番組は違う。スタジオではアクリル板と距離という形で、少しでもマスクなしの画をつくることに努めているが、そのせいかどうか、芸能人の間での感染や濃厚接触は後を絶たない。取材に行くときには、当然マスク姿でなければ撮影できないから、このときには、私たち視聴者は、妙にそこに現実感を覚えるのではないだろうか。街に出かけてのこうしたロケだけが、現実のものだ、というふうに思っているのではないだろうか。
 
このようなことを踏まえて、信仰についても、考えてしまうことがある。聖書を信じているとか、教会で説教をするとか、言葉にすれば同じ事柄ではあるが、果たして聖書の世界を、あるいは聖書の言葉を、その教会では、現実と捉えているのだろうか。それとも、虚構として見ているのだろうか。神の国とは、現実なのか、虚構なのか。この点については、同じ言葉を口にしていたとしても、きっと違うと思う。聖書はこうしてつくられたのですよ、とか、聖書を研究するとこういうことが分かります、とか、いま私たちがマスクなしのドラマを醒めた目で見ているようにしか考えていない例が、多々あるように思われるのだ。
 
聖書を文字通り信じるのはおかしい、と彼らは決まって主張する。けれども、自分たちの都合のよいように誤解していると思う。聖書に書かれてある文字の通りに機械的に能天気に信じているというのは、彼らが相手に定めたい幻想である。聖書を文字通り信じるというのは、聖書の言葉を、虚構だとしない、ということである。それは現実のことだ、と信じることである。聖書の言葉は、いつでも、読む自分において、命の言葉となり、生きて働くということを、信じているのである。聖書への対峙の仕方と姿勢、立ち位置と世界観が、そのように違っているのであって、決して聖書がフィクションであるなどとは考えていないだけのことなのである。
 
いわば、聖書の前に、自分たちがマスクありの生活をしていても、その聖書は自分たちの社会に関わる取材をしているようなものである、とも言えようか。あれはフィクションで、自分とは関係がない、という捉え方が、決してできないタイプの立場である。どなたがどのように聖書に向かおうと、私はその人を説得しようとは思わないが、このタイプの説教にしか、私は興味がないし、そのタイプの信仰にしか、私は同調できない。それだけは、確かである。

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