見出し画像

『30年の旅人』(短編小説)


   その旅人に会ったのは、インド洋を見下ろす安宿だった。

   年齢不詳で、無口で、無愛想で、視線が鋭くて、坊主頭で、身にまとっている服も独特で、最初は話そうとも近づこうとも思わなかった。個人的な実感でいえば一人旅をしている人間には変わり者が多いのだけど、その旅人は変わり者の中にあっても異質だった。「バックパッカー」ではなく「旅人」という言葉の方が似合うと思った。

「あの人は日本人だよ。話してみると結構おもしろいんだよ」
  同じ安宿に数週間滞在しているという、もう一人の日本人の三好が教えてくれた。

   インド南部のコヴァーラムに到着した日、日本を出てからちょうど1ヶ月が過ぎようとしていた。コバルトブルーに輝くビーチを初めて見た瞬間は、40度を優に超える酷暑の南インドを旅してきた疲れがどこかに吹き飛んでしまうほど眩しかった。まさに、そこに見えたのは「地上の楽園」であった。

   生い茂る椰子の木々は他のリゾートと比べてもどこか腕白さがあって、ビーチの砂も信じられないほど白くて繊細だった。ジャングルの延長線上にある天然のビーチという表現が近いかもしれない。

   海の街が橙色に染まる頃、夕食を摂ろうかと宿のテラスに行くと、あの旅人がいた。僕は少し離れたテーブルに座り、“ふかしたじゃがいもに塩をかけたやつ”を注文した。

   しばらくすると、テラスに三好もやってきて、こう言った。
「3人で・・・あっちにいる浜野さんと一緒に食べません?」

   あの旅人は「浜野さん」というらしい。僕は、じゃがいもを持って、浜野さんのテーブルに移動した。浜野さんは嫌な顔もせずどこか歓迎してくれているような仕草をした。思いがけず始まった3人の夕食は、その後、生涯忘れられない時間として僕の記憶に刻まれることになるのだった。

「こちら野村さん。今日コヴァーラムに着いたんだって」
「あっそうなの」
「はじめまして野村です」
「ほら、とりあえず座りなよ」
「すみません、食事ご一緒させていただきます」
「なんだ、かたくるしいねえ」

   一連のやりとりを見ていた三好は「野村さんって丁寧な人だね」と言って笑った。僕も「へへっ。1ヶ月前までサラリーマンだったので・・」とおどけてみせた。

   この1ヶ月で一人旅にもだいぶ慣れ、顔も真っ黒に日焼けして風貌もバックパッカーらしく精悍になってきて、すっかりサラリーマンの灰汁は抜けたと思っていたのだけど、まだまだ体に残っているのだ。

   その時なぜか、「やめます」と言ったあの日の上司の悲しそうな顔が思い浮かんだ。今日も部長や課長にあれこれ言われながら残業しているのかな、同僚のあいつは出世のことばかり考えて相変わらずペコペコしてるのかな、そんなことを想像する。ついちょっと前まで自分も「そこ」にいたのだ。まるで現実感がなかった。

「あの、聞いてもいいですか?」
「いいよ、何?」
「日本を旅立ってからどれくらい経つんですか?」
「そうだね、日本は30年くらい前に出たきり帰ってない」

   浜野さんは遠い目をしている。僕は驚きのあまり「ええっ!」という返答しかできなかった。

   「そういえば、浜野さんって30年間ずっとインドなの?」と、三好が聞いた。

「はっきりと覚えてないけど、東南アジアとか南米とか、あとイランにもいったな。とにかく物価の安い国だね。このインドが一番長いかな。あ、そうそう。インド映画にも出演したことがあるよ。大したお金にはならなかったけど」

   浜野さんは、これまでの波瀾万丈の人生の話をたっぷり聞かせてくれた。日本にいた頃に結婚して子供もいたが離婚して旅に出たという。諸々の事情があって家族や親類には30年以上会っていないのだという。その人生には、さまざまな出来事が散りばめられていた。

   「俺はただ一日一日を生きているだけなんだよ」

   最後に気になる一言をぼそっと言った。僕はうまい相槌が出てこなかった。自分の物語を語っている浜野さんの目は、どこか憂いを帯びているように見えた。

   人の話で身震いしたのははじめてかもしれない。そして自分の想像をはるかに超えた人生があるのだと知った。

   そんな中、一つだけ聞いてみたいことが芽生えてきた。

「こんなこと聞いていいのかわからないんですけど・・」
「ん?」
「この先も日本には帰らないんですか?」
「・・・たぶん帰らんだろうなあ」
「なぜですか」
「帰る理由がないからな」

   浜野さんは、そういう台詞を、誇張もせず、格好もつけずに、自然にさらっと言う人なのだ。

「僕、浜野さんみたいな自由な生き方って憧れちゃいます。まさに人生そのものが旅みたいで・・・」
「俺から言わせりゃ、旅なんて大して楽しくないんだよ」
「えっ」
「みんな本質をわかってないんだよ」
「どういうことですか?」
「本当の旅をしたければ、帰り道という逃げ道を捨てないとね。終わりのない旅をしたらいい。そしていずれは旅で死ぬんだ」
「・・・」
「帰り道があるから、帰る場所があるから、旅するのが楽しいと感じるんじゃないかな」

   その通りだと思った。浜野さんが旅しているのは世界ではなく人生そのものなのだ。本物の旅人に会えた気がした。僕は今日という日を一生忘れないと思った。

   星がきらめく南インドの夜は、さらに更けていく。

(了)

読んでもらえるだけで幸せ。スキしてくれたらもっと幸せ。